ロバート・オッペンハイマー
J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、アメリカ合衆国の理論物理学者[2]。
理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。戦後はアメリカの水爆開発に反対したことなどから公職追放された。
1960年9月に初来日して東京都・大阪府を訪れている。
人生
生い立ち
ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス、母はアシュケナジムの画家エラ・フリードマンである。弟のフランク・オッペンハイマー(英語版)も物理学者。
非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語を学んでいた。最終的には6カ国語を話した。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった。ただし、セーリングと乗馬は得意であった。
大学以降
ハーバード大学に入学し、化学を専攻した。飛び級もあり、1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年でかつ首席で卒業。
イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。
1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936年には両大学の教授となる[2]。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。
ブラックホール研究から原爆開発へ
1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていた。
第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始される。1943年、オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、大日本帝国の広島市・長崎市に投下されることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。
水爆反対活動と公職追放
戦後、10月にハリー・S・トルーマン大統領とホワイトハウスで初対面した際、「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」と語った。トルーマンはこれに憤慨、彼のことを「泣き虫」と罵り、二度と会うことは無かった[3]。
1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命され、1966年まで務めた[2]。
そして原爆の破壊力や人道的影響、論理的問題に関心をもち、核兵器は人類にとって巨大な脅威であり、人類の自滅をもたらすと考えたため、核軍縮を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。
水素爆弾など、より強力な核兵器開発に反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。
これに加え、冷戦を背景にジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行したことが、オッペンハイマーのキャリアに大きな打撃を与えた。妻キティ、弟フランク、フランクの妻ジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン・タットロックは、アメリカ共産党員であり、また自身も党員では無かったものの、共産党系の集会に参加したことが暴露された。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした[4]。(オッペンハイマー事件(英語版)[5])
この処分は、ソ連のスパイ疑惑が持たれていたオッペンハイマーを危険人物とみなしたことによるものであったが、実際にはスパイ行為は確認されなかった[6]。原爆による広島・長崎の惨状を知った後に水爆の開発に反対したことを問題視されていた[6]。
1960年に初来日した。この際、バークレー時代の弟子・日下周一(故人)の両親に会い、弔意を表している。また、9月21日には文京区公会堂にて講演(翌年に大森荘蔵の翻訳で「科学時代における文明の将来」として発表[7])、同月23日には朝永振一郎ら日本人と座談会[8]を行なった。
1947年、物理学教育への貢献によりリヒトマイヤー記念賞受賞。1963年、「エンリコ・フェルミ賞」受賞[5]。アメリカ政府はこの賞の授与により、反共ヒステリック状態でなされた1954年の処分の非を認め、彼の名誉回復を図ったとされている[2]。
1965年、咽頭がんの診断を受け、手術を受けた後、放射線療法と化学療法を続けたが効果はなかった[9]。1967年2月18日、ニュージャージー州プリンストンの自宅で、62歳で死去した[2]。
死後の動き
2022年12月16日、米エネルギー省のグランホルム長官は、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きであった」として取り消したと発表した[10][6]。68年を経ての処分撤回について「歴史の記録を正す責任がある」と説明した[10][6]。
人物
- オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナと自分自身を重ねた。「世界はそれまでと変わってしまった。我は死神なり、世界の破壊者なり」と吐露した。
- オッペンハイマーの親友であるロバート・サーバーの著書「Peace and War」内では、「原子爆弾が善意ある武器かのように語るな」と話している[11]。
- 1930年代の時点でブラックホールを研究するなど革新的な研究に励んでいた。
- エレノア・ルーズベルトとのテレビ討論では「水爆の開発は、人類の倫理の根本に影響を与える。恐怖だけに駆られればこの危機の時代を生き抜くことはできない。恐怖を乗り越える答えは歩み寄る勇気ではないでしょうか」と水爆開発に異議を唱えた[12]。
- 弟のフランクが、ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で、「ロバートは現実世界では使うことのできない(ほど強力な)兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えていた。しかし人々は新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それまでの兵器と同じように扱ったと、絶望していた」と語っている。また、原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。
- 水爆開発に反対して、公職追放された後は私生活も常にFBIの監視下におかれるなど、生涯にわたって抑圧され続けた。
- 1960年9月に来日した際に原爆開発を後悔しているかという質問に対して「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えた。ただし、この発言はFBIの監視下に置かれて以降のものであり、前述のような後悔の念が垣間見えるような発言を避けている。広島県・長崎県を訪れることはなかった。
- 死の2年前のインタビューでは原爆開発について「大義があったと信じている。しかし、科学者として自然について研究することから逸脱して、人類の歴史の流れを変えてしまった。私には答えがない」などと話した。
業績
量子力学におけるボルン-オッペンハイマー近似が、物理学者としての最もよく知られた業績である。また、中性子星の研究にからんで、星の質量がある限度を超えれば、中性子にまで縮退した星がさらに圧潰する可能性を一般相対性理論の帰結として予測し、ブラックホール生成の研究の端緒を開いた(トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界)。しかし、彼のブラックホール研究は、マンハッタン計画への参画によって中断した。陽電子の予知、トンネル効果の発見も重要な業績である。しかし、マンハッタン計画で共に働き、後にノーベル物理学賞を受賞したハンス・ベーテからは「オッペンハイマーの論文には取り立てて注目するようなところが全くない」などと酷評されている[要出典]。
関連作品
- Stingのシングル「ラシアンズ(Russians)」(アルバム『ブルー・タートルの夢』に収録、1985年)にオッペンハイマーの名が出てくる[13]。
- Stingは、2021年発表のアルバム『ザ・ブリッジ』に収録された「ザ・ブック・オブ・ナンバーズ」でも、オッペンハイマーをテーマとしている[14]。
- 2005年、アメリカの作曲家・ジョン・アダムスによってオッペンハイマーを主人公とするオペラ「原爆博士」が上演された。
- 『オッペンハイマー』 - 2023年のアメリカ映画。クリストファー・ノーランが監督し、7月21日から公開。全世界で10億ドルに迫る収益を挙げ、第96回アカデミー賞でも作品、監督賞を始め出演者も技術面でも高く評価され、7部門を受賞。日本では本国公開から8カ月遅れ、ビターズ・エンドの配給で2024年3月29日に公開された[15][16]。原爆開発と悔恨に満ちた後半生においてルイス・ストローズ(米原子力委員会委員長)の糾弾を主軸としつつ、暗殺疑惑があるタットロックの自殺、トルーマンとの会見シーンも盛り込まれている。
- 映画『オッペンハイマー』日本公開約一カ月前の2月19日、NHK総合『映像の世紀 バタフライエフェクト』が、藤永茂を監修に迎え、映画が直接描写しなかった広島・長崎の記録映像も駆使して、アメリカおよび日独の原爆開発と戦後のオッペンハイマーの実像を綴っている。ここでは水素爆弾開発で対立したテラーではなく、師のハイゼンベルクや原子力開発の権威としてオッペンハイマーに取って替わられたアーネスト・ローレンスの嫉妬を示唆した。
オッペンハイマーを演じた俳優
- 1947年の映画『初めか終りか』でヒューム・クローニンが、日本未公開となった1989年の映画『シャドー・メーカーズ』ではドワイト・シュルツが、2023年の伝記映画『オッペンハイマー』ではキリアン・マーフィーが演じている。
- アメリカの舞台劇 In the Matter of J. Robert Oppenheimer(1969年、Broadway)で主演のジョセフ・ワイズマンは Drama Desk Awards 主演男優賞 (舞台)を受賞している[17]。
- デヴィッド・ストラザーンは1989年のテレビ映画『デイ・ワン~衝撃・悪夢の選択』(ジョセフ・サージェント監督)でオッペンハイマーを演じたのち、ドキュメンタリーシリーズ"American Experiment"で2009年に放送された"Trials of J. Robert Oppenheimer"の再現ドラマパートにおいて、二度目のオッペンハイマー役を務めた。
- テレビ映画や再現ドラマのオッペンハイマー役は、このほかにも1980年のドラマシリーズ『オッペンハイマー』でサム・ウォーターストン、同年の"Enola Gay"ではロバート・ウォーデン、1995年の日・米・加合作ドラマ『ヒロシマ 原爆投下までの4か月』でジェフリー・デマン、2007年BBCドキュメンタリー「20世紀“核”の内幕」でジョー・ジョーンズが担っている。
オッペンハイマーの頭文字
J・ロバート・オッペンハイマーの頭文字「J」の意味は多くの混乱の源であった。歴史家アリス・キンボール・スミスおよびチャールズ・ウィンナーが彼らの著書『ロバート・オッペンハイマー:文字と記憶』(ハーバード大学出版社: ケンブリッジ、1980年)の1ページ目で的確に要約している。「ロバートの名前中の「J」はユリウスを表わしたか、あるいはロバートが彼自身以前言った「無意味」であるかどうか、どちらの説でも完全には解決されないかもしれない。彼の兄弟フランクは、「J」が父親の長男を意味する記号であったと推測している。しかし、同時に彼の親がロバートを「ジュニア」とすることを望まなかったという意味を表しているかもしれない。」ピーター・グッドチャイルドの『J・ロバート・オッペンハイマー:世界の破砕者』(ホートン・ミフリン: ボストン、1981年)の中では、ロバートの父親ユリウスが区別するために意味のない頭文字を付け加えたとしている。しかし、グッドチャイルドの本には脚注がなく、この主張の拠り所が不明瞭である。
脚注
- ロバート・オッペンハイマー - Mathematics Genealogy Project
- ^ a b c d e "オッペンハイマー(John Robert Oppenheimer)". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年12月18日閲覧。none
- “広島と長崎に原爆投下後、「原爆の父」オッペンハイマーがトルーマン大統領に言ったこと”. 「私の手は血塗られている」. クーリエ・ジャポン (2023年8月15日). 2024年2月24日閲覧。none
- 原子力委員会は同年5月27日にはオッペンハイマーを「危険人物」と認定している[要出典]。
- ^ a b "オッペンハイマー事件". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年12月18日閲覧。none
- ^ a b c d 「米高官「原爆の父」追放取り消し 68年ぶり「歴史の記録正す」」『共同通信』、2022年12月17日。2022年12月18日閲覧。none
- オッペンハイマー, ロバート; 訳, 大森 荘蔵 (1961). “科学時代における文明の将来”. 科学基礎論研究 5 (2): 76–82. doi:10.4288/kisoron1954.5.2_76.none
- ^ “ロバート・オッペンハイマー|「科学と人間」の会訳|日本人との対話|ARCHIVE”. ARCHIVE. 2024年1月27日閲覧。
- ^ Bird, Kai; Sherwin, Martin J. (2005), American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer., Alfred A. Knopf, ISBN 0-375-41202-6, OCLC 56753298, pp. 585–588.
- ^ a b 「「原爆の父」追放取り消し、68年ぶり 米長官「不公正な手続き」」『毎日新聞』、2022年12月18日。2022年12月18日閲覧。
- ^ “「原爆の父」オッペンハイマーは本当に後悔していた? 核開発への情熱から一転、戦後は水爆反対へ、どんな人物だったのか”. 2024年2月19日閲覧。
- ^ “「原爆の父」オッペンハイマーは本当に後悔していた? 核開発への情熱から一転、戦後は水爆反対へ、どんな人物だったのか”. 2024年2月19日閲覧。
- ^ Sting - Russians. YouTube. A&M Records. 17 April 2010. 2022年12月18日閲覧。
- ^ “特集:スティング、「僕らには架け橋が必要なんだ」新作『ザ・ブリッジ』を本人のコメントとともに徹底解説”. CDJournal (2021年11月19日). 2022年12月18日閲覧。
- ^ 映画.com (2023年). “クリストファー・ノーラン監督作「オッペンハイマー」2024年に日本公開決定 配給はビターズ・エンド : 映画ニュース”. 2023年12月12日閲覧。
- ^ 株式会社リュミエール (2024年). “クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』3月29日公開決定!”. https://fansvoice.jp/. 2024年1月27日閲覧。
- ^ 「Entertainment Awards : A Music, Cinema, Theatre and Broadcasting Guide, 1928 Through 2003」by Don Franks ISBN 978-0-78641798-8
著書(日本語訳)[編集]
関連文献[編集]
- H.キップハルト『オッペンハイマー事件 水爆・国家・人間』岩淵達治訳、雪華社, 1965
- N.ファール・デイビス『ローレンスとオッペンハイマー その乖離の軌跡』菊池正士訳、タイムライフインターナショナル, 1971「タイムライフ・ブックス」
- ジョン・メジャー『機密漏洩事件 水爆とオッペンハイマー』中山善之訳、平凡社, 1974
- 村山磐『オッペンハイマー 科学とデーモンの間』太平出版社, 1977
- ピーター・グッドチャイルド『ヒロシマを壊滅させた男オッペンハイマー』池澤夏樹訳、白水社, 1982、新版1995
- 足立寿美『オッペンハイマーとテラー 原爆の父・水爆の父 悲劇の物理学者たち』現代企画室, 1987
- 中沢志保『オッペンハイマー 原爆の父はなぜ水爆開発に反対したか』中公新書, 1995
- 藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』朝日選書, 1996/ちくま学芸文庫, 2021
- カイ・バード/マーティン・シャーウィン『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』河邉俊彦訳、PHP研究所(上下), 2007/ハヤカワ文庫NF(上中下), 2024
外部リンク[編集]
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