上海
この作品は私の最初の長篇である。私はそのころ、今とは違って、先ず外界を視ることに精神を集中しなければならぬと思っていたので、この作品も、その企画の最終に現れたものであるから、人物よりもむしろ、自然を含む外界の運動体としての海港となって、上海が現れてしまった。昭和七年に私はこの作を改造社から出したが、今見ると、最も力を尽した作品であるので、そのままにしておくには捨て切れぬ愛着を感じ、全篇を改竄することにした。幸い書物展望社の好意により、再び纏めることの出来たのを悦ばしく思う。この書をもって上海の決定版としたい。
横光利一
〔昭和十年〕
[#改丁]満潮になると河は
「あんた、急ぐの。」
春婦の一人が首を参木の方へ振り向けて英語で訊ねた。彼は女の二重になった
「
参木は女と並んで坐ったまま黙っていた。灯を消して
「
参木は煙草を出した。
「毎晩ここかい。」
「ええ。」
「もうお金もないと見えるな。」
「お金もないし、お国もないわ。」
「それや、困ったの。」
霧が
「あんた、行かない。」
「今夜は駄目だよ。」
「つまんないわ。」
女は足を組み合わした。遠くの橋の上を馬車が一台通って行った。参木は時計を出して見た。
「帰ろうか。」と一人の女がいった。
春婦たちは立ち上ると鉄柵に添ってぞろぞろ歩いた。一番後になった若い女が、青ざめた眼でちらりと参木の方を振り返った。すると、参木は煙草を
春婦たちは船を
――お前は百万円掴んだとき、成功したと思うだろう。ところが俺は、首を縄で縛って、踏台を足で蹴りつけたとき、やったぞと思うんだ。――
彼は絶えずその
――俺の生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親の身体だ、親の。俺は
参木に許されていることは、事実、ただ時々古めかしい幼児のことを追想して涙を流すことだけだった。彼は泣くときに思うのである。
――えーい、ひとつ、ここらあたりで泣いてやれ。――
それから、彼はポケットへ両手を突き込んで各国人の
しかし、甲谷がシンガポールから来てからは、参木は久し振りに元気になった。甲谷と彼とは小学校時代からの友達だった。参木は甲谷の妹の競子を深く愛していた。しかし、甲谷がそれを知ったのは、競子が人妻になって後だった。甲谷はいった。
「馬鹿だね、君は、
いったら甲谷は困るにちがいないと、参木は思って黙っていた。そして、今までひとりひそかに困っていたのは参木である。だが、彼は今は一切のことをあきらめてしまっている。――生活の騒ぎのことも、彼女のことも、日本のことも。ただ時々彼は海外から眺めていると、日本の着々として進歩する波動を身に感じて喜ぶことがあるだけだった。しかし、彼は最近、甲谷から競子の
崩れかけた
この豚屋と果物屋との間から、トルコ風呂の看板のかかった家の入口までは、
お柳は客の浴室へ来るときは前からいつも、身体いっぱいに豊富な石鹸の泡を塗っていた。マッサージがすむと、主人は客の身体に石鹸を塗り始めた。――間もなく二人の首が、真面目な白い泡の中から浮き上るとお柳はいった。
「今夜はどちら。」
甲谷は参木と逢わねばならぬことを考えた。
「参木が突堤で待ってるのだが、もう幾時です。」
「そうね、でも、
「それは分らないんですよ。僕は材木会社の外交部にいるもんですから、こちらのフィリッピン材を蹴落してからでなくちゃ、と思っているんです。」
「じゃ、もう奥さまはお探しになりましたの。」
「いや、それは、まアそう急いだことじゃなし、――何も女房のことなんか、今ごろいわなくたって、良いでしょう。」
お柳の泡がいきなり甲谷の額に叩きつけられた。スイッチがひねられた。壁から吹き込む蒸気と一緒に蓄音器がベリーマインを歌い出した。それに合せて、甲谷は小きざみなステップを踏み始めた。すると、ゆっくり絞り出された石鹸の泡は、その中に包んだ肉体を清めながら、ぽたぽた白い花のように
「あなたに馬券分けようか。」
「もうプレミヤムがついてるんですか。」
「それや、つくさ。でも、負けてもいいわよ。」
「ああ、苦しい、
「だって、もういい加減に覚悟を
そのまま、二人の声は切れてしまうと、蒸気もぷつりととまってしまった。
参木は疲れながらトルコ風呂まで帰って来た。しかし、そのときはもう甲谷は参木に逢いに突堤へ行った後だった。参木は応接間のソファーに沈み込んだまま黙っていた。浴場の奥から
「眠いのかい。」と参木は訊ねた。
女は両手で顔を隠して
「風呂は空いてるのかね。」
女が黙って
「じゃ、ひとつ頼もう。」
参木は前からこの無口な女が好きであった。彼女の名はお
「まア、参木さん、しばらくね。」
参木はステッキの握りの上に
「あなたの顔は、いつ見てもつまんなそうね。」と、一人がいった。
「それや、借金があるからさ。」
「だって借金なんか、誰でもあるわ。」
「それじゃ、風呂へでも入れて貰おう。」
女たちはぱっと崩れて笑い出した。そこへお杉が浴室の準備を整えて戻って来た。参木は浴室へ這入ると、寝椅子の上へ仰向けに長くなった。皮膚が湯気に浸って膨れて来た。彼はだんだんに眠くなると、ふとこのまま蒸気を出し放して眠ってみようと考えた。彼はスイッチをひねるとタオルを
「お杉さん。」と参木は故意にお杉の名前をいってみた。
誰も彼には答えなかった。参木はやがてお柳が自分に
「おい、お杉さん、逃げようたって逃さぬぞ。俺の手は
すると、彼の予想とは反対に、急にドアーが開いて誰か出て行く気配がした。この空虚な間に何事が起るのだろう。参木はしばらくじっとしたまま、空気に触れる皮膚に意識を集めていた。と、突然、ドアーの外で、荒々しい音がした。瞬間、彼の上へ突き飛ばされた女があった。すると、女は彼の足元で泣き始めた。お杉だ。――参木は起った事件の一切を了解した。彼はお柳に対して激しい怒りを感じて来た。だが、今怒り出しては、お杉が首になるのは分っていた。参木は自分でタオルを解くと、泣いているお杉の乱れた髪を眺めていた。彼はお杉に黙って浴室から出ると服を着た。それから、彼は別室へ這入ってお柳を呼んだ。お柳は笑いながら這入って来ると、白々しいとぼけた顔で彼にいった。
「まア、随分今夜は遅かったわね。」
「遅いは遅いが、しかし、さっきはどうしたんだ。」
「何が?」
「いや、あのお杉さ。」と参木はいった。
「あの子は駄目よ。
「それで、僕にひっつけようていうんかい。」
「まア、そうしていただけれや、結構だわ。」
参木は自分の戯れが間もなく女一人の生活を奪うのだと気がついた。彼がお杉を救うためには、お柳に頭を下げねばならぬのだ。だが、彼がお柳に頭を下げたら、なお彼女はお杉を
「おい、お柳さん、俺がこんなことをいうのは初めてだが、実は俺は、この間から死ぬことばかり考えていてね。」
「どうしてそんなに死にたいの。」とお柳はひやかすようにいった。
「どうしてって、まだ分らぬ柄でもないだろう。」
「だって、あたしゃ、死ぬ人のことなんか分んないさ。」
「これほど情けを
お柳は参木の肩を叩くといった。
「ふん、黙って聞いてたら、女殺しのようなことをいい出すわね。これじゃ、あたしだって死にたくなるわよ。」
お柳は立ち上ると部屋の中から出ようとした。参木はまたお柳の手を持った。
「おい、何んとかしてくれ。このまま行かれちゃ、俺は今夜は危いんだ。」
「いいよ、あんたなんか死んだって、くたばったって。」
「俺が死んだら、だいいちお前さんが困るじゃないか。」
「さアさア、馬鹿なことを言わないで、放してよ。今夜はあたしだって、死にたいのよ。」
お柳は参木の手を振り切って出ていった。彼はこの馬鹿げた形の狂いを感じると、お柳に対する
「おい、お杉さん。こっちへ来なさい。」
彼はお杉の傍へ近よると彼女を抱きかかえて寝台の上へ連れて来た。お杉はすくみながら寝台の上へ乗せられても、まだ背中を参木に向けたまま泣き続けた。
「おい、おい、泣くな。」と参木はいうと、ひとり仰向きに寝ころんで、また楽しむようにお杉の顔を眺め始めた。
お杉は一寸参木の片手が肩へ触れると、「いやだいやだ。」というように身体を振った。が、彼女は寝台から降りようともせずに、
「さア、俺の話を聞くんだぜ。良いか、昔、昔、ある所に、王様とお姫さまとがありました。」
すると、お杉は急に激しく泣き出した。参木は起き上ると眉を
「さて、俺の帽子はどこいった?」と見廻すと、そのまま部屋の外へ出ていった。
甲谷は突堤へ行ったが参木の姿は見えなかった。ただ掃除夫のうす汚れた赤い
――もし宮子が結婚しないといえば、いや、
踊場の周囲には建物がもたれ合って建っていた。
「実に久し振りだね。この頃は君どうだ。いつ見ても楽しそうな顔をしているのは、君の顔だよ。」
「それが、見た通りの醜態だがね。ああ、そうだ。参木にこの間逢ったら、君は嫁探しに来たっていったが、ほんとうかい。」山口は溢れるような微笑を
「うむ、嫁もついでに探していこうと思っちゃいるんだが、いいのがあるかね。あったら一つ頼みたいね。もっとも、君のセコンドハンドじゃ御免だぜ。」甲谷はにやにや笑いながらホールの中を見廻した。
「いや、ところが、それになかなか話せる奴がいるんだよ。オルガというロシヤ人だが、どうだひとつ。参木の奴にどうかと思ったのだが、あ
「じゃ君にはもう意志はなくなっているんだな、そのオルガというのには?」
「いや、それやある、しかし、ああいう女は他人のものにしとく方が、どうも面白味が多そうなんだよ。」
甲谷は山口の言葉を聞き流しながら、這入って来るときから探しつづけている宮子の姿をまた捜した。だが、宮子の姿はいつまでたっても見えなかった。
「しかし、僕の細君にして、それからまだ君が面目をほどこそうというんじゃ、それや、あんまり面白すぎるじゃないか。」
「いいじゃないか、細君なんかにしなけれや。
山口は
「ときに話は違うが、古屋の奴はどうしている。」と甲谷は訊ねた。
「ああ、古屋か、あの男は芸者の細君を月賦で買っては変えてるよ。」
「まだここらにいるのかね。」
「うむ、いる。前の細君だってまだ全額
「
「御橋も達者だ。しかし、先生、どうもあんまり
しかし、甲谷は山口の話を聞こうともせず、うつろな眼で宮子はどうした、宮子はどうした、と絶えず思いながらまた訊ねつづけていくのであった。
「ふむ、木村はどうした。」
「木村には先日一度逢ったかな。奴さん、相変らず競馬狂でね、いつだかロシヤ人の妾を六人大競馬に連れてって、負け出したのさ。ところが、あの男は
しかし、甲谷は別段面白くもなさそうに、「君はこのごろどうしているんだ。」としばらくたってまた訊ねた。
「俺か、俺はこの頃は建築屋はそっちのけで、死人拾いという奴をやっている。
「それや、どういうことをするんだね。つまり死人の売買か。」と甲谷は訊ねた。
「いや、そんな野蛮なもんじゃないよ。支那人から死体を買い取って掃除をしてやるんだが、一人の死人で、生きてるロシア人の女を七人持てる、七人。それもロシアの貴族だぞ。」
どうだというように山口の唇は
「あッ、あれは
「芳秋蘭って、それや何んだ。」と甲谷は初めて大きな眼を光らせると山口の方へ首をよせた。
「あの女は共産党では、たいへんだ。君の兄貴の
甲谷が振り返って芳秋蘭を見ようとすると、そこへ、細っそりと肉の
「今晩は、お静かだわね。」
「うむ、いま細君の話をしてるところだよ。」と甲谷はいって手を出した。
「まア、そう、じゃ、あたしあちらへ逃げてましょう。」
宮子は身を
「それで、さっきの死人の話だが、何んだか少し込み入った話じゃないか。」
「死人か。まアまア、それより一踊りして来なさい。死人のことは後でもいいさ。」
「それじゃ、一寸失敬。」
甲谷は宮子に追いついて二人で組むと、
「今夜の足は重いわね。あたしはその人の重さで、何を考えてるのかっていうことが、まアだいたい分るのよ。」
「じゃ、僕は?」と甲谷は訊ねた。
「あなたは、奥様が見つかりそうよ。」
「左様。」
実は、甲谷は一人の死人と七人の妾について考えたのだ。――何んと奇怪な生活法ではないか。廃物利用の
「君、さっきの死人の話をもう少し聞かしてくれよ。」
「まア、そう急がなくったって、死人はいつでもじっとしているよ。」
「ところが、貧乏だって、じっとしているさ。」と甲谷はいってまた宮子の方をちらりと見た。
「だって、君は貧乏しているようには見えんじゃないか。」
「いや、それや、僕も僕だが、それより参木の奴のことなんだよ。あ奴をもう少し何んとかしてやらないと、死んでしまう。」
「死ぬって、参木の奴が?」と山口は顎を突き出した。
「うむ、あ奴は近頃、死ぬことばかり考えておるのだ。」
「じゃ、俺に金儲けをさせてくれるようなもんじゃないか。」
甲谷は足をぱっと両方へ拡げると、身を揺り動かして大きな声で笑い出した。
「そうだ、あの男は、今に君に金儲けくらいはさすだろう。」
「それや、面白い。よし、そんならひとつ、参木を俺の会社の社長にしてやろう。」
甲谷は山口の豪傑笑いの中から、参木に対するいくらかの友情を
「君の会社は何んというんだ。」
「いや、名前はまだだが、ひとつ、君から参木の奴に話してみてくれ。あ奴が死人になりたいなんて、それや、もって来いの商売だよ。」
「それで、その死人をどうする会社だ。」
「つまり、人間の骨をそのままの形で保存しとこうっていうんだ。これを輸出すると一人前が二百円になって来る。」
甲谷は二百円もする会社の材木の太さを考えながら、
「しかし、そんなに人間の骨が売れるのか。」と小声で訊ねた。
「君、医者に売るんだよ。医者ならそこは彼らの手先でどこへでも自由が
甲谷は参木が人間製造会社の支配人に納まっている所を想像した。すると、やがて、彼らしい幸福が、骸骨の踊りの中から舞い上って来るのではないかと思われた。
「それで踊りを見ていて、よく骸骨に見えないもんだね。」と甲谷は眉を
「それがこの頃困るんだ。俺の家の地下室は骸骨でいっぱいさ。生きてる人間を見ていても一番先に肋骨が見えてくる。とにかく君、人間という奴は誰でも障子みたいに骨があるんだと思うと、おかしくなるもんだよ。」
笑いながらアブサンを飲む大きな山口の唇が開きかかると、再びダンスが始まり出した。甲谷は立ち上って彼にいった。
「君、ひとつ踊って来るからね、そこから骸骨の踊りでも見ていてくれ。」
甲谷はまた宮子と組んで、モールの下で揺れ始めた男女の背中の中へ流れ込んだ。甲谷は宮子の冷たい耳元で
「君、今夜は
「
「いや、何んでもないさ。いたって当り前のことだよ。」
「いやよ。風儀が悪いじゃないの。」
「だって、結婚しなけれやなお風儀が悪くなるさ。」
「もう、お
しかし、甲谷は山口の眼がうす笑いを浮べて光っているのを見るたびに、いずれどちらも骸骨だと気がつくように、激しく宮子の脊中を人の背中で廻し始めるのであった。そのとき、宮子は山口がしたように、急に甲谷の耳もとで小声でいった。
「あなた、ちょっと、あそこに芳秋蘭が来ているわ。」
甲谷は山口にいわれたまま忘れていた女のことを思い出して振り返った。だが芳秋蘭の姿はもう廻る人の輪の中に流れ込んで見えなかった。
「君、その芳秋蘭という女の方へ、僕をひっぱっていってみてくれないか。さっきも山口がその女の事をいってたが、何んだ。」
宮子は甲谷を引いて逆に流れの中を廻っていった。甲谷はあれかこれかと宮子の視線のままに首を廻わしているうちに、不意に背後の肩の中から、一対の支那の男女の顔が現れた。甲谷は吹かれたように眼を据えると宮子にいった。
「あれか。」
「そう。」
甲谷は宮子を今度は逆に引きながら、芳秋蘭の後から廻っていった。すると、くるくる廻るたびごとに、芳秋蘭の顔も舞いながら、男の肩の彼方から甲谷の方を覗いていた。甲谷はその美しい眼前の女性を、自分の兄の高重も知っているのだと思うと、かすかに微笑を送らずにはいられなかった。しかし、秋蘭の眼は澄み渡ったまま、甲谷の笑顔の前を平然と廻り続けて踊りが
「あの婦人は実に綺麗だ。珍らしい。」
「そうね。珍らしいわ。」
宮子のむッと膨れかかった口元を楽しげに眺めながら、甲谷は山口の傍へ戻って来るとまたいった。
「君、あの芳秋蘭という婦人は珍らしい。どうして君はあの女を知っているんだ?」
「僕は君、これでも君の知らぬ間にアジヤ主義者のオーソリチーになっているのだぜ。この上海で有名な支那人なら、たいていは知ってるさ。」山口は満面脂肪に
「じゃ、僕は以後心を入れかえて君を尊敬するから、ひとつあの婦人を紹介してくれ。」
「いや、それは駄目だ。」と山口はいって手を上げた。
「どうしてだ。」
「だって、君を紹介するのは、日本の恥をさらすようなもんじゃないか。」
「しかし、君がもう代表して恥をさらしてくれているなら、何も僕が
山口は虚を突かれたように大げさに眼を見張った。
「ところが、それが、僕のはお柳の主人の
「じゃ、今夜は思いとまるとしようかね。」
甲谷と山口が、片隅の芳秋蘭のテーブルの方へ視線を奪われて黙り始めると、それに代って、宮子を張り合う外人たちが、夜ごとの騒ぎを始めて快活に動き出した。山口は甲谷の腕を引くと、宮子の方を向きながらいった。
「おい甲谷、君はあの宮子が好きなんじゃないか。」
「そう、まア、見た通りの所だね。」
「ところがあれは、腕が凄いからやめなさい。あそこにいる外人は、見てるとみなあの女のいいなりだよ。」
「じゃ、君も一度は叩かれたことがあるんだな。」
「いや、あの女は、日本人なんか相手にしたら、お目にかからんよ。あれはスパイかも知れないぜ。」
「よろしい。」と甲谷はいうと、昂然と胸を
二人は煙草をとり上げて吸いながら、しばらく外人たちの宮子をからかう会話に耳を傾けて黙っていた。
「あれは君、アメリカ人かい。」と、しばらくして甲谷は訊ねた。
「うむ、あれはパーマーシップビルヂングの社員が二人と、マーカンテイル・マリン・コンパニーが一人だ。ところが、今日はこれならまだ
山口はゆっくり首をめぐらせて、外人たちから芳秋蘭のいるテーブルの方へ向き返った。すると、「おッ」と彼はいって背を起すと、うろたえたように周囲をくるくる見廻しながら甲谷にいった。
「どこへ行った。芳秋蘭?」
甲谷はそれには返事も返さず黙って立ち上ると、山口を捨てていきなり表へ飛び出した。芳秋蘭の黄色な帽子の宝石が、街燈にきらめきながら車の上を揺れていった。甲谷は
――あの女は、あれは素敵だ。あれが俺の嫁になれば、もう世の中は
ブリッジ形の秋蘭の鼻は、ときどき左右の店頭に向きながら、街路樹の葉蔭の間を貫いて
甲谷はふと気がつくと、秋蘭の車が、突然横から現われた水道自動車に喰い留められて停止した。すると、甲谷の車はその隙に割り込んで、秋蘭を追い抜くと同時に、自動車の側面に沿って辷り出した。甲谷の追って来た努力は、全くそこで停止させられねばならぬのだ。彼は振り返って秋蘭を見た。彼女は背広の青年を後に従えて、足を組み直しながら甲谷を見た。甲谷は彼女の顔から、一瞬、舞踏場の記憶を呼び起したかのごとき微動を感じた。しかし、甲谷の車夫は、並んだ自動車が急激に速度を出し始めると同時に、彼もまた一層速力を出して走り出した。秋蘭との距離がだんだん拡がっていった。甲谷は再び振り返って秋蘭を見た。だが、そのときには、もう秋蘭の姿は見えなくて、アカシヤの花蔭に傾いた青い壁が、瓦斯燈の光りを受けながら蒼ざめて連っているのが眼についただけだった。
山口はもう甲谷の帰りが待ちくたびれて、ホールから外へ出た。金色の寝台の金具、
――しかし、待てよ、あの女を
山口は早くお杉を見に行こうと急に思い立つと、立ち
山口はトルコ風呂へ着くと誰も人のいない応接室へ這入り込んだ。じんじんと蒸気を出す壁の振動が、かすかに身体に響いて来た。彼はソファーへもたれて煙草を吸った。
しかし、前方の壁に
「おい。山口君。」
突然、開いたドアーの間から、甲谷の兄の長い高重の顔が現れた。山口は振り返って煙草を上げた。
「しばらくだね。さっきまで君の弟とサラセンで踊ってたんだが、あんまりあれは、上海へ置いとくといけないぜ。」
「じゃ、今夜弟はここへ来るんだな。僕はあ
「いや、それは分らんぞ。君の弟は俺をほったらかして、芳秋蘭の後からつけてったままなんだよ。どうも手も早けりゃ足も早いよ。」
「じゃ、秋蘭は踊場にいたのかい。」と高重は眼を見張った。
「うむ、いた。実は俺も後からつけてみようと思ってたんだが、おさきに君の弟にやられたよ。」
高重と山口はソファーへ並んだ。高重は突き出た淡い口髭の周囲をとがらせながら、黒い顔の中で、一層
「秋蘭が今頃サラセンで踊ってるなんて、それはおかしいぞ。誰かいたか、傍にロシア人でもいなかったか。」
「いたね。一人若い男がついてたよ。」
高重は東洋紡績の工人係りで、芳秋蘭は彼の下に潜んでいる職女であった。その職女が日本人経営の踊場へ来ることに関して、高重の理解し兼ねていることは、
「しかし、いずれ秋蘭だってスパイだろう。どこへだって現れるさ。」と山口はいった。
「ところが、僕の工場には今しきりにロシアの手が這入って来てるのでね。こ
「ロシアか、あれは不思議な
山口はまた立ち上ると、鏡を覗き込みながら、
「どうです。高重さん、いっぱい今夜は?」
「よろしいですとも。」
「それじゃ、一つ。」
山口は好人物の坊主のような円顔を急にてかてか
「駄目、駄目、今日は
「何をごそごそそこで狙っているのだ。」と高重はいった。
山口は高重には答えずに、表へ出ようとすると、湯女の静江が這入って来た。彼女は山口を見ると、いきなりぴったりと彼の胸にくっつくように立ちはだかって、早口でいった。
「あのね、今さきお杉さんが首になったのよ。お神さんが
「どこへいった?」山口は思わず外へ乗り出した。
「どこへって、それがあの人、行くとこなんかあれば誰も心配しやしないけど、そんなとこなんかないんですもの。」
山口は後から来る高重にかまわず、急いで三、四歩通りの方へ歩いていった。しかし、
「お杉の行先が知れたら、すぐ知らせてくれないか。分ったかい。」
彼は暗闇の方へ向き返って、五ドル紙幣を静江に握らせて、また高重の後を追って来た。
「どうも今夜は、金の要ることばかりだよ。」
「何んだ。お杉って?」
「いや、これがなかなか可憐な
高重は山口がお杉の家出で
「これからサラセンへいっても良いが、まさか甲谷は、今頃まで俺を待ってる気遣いもなかろうね。」
「芳秋蘭を追っかけていったのなら、ひょっとしたら、奴、今頃はやられているかもしれないぜ。あの女はいつでもピストルを持ってるからな。」
「しかし、女に親切にして、
「ところが、あの女は大丈夫だ。僕はあの女の正体を、まだ知らないことにしてあるんだ。」
「それや、知ったら逃げられる恐れがあるからな。」
「冗談いっちゃ困るよ。僕はこれでも、今は日本を背負って立っているようなもんだからね。僕があの女に少しでも引かれちゃ、
「国粋主義か、よく分った。それじゃ、いっぱい飲んでからひとつ今夜は議論をしよう。おい。」
と、山口はステッキを上げて
お杉はその夜、参木が去るとお柳に呼ばれて首を切られた。これは参木が早くも寝台の上で予想したほども、確かな心理の現れを形の上で示しただけであった。お杉はしばらく事件の性質が、無論何んのことだか分らなかった。彼女はトルコ風呂の入口から出て来ると、明日からもう再びここへ来ることが出来ぬのだと知り始めた。彼女は露地を出ると、鋪道に閉め出された
お杉は参木の下宿の下まで来ると、火の消えた二階の窓を仰いでみた。彼女はここまで、もう一度参木の顔をただ漫然と眺めに来たのである。それから――彼女はそれからのことは、ただ泣く以外には知らなかった。お杉は漆喰の欄干にもたれたまま片手で額を
夜が更けていった。屋根と屋根とを奥深く割っている泥溝の上から、霧が一層激しく流れて来た。お杉は欄干にもたれたまま、うとうとい眠りをし始めた。すると、急に彼女は靴音を聞いて眼を醒した。見ていると、霧に曇った人影が一人だんだん自分の方へ近づいて来た。お杉はその人影と眼を合した。
「お杉さんか。」と男はいった。
男は芳秋蘭を追ったあと、酔いながら踊場から踊場と追って、参木の所へ帰って来た甲谷であった。
「どうした。今頃、さア、上れ。」
甲谷はお杉の手を持つと引っ張りながら階段を上っていった。お杉は二階へ通されたが、参木の姿は見えなかった。甲谷は部屋の中で裸体になると、トルコ風呂に飛び込むように寝台に身を投げた。
「さア、お杉さん、参木はまだだぞ。僕は寝るよ。疲れた。君はそこらで寝ていてくれ。」
いったかと思うと、甲谷はもう眼を
ふとお杉は夜中におぼろげに眼が醒めた。すると、部屋の中は真暗になっていた。と、その暗の中で、彼女は自分の身体を抱きすくめて来る腕を感じた。お杉は苦しさに抵抗した。しかし、彼女の頭は、まだ子供の押し寄せて来る夢を見ながら、ますます身体に力を込めて逃げようとするのだった。
「あの、――駄目よ、駄目よ。」
彼女は何者にともなく、しきりに激しく声を立てようとした。しかし、声は
翌朝お杉が眼を醒ますと、参木が甲谷と一つの寝台の上で眠っていた。お杉は昨夜の出来事を思い出した。すると、今まで自分を奪ったものは甲谷だとばかり思っていたのに、急に、それは参木ではないかと思い出した。しかし、それをどうして二人に
「メークイホー、デーデホー、パーレーホッホ、パーレーホ。」
お杉は参木の服を壁にかけると湯を
やがて、甲谷が起きてきた。彼はお杉に逢うとタオルを肩に投げかけていった。
「どうだ、眠られたか。」
次に参木が起きてくると、眠そうにお杉に笑いながらいった。
「どうした、昨夜は?」
しかし、お杉は誰にも黙って笑っていた。二人の背中が洗面所の方へ消えていくと、彼女は、そのどちらに自分が奪われているのかますます分らなくなって来るのであった。
参木はお杉を残したまま甲谷と一緒に家を出た。通りは朝の出勤時間で
建物と建物の間から、またひと流れの黄包車が流れて来た。その流れが辻ごとに合すると、更に緊密して行く車に車夫たちの姿は見えなくなり、人々は波の上に半身を浮べた無言の群集となって、同じ速度で辷っていった。参木にはその群集の下に、さらに車を動かす一団の群集が潜んでいるようには見えなかった。彼は煉瓦の建物の岸壁に沿って、
「おい、お杉はいったい、どうしたんだ。」と参木は初めて甲谷に
「じゃ、君も知らないのか。」
「じゃ、君が連れて帰ったんじゃないんだな。」
「馬鹿をいいなさい。俺が帰ったらお杉が戸口に立ってたんじゃないか。」
「ははア、じゃ、首を切られて行くとこがなかったんだ。」
参木は昨夜のお柳の見幕を思い出すと、お杉の
彼は甲谷の顔を眺めてみた。その美しい才気走った眼の周囲から、参木はふと甲谷の妹の競子の容貌を感じ出した。すると、彼はお杉を傷つけたものが自分でなくして、自分の愛人の兄だということに、不満足な安らかさを覚えて来た。殊に、もうすぐ競子の良人が死ぬとすれば――。
「いったい、昨夜はどうしたんだ。」と甲谷は訊いた。
「昨夜か、昨夜は酔っぱらって露地の中で寝てたんだ。君は?」
「僕か、――僕は山口とサラセンで逢って、それから、芳秋蘭という女の後を追っかけた。」
市場から帰って来た一団の黄包車が、花や野菜を満載して流れて来た。参木と甲谷の周囲には、いつの間にか、薔薇や白菜が匂いを立てて揺れていた。それらの花や野菜は、建物の影を切り抜けるたびごとに、朝日を受けてさらさらと爽やかに光っていった。参木は思った。この葬式のような花の流れは、これは競子の良人の死んだ知らせではなかろうかと。すると、彼は、自分の不幸は他人の幸福を恨むが故だと気がついた。もし自分が競子の良人のように幸福であったなら、誰か自分のような不幸なものから、同様に自分の死ぬことを願われていたに相違ない。彼は、自分の周囲の人の流れを見廻した。その
参木が銀行の階段を登って行くと、甲谷はそのまま村松汽船会社へ車を走らせた。汽船会社は甲谷の会社の支配会社で、壮大な大建物の連った商業中心地帯の真中にあった。甲谷は車の上で、昨夜参木と食い違って追い合ったその結果が、お杉にあられもない行為をしてしまったことについて考えた。
――いや、しかしだ。まアまア、五円も包んでやれば、それでおしまいさ。良心か、
これで甲谷の感想はしまいであった。その癖、彼は、参木からお杉を奪ってしまったということによって、自分の妹の愛人に迫っていた危難を、妹のために救ってやったという良心の誇りを感じて勇しくなっていた。
商業中心地帯へ這入ると、並列した銀行めがけて、
甲谷は村松汽船会社へ行く前にその附近にある金塊市場へ立ち寄って覗いてみた。市場はおりしも立ち合いの最中で、ごうごうと渦巻く人波が、ホールの中でもみ合っていた。立ち連った電話の壁のために、うす暗くなった場内の人波は、油汗ににじみながら、売りと買いとの二つの中心へ胸を押しつけ合って流れていた。その二つの中心は、絶えず傾いて叫びながら、
「もう一年だ――もう一年たてば、俺は美事にここで、巨万の富を
彼は椅子の上からホールを見降ろしながら、これが一分ごとに、ロンドンとニューヨークの金塊相場に響きを与えつつあるものとは、どうしても思えなかった。彼は椅子から降りて一つの電話室を覗いてみた。送話器を頭から脱した青年が、ぐったりと腹部をへこませて、背部の電話のパイプのより
村松汽船会社へ甲谷が着いたときは、十時であった。彼は広壮な事務部屋の中央を貫いて、腰から下が廊下になっている通路を通りながら、万遍なく左右の知った社員たちに
「市場
見ると同時に、甲谷からは嫁探しの希望が消えてしまった。これでは旅費の請求さえ不可能にちがいない。間もなく早速帰れと命令が下るのは分っている。――甲谷はイギリス政府の
「よしそれなら。」と甲谷は思った。彼は階段を降りて来た。乞食の子供が彼の後から横になって追っ駈けて来た。彼の頭には宮子もなかった。芳秋蘭もお杉もなかった。無論、乞食の子供にいたっては。ただ、彼にはフィリッピン材の
――切れ目がいかぬ、切れ目が。――
事実、シンガポールのスマトラ材は、フィリッピン材に比べて、截断量が五寸程長かった。この五寸という空間の占有量は、それが支那人に対する歓心とはならず、運送船の
彼は戦闘心を養うために、河を登るフィリッピン材の勢力を眺めに突堤に添って歩いて見た。河の両側には空虚の小舟が、竿を戦のように縦横に立て連ねていた。そのどの船にも、
「これでは駄目だ、これでは。」
ふと見ると、上流から下って来た大きな
すると突然、その橋の上で、一発の銃が鳴った。と、更に続いて連続した。橋の向うの赤色ロシアの領事館の窓ガラスが、輝きながら穴を開けた。見る間に、白衛兵の一隊が、橋の上から湧き上って抜刀した。彼らは
館内ではしばらく銃声が続いていたが、間もなく、赤色の国旗が降ろされて白旗が高く昇り出した。見ていた群集の中から、欧米人の白い拍手が、波のように上った。続いて対岸から、建物の窓々から、船の中から、起りだした。甲谷は昨夜見た芳秋蘭の澄み渡った眼を思い描きながらも、「万歳、万歳、万歳。」と叫んで、彼らに和して手を打った。やがて、抜刀の一隊は自動車に飛び乗ると、群集の中を逃げていった。しかし、この出来事を見ていた支那の群集だけが、いつものことが、いつも起ったように起っただけだというように、騒がなかった。甲谷が穴の開いた領事館の前まで行ったときには、印度人の巡査に
参木の常緑銀行では、その日の閉鎖時間が
参木はこの噂を耳にすると愉快になった。やがて現金輸送に従う者はなくなるだろう。すれば、専務が困るにちがいないと。そうして、それは、事実になった。現金輸送のときになると、突然輸送係りの者が辞職した。
銀行の内部は
「もうこうなれば、いくら賞与をかけても行くものはないと思いますから、こういう場合は、日頃の専務の御手腕に従って、専務自身が行かれるべきだと思います。」
「
「それは専務が一番好く御承知のはずだと僕は思います。銀行にとって、現金輸送が不可能になったということは、最も専務がその責任を負って活動しなければならぬ時機だと思います。」
「君の意志はよく分った。」と専務はいうと片眼を大きく開きながら、指先きを椅子の上で敏捷に動かした。
「それで君は、僕がいなくなったら、この銀行がどうなるかということも、勿論知っているのだろうね。」と専務は訊ねた。
「それや、知らないこともありません。しかし、あなたがいなくなると
「よし、もう分った。」
専務は行員の沈黙のうちで、傲然として窓の外の風景を
「じゃ、参木君はもう帰ってくれ給え。」と専務はいった。
参木は黙って入口の方へ歩いた。が、入口のハンドルを握ると振り返った。
「僕は明日から来なくともいいんでしょうか。」
「それは、君の意志の自由にやり給え。」
「僕の意志だと、また出て来るかも知れませんが。」
「じゃ、なるべく遠慮するようにしてくれ給え。」
「承知しました。」
参木は銀行を出ると、やったなと思った。が、もし
お杉は街から街を歩いて参木の家の方へ帰って来た。どこか自分を使う所がないかと、貼り紙の出ている壁を捜しながら。ふと彼女は露路の入口で
ふとお杉は肩を叩かれて振り返った。すると、参木が彼女の後に立って笑っていた。お杉は一寸お辞儀をしたが耳を中心に彼女の顔がだんだん
「御飯を食べに行こう。」と参木はいって歩き出した。
お杉は参木の後から従って歩いた。もういつの間にか夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壺から、ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男の乞食が彼に手を出していった。
「君一文くれ給え。どうも革命にやられてね、行く所もなければ食う所もなし、困っているんだ。これじゃ、今にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれ給え。」
「馬車にしようか。」と参木はお杉にいった。
お杉は小さな声で頷いた。馬車屋の前では、主婦が馬の口の傍で
参木はお杉に自分も首になったことを話そうかと思った。しかし、それではお杉を
「僕はあんたから何も聞かないが、多分首でも切られたんだろうね。」
「ええ。あなたがお帰りになってから、すぐ後で。」
「そう。じゃ、心配することはない。僕の所には、あんたがいたいだけいるがいい。」
お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何をいいたそうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼には、彼女が何をいい出そうと、今は何の感動も受けないであろうと思った。露路の裏の方でしきりに爆竹が鳴った。アメリカの水兵たちがステッキを振り上げて車夫を叩きながら、
二人は馬車から降りるとまた人込の中を歩いた。立ったまま動かない人込みは、ただ唾を叶きながら
「どうだ、お杉さん。あんたは日本に帰りたいと思わんか。」
「ええ。」
「もっとも今から帰ったって、仕様がないね。」
参木は料理の来るまで、欄干にもたれて
――俺の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身体も。――
その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良いのかと考えているのである。参木は自分たちの周囲に流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの女は、各国人の男性の股から股をくぐって生活している。そうして男は、各国人の最下層の乞食となって。――参木は思った。
――それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。
人は、自分の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で乞食をする方が楽ではないか。――それならと参木は考えた。
――あのロシア人たちに、われわれは同情する必要は少しもない。
このような非情な、明確な論理の最後で、ふと参木は、お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考えた。すると、彼は、鬱勃として揺れ出して来ている支那の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって
参木に
「どうだ、お杉さん、歌えよ、恥しいのかい。何に、帰りたい、馬鹿をいえ。」
参木はお杉を引き寄せると片肱を彼女の膝へつこうとした。すると、肱が
「あなた、いらっしゃいよ。」
「いや、俺のはこっちだ。」と参木は後にいるお杉を指差した。
彼はふと、お杉もしまいに、このように露路の入口へ立つのではないかと思った。そして、自分は乞食になって、路の真中に坐っている。――しかし、彼は別に何の悲しみも感じなかった。参木はお杉の手を曳いて歩いた。足が乱れて時々お杉の肩にもたれかかった。
「おい、お杉さん、俺は明日から乞食になるかも知れないぜ。俺が乞食になったら、お杉さんはどうしてくれる。」
お杉は大きな眼で参木の支えになりながら笑っていた。銃を
「どうです、十枚三円。」
写真は二人の胸の間に隠されたまま、怪しい姿を跳ね始めた。お杉は参木の肩越しに写真を見た。すると、彼女は急に顔をそむけて歩き出した。しばらくすると、参木は黙って彼女の後からついて来た。彼は年来の潔白が、一時に泥のように崩れ出すのを感じた。
「お杉さん。」と参木はいった。
お杉は赤くなったまま振り返った。が、またすぐ彼女は歩き出した。参木は前を行く彼女の身体に手が延びそうな危険を感じた。今夜は危い、今夜は、と彼は思った。
「お杉さん、今夜は一寸用事があるから、あんた一人、さきへ帰っていてくれないか。」
そういうと、彼は逆にくるりと廻って、悲しげに歩いていった。
そのとき、ふと彼は通りすがりの、女が女に見えぬ茶館へ上っていった。
広い堂内は交換局のように騒いでいた。その
参木はこの無数の女に洗われるたびごとに、だんだん慾情が消えていった。彼は椅子へ腰を下ろすと煙草を吸った。テーブルの上に盛り上った女の群れが、しなしな揺れる天蓋のように、彼の顔を覗き込んだ。彼は銀貨を掌の上に乗せてみた。と、女の群れが、
参木は茶館を出ると水を探した。もう身体がぐったりと疲れていた。彼は再び自分を待ち受けているお杉の身体を思い出した。
「危い、危い。」と彼はうめくように
彼は競子の
すると、参木は不意に肩を叩かれた。振り向くと、さっきの支那人がまた写真を持って彼の後に立っていた。
「どうです、十枚二円。」
参木はこの風のような支那人に恐怖を感じて
「どうです、十枚一円。」
瞬間、参木は閃めいた一つの思想に捉われて興奮した。
――人間は、真に人間に対して客観的になるためには、世人の繁殖運動を眼前に見詰めなければ、駄目である。――と。彼はしばらくして、追い込まれるように露路の中へ這入っていった。露路の奥には、阿片に慄えた女の群れがべったり壁にひっついて並んでいた。
プラターンの花からは、花が吹雪のようにこぼれていた。宮子は甲谷に腕を持たれて歩いて来た。栗に似たひしゃげた
「あたし、ここの電信局の技師さんと十三日間踊ったことがあったのよ。フランス人でミシェルっていうの。あたし、ミシェルは好きだったわ。どうしてるかしら、あの人。」
踊り場からようやく初めて二
「今夜だけは静に取扱ってもらいたいもんだね。何しろこの頃は急がしくって、日記をつけている暇もろくろくないんだから。」
「あたしだってこの通り急がしいわよ。あなたはあたしを見ると、好きだ好きだと
「じゃ、今の所はイタリア人と競争かい。」と甲谷はいった。
「だって、あたしはこれでも、容子さんと競争なのよ。あのイタリア人はあたしと容子さんとをいらいらばかりさせてるの。だから、あたし、今度はアメリカ人とばっかり踊ってやるの。」
「道理で旗色はどうも悪いよ。」
宮子は毛皮の中で首を縮めて笑い出した。
「そうよ、だって、外国人はお客さんだわ。あなたなんか、少しはあたしたちと共謀して、外国人からお金をとらなきあ駄目じゃないの。こんなあたしや秋蘭さんなんか、いくら追い廻したって、始まりやしないわ。」
哲学は到る所から
――まア、あなたは外国人のようだわね。――
だが、宮子の前で外人らしさを外人と競争することは、甲谷にとっては不利であった。彼はもう十日間も宮子の踊場へ通って来た。だが、宮子の眼は、
「まア、日本人は、後にしてよ。」といつもいう。
この支那の海港の踊子の虚栄心は、いくたりの外人が切符を自分にばかり集めるかを計算し合うことである。そうして、宮子はこの計算では、常にナンバー・ワンの折紙をつけられているのであった。
甲谷は十日間の三分の一を、その自由なフランス語とドイツ語とで外人と張り合った。後の三分の一の力を、金と饒舌に注ぎ込んだ。しかし、この宮子の高ぶった誇りの穴へ落ち込んだ日本人――甲谷が、宮子の誇りを無くするためには、彼はあまりに誇りすぎていたのである。甲谷はだんだん
微風に吹きつけられたプラターンの花の群れは、菩提樹の幹へ突きあたって廻っていた。その白い花々は三方から吹き寄せられると、芝生にひっかかりながら、小径の砂の上を
「まアいやね、この先は真暗だわ。」と宮子は彼に寄りそっていった。
「大丈夫だよ、行こう。」
甲谷は公園の芝生を突き切ると光りの届かぬ繁みの方へ廻っていった。宮子はその繁みの向うに何があるのかまで知っていた。彼女はミシェルとそこで、池の傍で、過ぎた日曜のある日の晩、どうして二人が一時間の時間を忘れたかを覚えている。まア、何んと男は同じ所を好むのであろう。彼女はそこで、甲谷が何をするかをまで知っているのだった。――甲谷は宮子の回想を案内するかのように、水草の沈んだ池の傍まで歩いて来た。
「もうこのさきは駄目だわ。ここらあたりで帰りましょうよ。」と宮子はいった。
宮子はひとりで甲谷から放れると、ちらりと一叢の芽を出した灌木を眺めながら、門の方へ歩いていった。
甲谷は宮子の後姿を見詰めていた。彼は彼女の足を
枝を
「瓦斯燈のある所なら、あたし、誰とでも仲良く出来るのよ。」
勝ち誇った華奢な宮子の微笑が、長く続いた青葉のトンネルの下を
「これからカルトンまで歩いていこう。」
「あたし、パレス・ホテルへ行きたいの。」
今は甲谷は、池の傍でズボンの折目を乱さなかったという巧みさを誇るかのように快活になって来た。
「こうして手を組み出すと、まるで生活が明るくなるね。これや全く不思議だよ。」
「そりゃ、あたしたちは踊子だからよ。」
「しかし、君らはダンスをするのが目的なのか、それとも君らはまア――。」
「もう沢山。あたしたちが結婚すれば、堕落するのと同じなのよ。だから、もう結婚のお話だけはまっ
「いや、僕らは君を追っかけては振り廻され、追っかけては振り廻されているのは、これやいったい、どうしたもんだろうって考えてるのさ。」
宮子は突然、甲谷に見られていない片頬に、
「そりゃ、なかなかむつかしいわ。あなたは社交ダンスの踊り方を御存知ないのよ。いつでもあたしたち、女は男のするままの姿勢になって踊るべしっていわれてるんでしょう。だから、あたしのような踊子たちは、踊らないときだけでも自由に踊らなくちゃたまんないわよ。」
甲谷は
甲谷と宮子は、河岸のパレス・ホテルへ着くと、ロビーの椅子に向い合った。大伽藍のように壮麗な側壁、天空を
「あなた、ここへもう
「何んだそれは、君の例の恋人か?」
「そう、まア、恋人ね。御免なさい。ちょっと今夜はいたずらがしたくって、あなたを
甲谷はひと息呼吸を吸い込んだ。すると、宮子は笑いながらまたいった。
「だって、あたしは休日でしょう。休みの日には、せいぜい沢山、お客さんを喜ばせておかないと、休日にはならないわよ。つまり、今日があたしの本当の働き日なの。世間の人とは反対よ。」
「ドイツ人って、あのいつものフィルゼルとかいう
「ええ、そう、だけどあれでもアルゲマイネ・ゲゼルシャフトの
「じゃ、
「それは駄目よ。まだまだそれからが大変なんだから。パーマスシップのルースとも一寸逢わなきアならないし、マリンのバースウィックとも逢わなきあならないし。ほんとに、あたし、今夜はやれやれというとこなの。」
甲谷は時計を見上げると立ち上った。
「それじゃ、僕はこれから、サラセンへいって、のんきにひと晩踊ってやろう。さようなら。」
「さようなら。後であたしも、誰かをつれて一緒にいくわ。」
「この女は淋しがりやで、正直で、音楽が帝政時代みたいに好きなんだ。君が遊んでいるならしばらくよろしく頼んだよ。いや、何、その間は君に自由の権利を与えるよ。」
参木は明らかに山口から嘲弄されたのを知っていた。だが、彼は山口からアジヤ主義の講義で
「よし、それならしばらく借りよう。その間に、君は僕の仕事を見つけておいてくれ給え。」
参木は三日間、ほとんどロシアの知事の生活と、チェホフとチャイコフスキーとボルシェビーキと日本と、カスピ海の腸詰の話とで暮して来た。しかし、ふと彼は家に残して来たお杉の処置を考えると、その場所とは不似合な憂鬱に落ち込んだ。
オルガは今も参木の顔が黙々として暗くなると、せき立てるように足を早めて英語でいった。
「駄目、駄目、あなたはどんな嬉しそうな時でも、悲しそうだわ。」
「いや、あなたは、日本人の表情をまだよく知っちゃいないんです。」
「嘘よ、あたしはちゃんと知ってるの。山口はあなたのことをいっていたわ。」
「山口なんか、
「嘘だわ。あたし、山口からいいつかっているの。あなたは死にたい死にたいといってる人なんだそうですから、なるたけ楽しそうにするようにって。」
「馬鹿な、僕はね、オルガさん、あなたは淋しがりやだから、よろしく頼むって山口からいわれてるんですよ。」
「まア、そう。山口も
「それや、そうですよ。」
眠った街の底でオルガの顔の繊細な波だけが、波紋のように鮮やかに動いていた。アカシヤの葉に包まれた瓦斯燈には
「ね、参木さん、隠しちゃいやよ、あの山口ね、あの山口には五人の女があるんでしょう。」
恐らく五人どころではないだろう。だが、参木はオルガを慰めなければならぬ命令を山口から受けているのだ。
「僕は山口のことについては、実は何も知らないし、山口だって僕のことは、何も知りゃしないのです。しかし、それや何かの間違いじゃありませんか。」
「あなたは、あたしのいうことがお分りにならないんだわ。山口が女を幾人持とうと、あたしには何んでもないの。ただね、あたし、あなたがもう少しあたしの傍にいて下されば、と思うのよ。」
参木はもう三日間、ブロークンな英語の整理に疲れていた。それに、このオルガの溜息に
「オルガさんは、いつかバザロフのお話をなすったですね。あのツルゲネーフのバザロフの。」
「ええ、ええ、あの唯物主義者はボルシェビーキの前身ですわ。」
「ところが、あれが僕の現在なのですよ。」
「まア、あなたは、それじゃ、あたしたちがどんなに困らされたかということも、御存知ないのね。」
「いや、それは知っていますとも。しかし、バザロフはボルシェビーキじゃありませんよ。あれは唯物主義者でもない虚無主義者でもない、物理主義者なんです。これはロシア人にはよく分らないと思うんですが、一番よく知っているのは支那人です。支那人は唯物主義者の一歩進んだ物理主義者の集団です。」
「あたしには、あなたの
――つまり、愛の言葉を聞きかけたら、わけの分らぬことをいうが良いという主義なんだ、と参木は思うと淋しくなった。オルガは一層しおれて歩き出した。街角の瓦斯燈の下では、青ざめた
「あーあ、あたし、モスコウへ帰りたい。」とオルガはいった。
参木は山口の家へ着くと、自分の部屋に当てられた一室へ這入った。彼はひとりになって寝台の上へ仰向きに倒れると、急に東京の競子のことを思い出した。もし死にかかっている競子の
――この心の中に去来する幻影は、これはいったい
そのとき、今別れたはずのオルガが突然這入って来て彼にいった。
「まア、山口はいないのよ。あなた、捜して頂戴、あたし、これからひとり帰らなきゃならないんだわ。あああ、いやだ、あたし、モスコウへ帰りたい。」
オルガはいきなり参木の寝ている寝台の上へ倒れると、泣き始めた。参木は、これが喜ぶべき結果になるか悲しむべき結果になるかを考えながら、オルガの背中を撫でてみた。すると、オルガは首を振り立てて怒ったように彼にいった。
「あなた、そこを降りて頂戴、あたし、今夜はひとりで寝るんです。」
参木は黙って寝台から降りると靴を
「じゃ、お休みなさい。さようなら。」
彼が会釈をして部屋から出ようとすると、オルガは不意に彼の胸に飛びついて来た。
「いや、いや、出ちゃ――。」
「だって、ここにこうして一晩立ってるのは、困りますよ。」
「ボルシェビーキ、悪魔、あなたたちはあたしをこんなにしたんです。」
参木は弓なりに
「僕はボルシェビーキじゃありませんよ。」
「そうよ。あなたはボルシェビーキです。そうでなくちゃ、あなたのように冷淡な人なんか、いやしません。」
「だいたい、僕がここにこうして寝ているとき、僕を叩き起して、代りに自分がベッドを
オルガは唇を噛み
「オルガさん、そんなことをしちゃ、この服が破れるじゃないですか。」
「悪魔。」
「僕は失職してるんです。服が破れたら、明日から、――」
いいつつ参木はおかしくなって、げらげらと笑い出した。オルガはうむうむ
「オルガさん、放しなさい。殴りますよ。」
しかし、オルガはなおも歯を食い縛ったまま彼の首を締めつけた。彼は呼吸が苦しくなると、咳が出た。
「オルガ、オルガ、――」
参木はオルガを
「馬鹿、馬鹿。」
彼女は真青になったまま、再び猛然と彼の頭の上へ飛びかかった。彼は風の中でオルガの身体を受けとめると、背後へよろめいて、壁の鏡面へ手をついた。オルガは彼の肩口へ食いつくと、首を振った。参木は押しつける筋肉のうねりと、鏡面にしぼり出されて長くなった。やがて、彼と彼女との肉体は、狂気と生との一線の上で、うなりながら混雑した。と、二人は、今は誰が誰だか分らぬ棒のように放心したままばったりと横に倒れた。
参木はしばらくオルガのなすがままにまかせていた。オルガは彼の額の前で
「まア、あなたは可愛らしい。参木、お休みなさいな。ここは、ほら、こんな床の上じゃないの。風邪をひいてよ、さアさア。」
オルガは参木の頭を持ち上げようとした。が、彼女はまたそのまま坐り込むといった。
「参木、あなたはあたしを忘れちゃいやよ。あなたはあたしを、日本へ連れてって下さるでしょう。あたし、日本が見たいの。ね、参木、何んとか
オルガの唇が参木の顔の全面を、
「まあ参木は強いわね。あたしをここへ投げつけたのよ。あたしあのとき、眼が廻ってくるくるしたわよ。だけど、あたし、もういいの。」
オルガはベッドの中へ飛び込むと、ひとり毛布を冠ったまま膝でダンスをし始めた。しかし、参木は横たわったまま起きて来なかった。オルガは毛布の中から頭を上げると覗いてみた。
「参木、どうしたの。」
参木はようやく起き上ると、オルガから顔をそむけて部屋を出ようとした。
「参木、どこ行くの。」
彼は黙ってどしんと肩でドアーを開けかけた。すると、オルガは毛布を引き摺ったまま彼の傍へ駈けて来た。
「いやだわ。参木、出るならあたしも連れてって。」
参木はオルガの顔を、まるで投げ出された足でも見るように眺めていた。が、彼はまたそのまま出ようとした。
「いやよ、いやよ。あたし、ひとりなら死んでしまう。」
「うるさい。」
参木はオルガを突き飛ばした。オルガはぶるぶる慄えると、わッと声を上げて泣き出した。参木は素早くドアーを開けて部屋の外へ飛び出した。オルガは屏風のように傾いて彼の後から駈けて来た。彼女は階段の降り口の上で参木の片腕をつかまえた。
「参木、あなたはあたしから逃げるんだわ。いやだ、いやだ。」
ばたばた足を踏みながら、彼女は彼の手を濡れた顔へ押しつけた。参木はしばらく黙って立っていた。が、彼は握られた手を振り切ると、また階段を降り始めた。オルガは彼のシャツをひっ掴んだ。彼女の身体は
「参木、待って、待って。」
引き摺られるオルガの
夜のその通りの先端には河があった。波立たぬ水は
泥の中から起重機の群れが、錆びついた歯をむき出したまま休んでいた。積み上げられた木材。泥の中へ崩れ込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜っ葉の山。舷側の
Pouco tempo somente
De Pressa de cima abaixo
そうだ。辰江のように客さえ取れば、と彼女は思うと、急に橋の上で、生き生きと空腹を感じて来た。彼女は朝から食べた食物を数えてみた。
――
だが、お杉の頭には、辰江の絹の靴下が、珍稀な歓楽を詰めた袋のようにちらちらした。唇の紅の色が、特別な男の舌のように、秘密を持って膨れて見えた。と、彼女は、またいつものように、自分を奪ったものは参木であろうか、甲谷であろうかと迷い出した。彼女は、あの夜の出来事が――自分を奪ったあの男は、二人の中のどちらであろうかと思い煩う念力のために、きりきり廻った無謀な風のように中心を無くし出した。そうしてお杉は、今は一切のことが分らぬままに、女の中の最後の生活へと早道をとり始めたのだ。
胡弓の音が遠く泥の中から聞えて来た。お杉は橋を渡ると、見覚えた春婦のように通る男の顔を眺めてみた。彼女の前の店屋では、べたべた濡れた臓物の中で、口を開いた支那人が眠っていた。起重機の切れた鎖の下で、花を刺した前髪の少女が、ランプのホヤを売っていた。河岸に積み上った車の腐った輪の中から、
「ちがう、ちがう。」
彼女は
この雑然とした街角の奥に
間もなくこの露骨に印度人の集会を嫌う英国風の街の中を、草色の英国の駐屯兵が隊部にロシアの白衛兵を加えながら、楽隊を先駆にして進んで来た。その後から、真赤な装甲自動車が機関銃の銃口を触角のように廻しながら、黒々と押し黙った印度人の団塊の前を通っていった。
山口は印度の志士のアムリから電話を受けて、参木と一緒に来たのである。だが、来て見れば機関銃の暗い筒口の前で、印度人たちは眼を光らせたまま沈黙しているだけだった。しかし、それにしても、アジヤ主義者の山口は、英国の官憲と同様に印度人を遮断している支那の軍隊に腹立たしさを感じて来た。が、ふと、彼はアムリが彼を呼び出した原因を、同時に感じて笑い出した。
――この腹立たしさを俺に呼び起すためだとすると、成る程、アムリの奴め――
しかし、瞬間、彼は支那の軍隊の遮断している道路が、その街角から彼らの方向へ向っては、支那の管轄区域だということに気がついた。
――これじゃ、アムリの奴、日本人に考えろといいやがったんだ。馬鹿にするな。馬鹿に。――
しかし、次の瞬間、彼は支那兵と対峙している印度人の集団を、英国の官憲として使われている印度人の警官が圧迫しているのを発見した。
こうなると、山口はアムリの意志がどこにあったのか分らなくなって来た。――この馬鹿な印度人の醜態を見るが良いといったのか、支那の国内で暴れている英国兵を、支持している支那の兵士のその顔を見よといったのか。――
しかし、山口はアムリと同様、このアジヤを聯結させて白禍に備える活動分子の一人として、眼前の支那と印度の無力な友の顔を見ていると、笑うことは出来なかった。彼は街路で、この民族の衝突し合っている事件とは無関心に、笊に盛り上っている茹卵を見つけると、支那人の顔を思い出した。足元の屋台の上に、
「数の多いということは、ただ
「そうだ。」と参木は、不意に、自分にいわれたように返事をした。
事実、山口はアムリに逢うと、アムリの誇る「印度人の数の多数」を、いつもこの言葉で粉砕するのが癖であった。すると、アムリは山口の誇る日本の軍国主義を皮肉った。
――しかし日本の軍国主義こそ、東洋の白禍を救い上げている唯一の武器ではないか。その他に何がある。支那を見よ、印度を見よ、シャムを見よ、ペルシャを見よ。日本の軍国主義を認めるということは、これは東洋の公理である。――
山口は鋪道の上を歩きながら、ひとり過ぎた日のアジヤ主義者の会合を思い出して興奮した。その日は支那の
「支那も印度も日本の軍国主義を認めてこそ、アジヤの聯結が可能になる。
すると、アムリは皮肉にいった。
「日本が南満を九十九年間租借したということによって、われわれの同志、山口と李英朴がかくのごとく相い争うという事実は、日本が少くとも、九十九年間東洋の同志をかく論議せしめるであろうということを、予想せしめて充分である。しかし、印度はこの日支の係争如何に係らず独立する。もしその独立の日が来たならば、印度は支那から、いかなる海外の勢力をも駆逐せずにはおかぬであろう。印度のために、東洋の平和のために。」
だが、印度の独立の日までに、支那を滅ぼすものは
――それは明らかに日本の軍国主義でもない。英国の資本主義でもない。それはロシアのマルキシズムか支那自身の軍国か、いや
この東洋を憂いつつ緊張している山口の傍では、参木は前からどういえば昨夜のオルガとの交渉を、彼に理解さすことが出来るだろうかと考えていたのである。彼は午後の二時から甲谷と逢わねばならぬ約束を、電話でしたのだ。甲谷と逢えば、競子のこととお杉のこととを聞かねばならぬ。だが、それより前に、いったいオルガをどう処置したら良いであろう。――
彼は自分がどれほどオルガに抵抗したかを考えた。彼はオルガがどれほど自分に肉迫したかを考えた。しかし、その結果が、このようにオルガの処置について苦しまねばならぬとは。――
「君、もう今日から、僕は君の所へは帰らないよ。」と参木はいった。
「
不意に急所へ殺到して来た山口の質問を、参木は受けとめることが出来なかった。
「うむ、あれは恐い。」
「ところが、僕はあれから君を逃がさないようにっていいつかってあるんだぜ。逃げちゃ困るよ、逃げちゃ。」
「いや、もう御免こうむるよ。」
「困ったね、そりゃ印度のことよりこっちの方が難かしくなるんじゃないか。」
参木は突然げらげら笑い出した山口の顔を見ていると、彼は腹の中に隠れていた伏線を感じて恐くなった。
「今日はこれから僕を逃がしてくれ。二時に甲谷と逢わねばならんのだ。」
「君は馬鹿だよ。あの面白い女から逃げ出すなんて、何んて阿呆だ。」
参木は山口の嘲笑を背中に受けながら、パーテル・カフェーの方へ急いでいった。ただ競子の良人が死んだかどうかを知りたいためにである。
甲谷はその日の中に三つの材木会社と契約を結んで来た。彼は軽快な祝報を先ずシンガポールの本社へ打った。
「余の活躍かくのごとし。フィリッピン材をして蒼白ならしめること、期して待て。」
彼は参木から支配会社へかかっていた電話を思い出すと、速力の早そうな
彼は、外人たちの経済力の源泉となりつつある支那の土貨に対して、彼らの向ける鋭い垂直トラスト尖鋒を、あくまで
――それには、先ず、フィリッピン材の馬を射よ、馬を。――
この燃え上って来た彼の妄想の横では、桟橋が黒い歯のように並んでいた。のろく揚げ荷の移動している彼方では、金具を光らせたモーターボートが縦横に馳けていた。波と湯気とを嫌らって逃げる「
フィリッピン材何物ぞ。
こう思ってパーテルへ這入ると、休んだ煽風器の羽根の下で、これはまたあまりに
「どうも一度も家へ帰らないから、少々きまりが悪くなってね。」
「それや、僕もだ。まだあれから一度も家へは帰らないよ。」
「それじゃ、君もか。」
二人は同時に、残されたお杉のことを考えた。が、甲谷は浮き上って来る喜びに落ちつくことが出来なかった。
「おい君、今日はこれで三つの会社を落して来たんだ。まア、ざっとこれで三万円。」
「もう喜ばすような話はやめてくれ。僕は君と別れた日から首になった。」
「首か。」
「うむ、少々、痛い所を突いてみた。」
「だから、君は馬鹿だというんだ。馬鹿な――。」
重い時計の振り子の下で、帝政ロシアの幹部派たちがいつもの憂鬱な顔を並べて密談に
「おい君、ここは出たっていいんだろう。」
「うむ、しかし、僕は今日はここは落ちついて好きなんだ。首を切られたときはこういう所が一番だよ。」
「まるでここは君みたいな所だね。首を切られたものの寄り合いでさ。」
「そう急に馬鹿扱いにするなよ。僕はこれでも貴様の懐を狙っているんだぞ。」
「いや、これはこれは。これじゃ、どっちが帝政派か分らんが。ひとつ、あそこのロシア人に聞いてやろう。」
ひどく愉快そうに笑っている甲谷の大口を見ていると、参木はもうこの日の甲谷を信用することが出来なくなった。甲谷はいった。
「さて、ひとつ、という所だが、どうだい、今日は僕のいうままになってくれるのか。」
「君のお附きは愉快じゃないね。君の金を皆渡せよ。」
「ところが、そこに僕の頼みがあるのさ。この眼の色を見てくれたって分るだろう。」
「そんなら、こっちの眼の色だって分るだろう。首を切られてお附きになるなら、首なんか切られなくたってすんだんだ。」
「頑固な奴だね。支那の美徳は金に服従する所にあるんじゃないか。まだ君は精魂が抜けぬから馬鹿なんだ。さて、馬鹿な奴は馬鹿にして、と、ボーイ。」
ボーイが来ると、甲谷は立ち上ってまたいった。
「ね、参木、今日はひとつ、二人で馬鹿の限りを尽そうじゃないか。まだまだ人生には、面白いことがいくらだってあるんだぜ。それに、何んだい君は、顔を
「いや、僕は今日は、君の兄貴の家へ行くんだよ。僕はいくら君から馬鹿にされたって、君の兄貴に仕事を探して貰わなくちゃならんのだからね。」
参木は外へ出ると、甲谷には
「おい、そっちへ行かずにこっちへ来いよ。今夜はそっと芳秋蘭を見せてやろう。芳秋蘭を――。」
「競子もどうやら、いよいよ亭主が危くなって来たらしい。亭主が死ねば帰るといって来ているが、あいつも日本よりは支那の方が好きだと見えるよ。しかし、この俺だってこの頃は危いからね。今の所、競子の亭主が先きか、俺が先きかという所さ。おっと、細君が聞いてやしないかい。こいつに聞かれちゃ、こりゃ一番危いぞ。」と高重は甲谷と参木を見ていった。
「どうしてだ。」甲谷は意外な顔つきで兄を見た。
「いや、職工の中へ、ロシアの手が這入り出したんだ。俺は職工係りだから、一番危い所にいるわけだ。いつ
「じゃ、もう争議が始ったのか。」
「いや、争議の前だ。だから今がなかなか危いのさ。あの浜中総工会が曲者だよ。」
「それや危いね、
「他人事ながら?」と高重はいって弟の方に眼を据えた。
「うむ、俺は今日は、三万円の契約をすまして来たんだ。この調子だと、ここ半年の間に支店長は受け合いだぞ。」
「それや、他人事ながら羨しいが、兄貴は職工係りで苦い汁ばかりを吸ってるし、弟は
「あ、そうそう、二、三日前に芳秋蘭という女をサラセンで見かけたが、何んでも山口は兄貴がその女を知ってるといってたよ、知ってるのかい。芳秋蘭? 全く素晴らしい美人だが。」と甲谷はいった。
「うむ、それは知ってる。俺の下で使っているそりゃ女工だ。」
「女工だって?」
と甲谷は驚いたように訊き返した。
「まさか女工じゃないだろう。それや、何かの間違いだよ。」
「ところが、芳秋蘭は変名でこっそり俺の下で働いているんだ。来ればいつだって見せてやろう。俺はいい出すとうるさいから、黙って知らない顔をしてやっているんだが、あれは共産党でもなかなか勢力のある女だ、あれは恐いよ。争議が起ればだい一番に、あの女が俺を殺すかも知れたもんじゃないから、俺もなかなか骨が折れるさ。」と高重はいって顎を撫でた。
「殺されちゃ、そりゃ兄弟争議にもならないね。」
甲谷の混ぜかえすのに、高重は落ちつき払って微笑した。
「全くだ。職工の顔は立ててやらねばならぬし、重役の顔も立てねばならぬし、それに日本人の顔も立てていなけれやならず、お負けに兄貴としての顔も立てねばならぬとしたら、どうもこれじゃ、ぽんとやられる方が良いかもしれぬ。どうです。参木先生。」
「いや、僕もそう思ってる所です。」と参木はいった。
「そうそう、参木は首を切られてね、僕の財布を狙ってるところなんだ。」と甲谷はいった。
「首か。」
「だから、さっきから、首を切られる奴は、昔から馬鹿な奴だといってた所さ。」
「首じゃ、それや、参木君ならずともやられたくなるはずだよ。」
「どうです、そのやられるような職はないもんでしょうか。どこだっていいんですよ。さっきから、それをお願いしたくって来たんですが。」参木は頼み難いことも容易に掴んだ機会を喜ぶように、顔を
「それやある。いくらだってあるにはあるが、今もいった通り、その、危い所だぜ。そこでも良いのならいつでも来給え。一ぺんは国家のために死ぬのも死甲斐もあろうさ。」
「もうこうなっちゃ、なるたけやられる所の方がいいんですよ。さばさばしますからな。」
全く話題に落ちがついたというように、声を合せて三人は笑い出した。
声が沈まると、参木は部屋の中を見廻した。――この部屋の中で、競子は育った。この部屋の中で、彼女を愛した。そうして、自分はこの部屋の中で、幾たび彼女の結婚のために死を決したことだろう。それに、今はこの部屋の中で、競子の兄から自分が生き続けるための生活を与えられようとしているのだ。何んのために? ただ彼女の良人の死ぬことを待つために。――
参木はこの地上でこれほども自分に悲劇を与えた一点が、ただ索寞としたこの八畳の平凡な風景だと思うと、
参木は窓から下を眺めてみた。駐屯している英国兵の天幕が、群がった
「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理想を持つとしたら、それは何も持たないということが、一番いいんじゃないかとこの頃は思うんですが、あなたなんか、どういう御意見なんですか。」
「それやそうだ。ここじゃ理想とか希望とか、そんなものは持ちようが全くない。第一ここじゃ、そんなものは通用しない。通用するのは金と死ぬことだけだ。それもその金が
「ところが、参木はその贋金をも
「いや、それや参木君も僕と同様で、その贋金を使うのが好きなんだ。だいたい支那で金を溜める奴というものは、どっか片輪でなきあ
「じゃ、支那人は人間じゃない神様か。」と甲谷はいって仰山に笑い出した。
すると、高重は急に真面目な顔に立ち返って甲谷を見た。
「うむ、もうあれは人間じゃない人間の先生だ。支那人ほど嘘つきの名人も世界のどこにだってなかろうが、しかし、嘘は支那人にとっちゃ、嘘じゃないんだ。あれは支那人の正義だよ。この正義の観念の転倒の仕方を知らなきあ、支那も分らなきあ、
参木は高重の長い顔から溢れて来る思いがけない逆説に、久しく欠乏していた哲学の朗らかさを感じて来た。参木はいった。
「それであなたなんか、職工係りをやってらしって、例えば職工たちの持ち出して来る要求を、これは正しいと思うような場合、困るようなことはありませんか。」
「いや、それやある。しかし、そこは僕らの階級の習慣から、自然に巧い笑顔が出て来るんだ。僕はにやにやっとしてやるんだが、このにやにやが、支那人を征服する第一の武器なんだよ。これは虚無にまで通じていて、何んのことだか分らんからね。うっかりしている隙に、後ろから金を握らしてまたにやにやだ。それで落ちる。外交官なんて皆駄目さ。ところが、こんどの奴だけは、いくらにやにやしたって落ちないんだ。こうなると、こっちが正義に打たれて、もう一度にやにやとは出来ないからね。どうも日本人という奴は、正義に
高重は年長者の自由性のために、二人の前でだんだん興奮し始めた。参木は高重の話そのものよりも、今は自分の年齢の若さが、これほども年長者を興奮させ得る材料になりつつあるという現象に、
海港からは銅貨が地方へ流出した。海港の銀貨が下り出した。ブローカーの馬車の群団は日英の銀行間を馳け廻った。金の相場が銅と銀との上で飛び上った。と、参木のペンはポンドの換算に疲れ始めた。――彼は高重の紹介でこの東洋綿糸会社の取引部に坐ることが出来たのだ。彼の横ではポルトギーズのタイピストが、マンチェスター市場からの報告文を打っている。掲示板では、強風のために米棉相場が上り出した。リヴァプールの棉花市場が、ボンベイサッタ市場に支えられた。そうして、カッチャーカンデーとテジーマンデーの小市場がサッタ市場を支えている。――参木の取引部では、この印度の二個の棉花小市場の強弱を見詰めることは最大の任務であった。どこから綿の花を買うべきか。この原料の問題の解決は、その会社の最も生産量に影響を及ぼすのだ。そうして、誰もその存在を認めぬカッチャーカンデーとテジーマンデーの小市場は、突如として、ひそかな旋風のように市場の棉花相場を狂わすことが
参木は、前からこの印度棉が支那の棉花を圧倒しつつある現象を知っていた。だが、印度棉の勢力の
参木はこの綿の花の中から咲き出した巨大な英国の勢力を考えるたびごとに、母国の現状を心配した。彼の眼に映る母国は――母国は絶えず人口が激増した。生産力は、その原料の生産地が、各国同様、もはやほとんど支那以外にはないのであった。そうして、経済力は? その貧しい経済力は、支那へ流れ込んだまま、
原料のない国が、いかに顛覆しようとも同じことだ、と参木は思った。だが、いずれことごとくの国は次第に形を変えるであろう。だが、英国の顛覆しない限り、顛覆したことごとくの国は不幸である。先ず何事も、印度が独立したその後だ。正義は印度より来るであろう。それまで、母国はあらゆる艱難を切り抜けて動揺を防がねばならぬ、と参木は思った。
参木はそれまで、机の上で元貨を英貨のポンドに換算し続けなければならぬのだ。
彼は正午になると煙草を吸いに広場へ出た。女工たちは工場の門から溢れて来た。彼女たちは円光のように身体の周囲に棉の粉を漂わせながら、屋台の前に重なり合って
遠く続いた石炭の土手の中から、発電所のガラスが光っていた。その奥で廻転している機械の中では、支那人の団結の思想が、今や反抗を呼びながら、濛々と高重たちに迫っているのだ。そこでは高重たちは、その精悍な職工団の一団の前で、一枚の皮膚をもって、なおにやにやと笑い続けて防がねばならぬのであろう。
参木は河の方を見た。河には、各国の軍艦が本国の意志を持って、砲列を敷きながら、城砦のように連って停っていた。
参木は思った。自分は何を
彼はだんだん、日光の中で、競子の良人の死ぬことを望んでいた自分自身が馬鹿馬鹿しくなって来た。
ホールの桜が最後のジャズで
「いや、これは失礼、いや、これは失礼。」
階段の暗い口から、一団のアメリカの水兵が現れると、踊りながら踊りの中へ流れ込んだ。海の匂いを波立たせた踊場は、一層激しく揺れ出した。叫び出したピッコロに合せて踏み鳴る足音。歓喜の歌。きりきり廻るスカートの鋭い端に斬られた疲れ腰。足と足と、肩と腰との旋律の上で、三色のスポットが明滅した。輝やく首環、仰向く唇、足の中へ
宮子はテープの波を首と胴とで押し分けながら、ひとり部屋の隅で動かぬ参木の顔へ眼を流した。ドイツ人を抱くアメリカ人、ロシア人を抱くスペイン人、混血児と突き
踊りがすむと人々はもたれ合って場外へ
「いや、これは失礼、いや、これはこれは。」
参木はこの急激に静ったホールの疲労に鋭い快感を感じて来た。彼は身動きも現さず、甲谷の鈍い酔体を眺めたまま、時計の音を聞いていた。天井の隅で
Casi me he caido,
Traigame algo mas,
No es nada no toque,
「まア、甲谷さん、駄目だわね。秋蘭さんが来たんじゃないの。しっかりなさいよ。」
帰り支度になった宮子がドアーから二人の傍へよって来た。彼女はぶらぶらしている甲谷の片腕を支えながら参木にいった。
「これからあなた、どこまでお帰りになるつもり。」
「さア、まだどこにしようかと思ってるところなんです。」と参木はいった。
「じゃ、あたしん所へいらっしゃいな。もうすぐ夜が明けるから、しばらくの
「いいんですか、二人づれでいったって?」
「あたしはいいの。だけど、あなた、それじゃあんまり重いわね。」
「
宮子は頭を垂れた甲谷の首の上から、片眉を吊り上げた。
「介抱させられる番ばかりは、いやだわね。」
階段を降りると三人は外へ出た。
「
甲谷を寝かせた隣室で、宮子は
参木は樺色のスタンドの影を鼻の先に受けながら、何を彼女がほのめかすのか、煙草の煙の中で眼を細めて聞いていた。
「ね、あなたはあたしがあなたのことを、何も知らないとでも思ってらっしたんでしょう。あたし、あなたがどんな方だかそれや長い間見たかったのよ。でも今夜初めてお逢いして、多分こんな方だろうと思っていたあたしの想像が、あたったの。」
参木はこの女の頭の中で、前から幾分間か生活していたらしい自分の姿を考えた。それは恐らく、どこかの多くの男たちの姿の中から、つぎはぎに引き摺り出された
「じゃ、甲谷は僕の悪口をよほどいったと見えますね。」
「ええ、ええ、それや、毎日あなたのことを伺ったわ。それであたし、実は少々あなたのことを軽蔑してたのよ。だって、あなたは、あたしのような女を軽蔑ばかりしてらっしゃる方でしょう。」
「いや、そう人は思うだけですよ。」と参木は疲れたように低くいった。
「そんなことは、
「何をあなたはいい出すんです。」と参木はいって宮子を見た。
「いえね、これは別のことなの。どうしてあたしこんなことをいったんでしょう。さア、召上れ、これはサルサパリラっておかしなものよ。踊った後はこれでなくちゃさっぱり駄目だわ。」
「甲谷はそんなことまでいったんですか。」
「甲谷さんが何を
「あなたはよっぽど疲れていらっしゃるんでしょう。もう
「あたし、もういつもならぐたぐたなの。だけど、こうしていると、今夜はあなたといくらでもお話が出来そうなの。あたし今夜は
「じゃ、僕はここにこうしてたってちっとも疲れてやしませんからもうどうぞ。」と参木はいった。
「いいのよ。あたし、あなたを眠らせるくらいなら、この長椅子だってお貸しするわ。まアそんなに汚なそうにひと様の部屋をじろじろ見なくったって、踊子の生活なんて、分ってるじゃありませんか。いずれお察しの通り、ろくなことなんかしてないわよ。」
刺戟の強い
「ちーつーほう、でーでーほう、めいくいほう、ぱーれいほッほ、めーりいほ――まア、今夜は暑いわね。あたし、こういう夜は、きっと
彼女は花弁で埋ったコップを参木に上げて飲みほすと、身体を
「あ、そうそう、あたしあなたにお見せしたいものがあったんだわ。あたしには今五人の恋人が揃っているのよ。フランス人と、ドイツ人と、イギリス人と、支那人と、アメリカ人なの。まだその他にもないことはないんだけど、今は倹約して腕を持たせてやるだけにしてあるの。」
彼女は吸いかけた煙草を膝で挟むと、
「ね、このフランス人はミシェルっていうのよ。それからこれは、アメリカ人なの。その他のも見て頂戴な。どれもこれも立派な男で蓮の実みたいに甘いのが特長よ。まアその日本の女を好きなことって、お話にならないわ。あれはきっと奥さんに
参木は宮子の恋人の顔を見ることよりも、今は彼女に近づく好奇のために、だんだん椅子を動かした。彼女は足を縮めると参木にいった。
「さア、もっとこちらへ来て頂戴。そこじゃ、あたしの恋人の顔が真黒に見えるじゃないの。」
「いや、あんまりはっきり見え出しちゃ困るでしょう。」
「いいわよ、たまにはそういう立派な顔も見とくもんだわ。さア、こちらへいらっしゃいって、あなたには、叱らなきあ駄目なのね。」
参木は甲谷がこの手で首を絞められているのかと思うと、しばらく黙って宮子の顔を眺めていた。
「あたし、あなたが、何を恐がってびくびくしてらっしゃるのか、分っているのよ。だけど、安心して頂戴、あたしの恋人は、ちゃんとここに五人も並んでいるんですからね。あなたのように他人に恋人を盗られて青ざめている人なんか、あたしは相手にしない性分なの。」
参木は上眼で宮子の顔を見た。どこか身体の中の片端で猛然と飛び上る感情を制しながら、彼はにやにやと笑った。宮子は参木の方へ向ったテーブルの一角へ足を上げるとまたいった。
「ね、あたしにはあなたの恋人が御主人とどんなことをしてらっしゃるか、それやよく分ってるのよ。だから、あたしはあなたがお気の毒なの。あたしの恋人なんか、競争であたしの身の廻りのことをしてくれるわ。この下の
「それはとにかく、その足だけは上げないように出来ませんか。」と参木はいった。
「あら、まア、あたし、いつの間に足なんか上げたんでしょう。踊子は足が大切なもんだけど、こんなに大切なもんじゃないわ。御免なさい。あたし疲れると、何をし出すかしれないのよ。これであたし、やっぱり踊子なんかになったんだわ。」
「あなたは恋人が来たときでも、そんなことをするんですか。」
「まア、そろそろ、馬鹿にし始めたのね。あたしの恋人なんか、あたしにこんなことをさせたりするもんですか。」
参木は宮子が両手を拡げたように思われた。彼はオルガの跳ね上った足と宮子の足とを較べながら、宮子の傍へどっかと坐ってまたアルバムを取った。すると宮子は参木の手からアルバムを取り上げた。参木は彼女の唇の端に流れた嘲弄を感じると、突然、
「まア、あなたでも、そんなことを知ってらっしゃったのね。あたし、油断をしちゃって、
「まア、あなたは、心配ばかりしてらっしゃるのね。あなたのなさるようなことなんか、なんでもないわよ。あたしがあなたなんかに悲しまされると思ってらしちゃ間違いだわ。さアここへいらっしゃいよ。そんな恐ろしい顔はなるだけ鏡の中でしてちょうだい。」
参木は
「もう、そろそろ夜が明け出して来ましたね。」
「あなたは私を御覧になったときから、ぎくしゃくして、あたしに負けまいとばかり思ってらっしたのね。だけど、いくらそんなこといって誤魔化したって、もう駄目よ。あなたとあたしはこれから喧嘩ばかりしてなきあならないわよ。」
踏みとまろうとする参木の心は、またもずるずる辷っていった。彼は肉体よりも先立つ自分の心の危険さを考えた。彼はまた立ち上ると宮子にいった。
「じゃ、もう僕はこれで失礼しましょう。さようなら。」
宮子は不意を打たれて黙っていた。参木はそのまま部屋の外へ出ようとした。
「夜が明けるのにこれからあたしひとりでなんかいられないわ。あなたは礼儀っていうものを御存知ないの。」
参木は振り返ると、
「じゃ、今夜はもうこれだけで、赦してくれ給え。いずれまた、そのうちに。」
彼は明け
参木は春婦の前を横切ると露路の中へ這入っていった。その露路の奥の
臓物のぐつぐつ煮えた鍋の奥では、
「おい。」と不意に高重はいって参木の後へ現れた。
参木は振り返った。高重は呼吸を切迫させて立て続けにいった。
「君、僕の後から
いよいよ
「じゃ、これからすぐあなたはいらっしゃるんですか。」
「うむ、行こう。」と高重はいいながら参木の盃をとって傾けた。
「しかし、いよいよ始まったとした所で、始まったら始まったでどうにかなるさ。そこは支那魂という奴で、ね、君、不思議なもので、僕はこれでも、会社がひっくり返ろうとしているのに、昨夜現像した水牛の写真の方が気になるんだ。」
「それほどの程度で済ませるなら、ここで酒でも飲んでる方がいいでしょう。」
「いや、まアそういってしまっちゃおしまいさ。僕の会社に罷業が起れば、後の会社は将棋倒しだ。僕のこの腕一本は、今の所、支那と日本の実権を握っているのと同じだからね。僕を
「じゃ、もう一杯。」
二人は首を寄せて飲み始めた。高重は片腕を
虫の食った肝臓が皿の上に盛り上って並べられた。阿片の匂いが酒の中へ混って来た。うす鈍い光りを放って寝ていた坊主頭が、煉瓦の柱の角から
「あ、そうだ、君にいうのを忘れていた。」と高重はいうと、突然眉を
参木はしばらく高重の盃に当てた唇を眺めていた。
「競子の
参木は急に廻転を停めた心を感じた。と、輝き出した巨大な勢力が、彼の胸の中を馳け廻った。彼は喜びの感動とは反対に、頭を垂れた。だが、次の瞬間、彼はじりじり沈んで行く板のような自分を感じた。
――俺が競子の
ふと、彼は高重の沈黙の原因を、自分に向けた高重の
すると、
「さて、いよいよこれから夜業の番か、おい君、今夜は危いから、僕から放れてひとり行っちゃ、おしまいだよ。」
高重はポケットのピストルに触りながら立ち上った。参木も彼の後から出ていった。彼は嫁いだ競子をひそかに愛していた空虚な時間に、今こそ決然と別れを告げねばならぬと決心した。
――まア、いくらでも、お
雨の中を一組の日本の
「君、今度の罷業は大きくなるよ。」
「大きけりゃ、大きいだけ、面白いじゃないですか。」
「それも、そうだ。」
二人は
円筒から墜落する滝の
参木は高重につれられて
参木は突撃して来る音響に耳を塞いだ。すると、
「どうだ、これで一日、四十五銭だ。」
棉を冠って群れ動く工女の肩が、魚のようにベルトの瀑布の中で交錯した。揺れる耳環が機械の隙間を貫いて光って来た。
「君、あそこの隅にスラッピングがあるだろう。その横で、ほら、こちらを向いた。」と高重はいうと、急に黙って横を見た。
「あの女は、何者です。」
「あれは、君、こないだいってた共産党の芳秋蘭さ。あの女が右手を上げれば、この工場の機械はいっぺんに停るんだ。ところが近頃、あの秋蘭はお柳の亭主一派と握手し出して来てね。なかなかしたたかものでたいへんだ。」
「それが分っている癖に、
「ところが、それを知ってるのは、僕だけなんだよ。実は、僕はあの女と競争するのが、少々楽しみなんだ。いずれあの女もやられるに
参木はしばらく芳秋蘭の美しさと闘いながら彼女の悠々たる動作を見詰めていた。汗と棉とが彼の首筋から流れて来た。廻るシャフトの下から、油のにじんだ手袋が延び出て来ると、参木の靴の間でばたばたした。高重は参木の肩を叩いて支那語でいった。
「君、これでこの工場の賃銀は、外国会社のどこよりも高いんだ。それにも拘らず、また一割増の要求さ。僕の困るのも分るだろう。」
実は周囲の工女に聞かすがために、参木にいった高重の苦しさを、参木は感じて頷いた。すると、高重は再び日本語で彼に向って力をつけた。
「君、この工場を廻るには、鋭さと明快さとは禁物だよ。ただ朦朧とした豪快なニヒリズムだけが機関車なんだ。いいか、ぐっと押すんだ。考えちゃ駄目だぞ。」
二人は
「参木君、この
円弧を連ねたハンドルの群れの中で、男工たちの動かぬ顔が流れていた。怒濤のような棉の高まりが機械を噛んで慄えていた。参木はその
参木はピストルの把手を握って工人たちを見廻した。しかし、ふと、また彼は考えた。
――もし母国が、この支那の工人を使わなければ、――彼に代って使うものは、英国と米国にちがいない。もし英国と米国が支那の工人を使うなら、日本はやがて彼らのために使用されねばならぬであろう。それなら、東洋はもう終いだ。
参木は取引部へ到着した今日のランカシアーからの電文を思い出した。ランカシアーでは、英国棉の振興策を講じるため、工業家の大会が開催された。その結果、マンチェスターの工業家の集団は、ランカシアーと共同して、印度への外国棉布の輸入に対し関税の引き上げを政府へ向って要求した。
参木はこの英国に於けるマーカンチリズムの活動が、何を意味するかを知っている。それは、明らかに日本紡績への圧迫にちがいない。彼らは支那への日本資本の発展が、着々として印度に於ける英国品――ランカシアーの製品のその随一の市場を襲っていることに、恐慌を
そのとき、河に向った南の廊下が、真赤になった。高重は振り返った。その途端、窓
「暴徒だ。」と高重は叫ぶと、
参木は高重の後から馳け出した。梳棉部では工女の悲鳴の中で、電球が破裂した。棍棒形のラップボートが飛び廻った。狂乱する工女の
参木は揺れる工女の中で暴れている壮漢を見た。彼は白い三角旗を振りながら機械の中へトップローラを投げ込んだ。印度人の警官は、背後からその壮漢に飛びつくと、ターバンを摺らして横に倒れた。
廊下へ逃げ出した工女らは、前面に燃え上った落棉の焔を見ると、逆に、参木の方に
参木は近づいて来た芳秋蘭を見詰めながら、廊下の壁に沿って立っていた。すると、工女の群は参木を取り包んだまま、新しく一方の入口から雪崩れて来た一団と衝突した。参木は打ち合う工女の髪の匂いの中で、揉まれ出した。彼は揺れながら芳秋蘭の
非常口が開けられると、渦巻いた工女は広場の方へ殺到した。倒れた頭が一つずつ起き上った。参木は起き上ろうとして膝を立てた。秋蘭は彼の上衣に掴まったまま叫んだ。
「足が、足が。」
彼は秋蘭を抱きかかえると広場の方へ馳けていった。
参木は秋蘭の隣室で眼を
参木は昨夜以来の彼自身の
「どうぞ、お宅まで、御遠慮なく。」
彼は彼女を鄭重にすることが、頭の中から競子を吐き出す何よりの機会だと観測した。思慮は一切過去の
秋蘭は彼に隣室の客間を指して巧みな英語でいった。
「どうぞ、あちらが
彼が彼女を礼節よりも愛した原因はその秋蘭の眼であった。秋蘭は彼にいい続けた。
「どうぞ、あちらへ、ここはあまりお見せしたくはございませんの。」
「じゃ、もうこのままこれで失礼しましょう。」と参木も英語でいった。
「いえ、あたくし、もうしばらくいらっしていただきたいんでございます。それに、ここは支那街でございますわ。今頃からお帰りになりましては、またあたくしがお送りしなきあならないんですもの。」
彼は彼自身の欲するものを退けて来たのは、過去であった。帆は上げられて辷っている。彼は自身の胸に勇敢な響きを感じながら、隣室に下った幕を上げた。そこで、彼はいつになれば秋蘭が全く敵対心も無くしてしまうのであろうかを待ちながらも、いつの間にか眠ってしまった。
しかし、今は、朝だ。――
池の中で旗亭の風雅な姿は積み重なった洋傘のように
参木はその人の
「もし昨夜あなたが、あたしの傍にいて下さらなければ、――」
と、秋蘭はいった。そうして、彼女は参木に異国の友を一人持ち得た喜びを述べると、食事を取りに附近の旗亭へ案内したいといい出した。
「しかし、あなたのそのお傷じゃ、――」と参木はいった。
「いえ、あたしたちはもう日本の方に、そんなに弱い所ばかりお見せしたくはございませんの。」
秋蘭は参木を促すと先に立った。二人は街へ降りた。石畳の狭い道路は迷宮のように廻っていた。頭の上から垂れ下った招牌や
参木は象牙の
「あなたはこれからどっかへお急ぎになる所じゃありませんか。」
秋蘭は彼の言葉が、何を意味するかを見詰めるように、彼を見た。
「いえ、あたくし、今日はこの足でございましょう?」
「しかし、ここまでいらっしゃれるなら、もうどこへだって大丈夫だと思いますが。どうぞ僕のために御無理をなさいませんように。」
参木は秋蘭が何者であるかを気付かぬらしく装いながら、のどかに風鈴の鳴る店頭へ眼を移した。秋蘭はしばらく彼の横顔を眺めていたが、間もなく、急所を見抜かれた女のように優しげに顔を
「あなたはもうあたくしがどんな女だか、すっかり御存知でいらっしゃいますのね。」
「知っています。」と彼は答えた。
しかし、秋蘭はただ落ちついて笑っているだけだった。参木はいった。
「僕は昨夜の騒動は、あれは外からの暴徒だと思うんですが、もしあなたがあの出来事を予想してらしたのなら、あんな騒ぎにはならなかったと思うんです。何かあれは、あなたがたの妨害を
「ええ、そうでございますとも。あれは全く不意の出来事でしたの。あたくしたちは、お国の
参木は笑いながら秋蘭にいった。
「では、どうぞ。」
秋蘭は朗かな歯並を見せて動揺した。しかし、参木は不意に憂鬱になって来た。――何を自分は狙っていたのかと考えたのだ。自分が彼女を追い馳けた苦心の総ては火事場の泥棒と同様ではなかったか。自分が彼女を送ったのは、自分の卑屈を示しただけではなかったか。――しかし、彼はすでになされた反省の決算を思い出した。今は、彼はただこの支那街の風景の中を、支那婦人と共に漫歩する楽しさに放心すればそれで良いのだ。それ以外は、いや、考えちゃ、もう駄目だ。
翡翠に飾られた店頭の
二人は旗亭の辷る陶器の階段に足をかけた。参木は秋蘭の腕を支えた。彼女は彼によろめきかかると笑っていった。
「まア、あたくし、まだあなたに御迷惑をおかけしなければなりませんのね。」
「どうぞ。」
「あたくし、こんな身体で、よく労働が勤まるとお笑いになるでしょう。」
「いや、たいへん感服させられております。」
「でも、あたくしたちは、ほんとうはまだまだ駄目なんでございますの。あたくしなんか、こんなに威張ったりしておりましても、もうすぐこうして美しい着物やなんか、着てみたくてなりませんのよ。」
参木は階段の中途で、この支那婦人の繊細な苦悶に触れるのが喜ばしく感じられた。階段の立面に
「この女も、いずれ誰かにやられるから、見て置き給え。」
ばったりフィルムが切れて、凄艶な秋蘭の笑顔が無くなると、白蘭の繁った階上から緑色の陶器の欄干が現れた。
「僕があなたとお近づきになったことで、もしあなたに御迷惑をおかけするような結果にでもなりますなら、どうぞ、御遠慮なく
「いえ、あなたこそ御遠慮なく。あたくしにはあなたが他国の方とは思えませんの。無論あたくしたちは、あなたがたの工場と争わなければなりませんわ。でも、そんなことは、何んといったらいいんでしょう。あなたと争い事のようになるものとは思えないんでございますの。」
参木は黒檀の椅子に腰を降ろすと、いつの間にか豊かな愛情の中で漂い出した日本人に気がついた。彼は再び憂鬱に落ち込んだ。彼が競子を蹴ったのは、彼が競子のために乱されたからではなかったか。彼が秋蘭に溺れたのは、競子を蹴って逃げ出すためではなかったか。しかし、今また彼は、駈け込んだ秋蘭のために乱されて来たのであった。彼は、今は自身がどこをうろついているのか分らなくなって来た。――彼は引き下ったように身構えると、突然秋蘭にごつごつした英語でいい始めた。
「僕はあなたが、僕を日本人じゃないと思って下さるお心持ちにはお礼を申しますが、しかし、僕は日本人だということを、別に悲しむべきことだとは少しも思っちゃおりませんですよ。ただ僕はマルキストのように、自分を世界の一員だと思うようなことが出来ないだけの日本人です。誰でもマルキストは、西洋と東洋との文化の速度を、同じだと思ってるように見受けるんですけれども、僕はその誤りからは、ただ秀れた犠牲者を出すだけが唯一の生産のように思われるんです。どうでしょう。」
すると、秋蘭は彼と
「それはあたくしたちにも、今の所いろいろな誤謬のあることは、認めなければなりませんわ。でも、その国にはその国の原料と文化とに従ったマルキシズムの運用法があると思います。譬えば、あたくしたちが中国人の経営する工場へ闘争力を注ぐよりも、先ず外人の工場へというように、自然に強力な方向に動いて参りますのは、これは仕方がないんじゃないでしょうか。」
「けれども、それはあなたがたが、中国に新しい資本主義をますます強く、お建てになるのと同様じゃないでしょうか。僕は外国会社の生産能力を圧迫すれば、それだけ中国の資本主義が発展するにちがいないと思うんですが。」
「でも、そういうことは、今はあたくしたちは出来得る限り黙認しなければならないと思いますの。あたくしたちにとって、中国の資本主義より、外国の資本主義を恐れなければならないことの方が、たしかに当然なことじゃございませんでしょうかしら。」
参木はもはや秋蘭との愛の最後を感じると、ますます頭を振って斬り込んでいきたくなった。
「
「それはあなたが東洋主義者でいらっしゃるからだと思いますわ。もうあたくしたちは、東洋主義がどんなにお国のブルジョアジーに尽力したかということを、清算しなければならないときです。あたくしたちは、どなたでも、貧しい人々の外は、もうちっとも信頼することが出来なくなっておるんでございますの。」
「あなたが僕をあなたのお思いになるような東洋主義者になすったのは残念ですが、僕が日本を愛したいと思うのは、あなたが中国をお愛しになるのと何んの変りもないのです。僕は自分の母国を愛する感情が、それがすぐにあなたの
「でもそれは、あたくしには、あなたがただお国の味方をなすっていらっしゃるだけだと思われますの。もしあなたがほんとうにお国をお愛しなすっていらっしゃいますなら、中国のプロレタリアもお愛しになるに違いないと思います。あたくしたちがお国に反抗するのは、お国のプロレタリアにではありませんわ。だから、あたくしあなたに、こんなことをお話ししたりすることは――。」
「しかし、僕は中国の人々が日本のブルジョアジーを攻撃するのは、結果に於て日本のプロレタリアを
秋蘭は
「どうしてでございましょう。あたくしたちはお国のプロレタリアのためには、中国を解放しなくちゃならないと思っているんでございますけど。」
「しかし、それは日本にプロレタリアの時代が来なければ、――」
「そうです、あたしたちはお国にプロレタリアの時代の来るために、お国のブルジョアジーに反抗しているんでございますわ。」
「しかし、それには中国にも同時にプロレタリアの時代が来なければ、――」
「それは勿論、あたくしたちはそのために、絶えず活動しているんじゃございませんか。その第一に、今もあたくしたちはあなた方の工場に、不平を起そうと企んでいるんでございますわ。多分もう今頃は何んとかされている頃かと思われますが、どうぞしばらく、御辛抱をお願いします。」
秋蘭はまだこのときも参木への感謝を失わずに頭を下げた。しかし、参木には新しい疑問が雲のように起って来た。彼はいった。
「僕はさきにも申し上げた通り、あなた方がわれわれの工場の機械をおとめになるということには、今
秋蘭は頭脳の廻転力を示す機会を持ち得たことを誇るかのように、軽やかに支那扇を拡げてにっこりと笑った。
「ええ、それは、あたくしたちの絶えず考えねばならぬ中国問題の一つでございますの。でも、それと同時にそんな問題は、列国ブルジョアジーの
しかし、彼の頭の中では彼女のいう「掃溜に関する疑問」は、依然として首を振った。――問題はそれではないのだ。掃溜の倫理が問題なのだ。――と。
事実、各国が腐り出し、蘇生するかの問題の鍵は、この植民地の集合である共同租界の、まだ誰も知らぬ掃溜の底に落ちているにちがいないのだ。ここには、もはや理論を絶した、手をつけることの不可能な、混濁したものが
「どうも、僕は昔から相手の人を敬愛すると不思議に頭が廻転しなくなる癖があるんです。どうぞ、お怒りにならないように。」
すると、秋蘭の
「あたくし、今日はあなたとこんな
「いや、もう僕はあなたから、東洋主義者にしていただいたことだけで結構です。」
「あら。」と秋蘭は美しい眼を上げて扇をとめた。
「しかし、もともと僕はあなたをお助けしようなどと殊勝な心掛けで御介抱したのではありません。もしそうなら、あのときあなた以外の沢山な人にも、僕は同様に心を働かせていたはずだったと思います。それに、特にあなたを見詰めて動き出したという僕の行動は、マルキシズムなんかとは
参木は辷る陶器の階段を降りていった。すると、秋蘭の扇はぱったり黒檀の円卓の
河へ向って貧民窟の出口が崩れていた。その出口の周囲には、堆積された汚物が波のように続いていた。参木の家へ出かけたお杉は彼の帰りを見計らって歩いて来た。影の消えた夕闇の中で、お杉の化粧は青ざめていた。霧が泥の上を流れて来た。真黒な長い棺が汚物の窪みの間を縫って動いていった。河岸の地べたに敷かれた古靴の店の傍で、売られる赤児が暗い靴の底を覗いていた。
揚荷を渡す
彼女はくるりと向き返えると、逆に
参木は河岸に添ってお杉の後まで近づいた。しかし、彼は前へ行くお杉には気付かなかった。二人は平行した。お杉は意志とは反対の霧の降りた河を見た。河にはいっぱいに満ちた舟の中で、整えられた排泄物が露出したまま静に水平を保っていた。参木はお杉の前になった。彼女は彼の後から彼の家まで歩こうと思った。すると、十日間の過去が、参木の知らない彼女の淫らな過去が、お杉の優しさをうち叩いた。
お杉は彼との肉体の間隔に、威厳を感じた。化粧した顔が、重くぐったりと下って来た。希望が歩く時間に擦りへらされた。愛情はまだ参木の後姿に
参木は車体の上で黙礼しながら揺れて行くお杉を見た。瞬間、彼は新鮮な空気の断面を感じて直立した。彼は黄包車を呼んだ。彼は彼女の後を馳けさせた。しかし、彼は逃げるお杉を追わねばならぬ原因がどこにあるのか分らなかった。ただ夕暮れの疲労の上に、不意に輝いた郷愁に打たれた自分を感じると、彼は再び
お杉は
「あなた、いらっしゃいな、ね、ね。」
湯を売る店頭の壺の口から、湯気が馬車屋の馬の
参木は割れた鏡の前で食事を取った。壁には人声の長らく響かぬ電話がかかり
日本人の給仕女が退屈まぎれに、しなしなと貴婦人の真似をしながら、昇って来た。窓から見える鋪道の上で、豚の骨を
――これは、と彼は思った。それと同時に、彼は再び芳秋蘭と一緒に揺れ上って来た彼の会社の罷業の状態を思い出した。それは単なる罷業ではなかった。それは芳秋蘭の言葉のように、ますます
――しかし、ロシアは、と彼は考えた。
ロシアは英米の後から、彼らの獲得したその販売市場に火を放っていくにちがいない。参木はやがてこの海港の租界を中心に、巻き起こされるであろう未曾有の大混乱を想像した。もし芳秋蘭が殺されるなら、そのときだ。×英米三国の資本の糸で躍る支那軍閥の手のために、彼女は生命を落すであろう。――
しかし参木にはこの
甲谷が来ると参木は昨夜から襲われ続けた芳秋蘭の幻想から、ようやく逃れたように自由になった。参木はいった。
「君の顔は明るい、まるで、
甲谷はステッキを振り上げた。しかし、たちまち彼は笑い出すと参木を打った。
「これでも、獣か、獣か。――ところが、僕は昨夜からまだ人間にはなれないんだぜ。あらゆる悪事をやってのけようと企らんでいるのだが、悪事をやるには、何より先ず立派な人間にならんと駄目だ。」
甲谷は溜息をつきながら、参木の身体に
「どうした、参木、俺の敵は馬鹿に
「萎れた、参木も駄目だよ。マルキシズムの虫がついた。」
甲谷は参木から飛びのくと、大げさに眉を立てた。
「虫か。」
「虫だよ。」
「君も憐れな奴だね、君は人間の不幸ばかり狙って生きてるんだ。人間が不幸になって、どうしようてんだ。」
「君に不幸が分ればマルキシズムなんて存在しないよ。」
「馬鹿をいえ。人間の幸福というものは、不幸な奴がいるからこそ、幸福なんだ。われわれは不幸な奴まで幸福にしてやる資格なんて、どこにあるんだ。人間は人を苦しめておれば、それで良ろし。俺が俺のことを考えずに、誰が俺のことを考えてくれるのだ。行こう。今夜は神さまのいる所へ行くんだぞ。しっかり頼むよ。」
二人は階段を降りた。狭い壁と壁との間の敷石に血痕が落ちていた。と、人気のない庭の出口の土間の上に、支那人が殺されたまま倒れていた。二人は立ち停った。転げた
「どうも、飛んだ邪魔物だね。問題はどこだったのかな。」
参木は今は甲谷の虚栄心の強さに快感を感じて来た。
「君はその手でマルキシズムをやっつけようというんだな。」
「そうだ。あんな死人を問題にしていちゃ、マルキシズムに食われるだけさ。われわれは資本の利潤が購買力を減少させるなんて考える単純な頭の者とは、少々人種が違うんだ。マルクス主義者は、いつでも機械が機械を造っていくという弁証法だけは忘れているんだ。そんな原始的な機械じゃ、
甲谷は
「君、トルコ風呂だよ。失敬。」
参木はひとりになると、死人を跨いだ股の下から、不意に人影が立ち上って来そうな幻覚に襲われた。彼は
――参木は今は薄暗いこの街底の一隅で没落の新しい展開面を見たのである。彼らはもはや、色情を感じない。彼らは、やがて後から
トルコ風呂の蒸気の中で、甲谷の身体は膨れ始めた。客のマッサージをすませたお柳の身体から、石鹸の泡が滴ると、
「奥さん、あなたはお杉をどうして首にしたんです。」
「ああ、あの
「出てると仰言ると、つまり、出るべき所へですか。」
「ええ、そうよ。」とお柳は冷淡に澄していった。
「じゃ、あなたにも、責任があるわけですね。」
「そりゃ、一人前にしてやったんだから、お礼ぐらいはされてもいいわ。」
この毒婦、と甲谷は思うと、
「奥さん、あなたは僕の身体を洗うんですか、あなたの蜘蛛を洗うんですか。」と彼はいった。
甲谷は頬を平手でいきなり叩かれた。彼は飛び
「マダム、マダムの所へは芳秋蘭という支那の婦人は来ませんか。先日僕は山口から聞いたんだが。」
「芳秋蘭? ああ、あの女はあたしの主人に逢いに来るの。主人はあの女のいうことなら、いくらだって聞いてやるのよ。」
「それなら、マダムの敵か。」
「敵は敵かも知らないけど、あれはお金の方の敵だから。」
「それなら一層大敵だね。ところが、僕はあの婦人にだけはこの間
「それや駄目だわ。あの人だけは秘密でそっとくるんだから。」
「それなら秘密でそっとという手もあるからな。どうも、あの婦人にだけはもう一度ぜひ逢いたい。」
お柳は黙ってぴしりと甲谷をつねるといった。
「じゃ、今度来たとき、二階へそっと来てらっしゃいよ。あたし電話をかけてあげるから。」
「奥さま、旦那さまでございます。」
ドアーの外で、
「奥さま、旦那さまが――。」
「分ってるわよ。」
「いいんですか。」と甲谷はシャワーの中から顔だけ出してお柳を見た。
「えええ、あの人はこういう所が見たくってそれであたしにこんなことをさせてるのよ。ここは万事があたしに持って来いという所。あなたのことだって、ちゃんとあたしは主人に話してあるの。ああ、そうそう、あのね、主人が一度あなたに逢いたいっていってたわ。ね、今夜これから逢ってやって下さらない。シンガポールの話が聞きたいっていってるの。」
お柳が出て行って暫くすると、甲谷は間もなく主人の部屋の
「月明の良夜、
ふと房前の柱にかかった
「さア、どうぞ、あなたはシンガポールのお方だそうで。わたしはこの通りお国の方が何より好きなもんですから、この年になっても損ばかりしております。」
銭石山の傴僂の背中が、牡丹の花に挟まって揺れながら笑った。甲谷はいった。
「どうも奥さまは僕を馬鹿になさる癖がお有りですので、つい敷居が高くなってしまいますよ。」
すると、いきなり、お柳は彼に西瓜の種を投げつけて、主人の顔を覗き込んだ。
「あなた、聞いて、この人は、こういう人なんだからね、用心なさるといいわよ。あたしなんか、いつでもこの手でやられちゃうのよ。」
「いや、なかなか若いときは面白い。シンガポールはお暑いことでございましょうな。あちらのお国の方の御繁昌なことは、かねがねから承わっておりますが、この頃は?」
「いや、もう何んといっても欧人の資本には
「いや、なかなかこの頃はお国の方の御活動は生きております。あなたの方はゴム園で?」
「いえ、僕の方は材木です。しかし、ゴム園にしましても、例えば欧人園は資本を社債か株式か、とにかく低利で運用しておりますが、日本の方は原価も高く、それに流通資金まで高利です。殊に配当保留の運用法にいたっては、全く欧人園とは比較にはなりませんよ。あれでは今に、開墾費用の充当さえおかしくなってしまいやしないかと思われますね。」
「ふむ、ふむ、しかしお国も中国の日貨排斥でお困りのようですから、南洋へでも喰い込まねば、猫の眼みたいに内閣が変るだけでございますな。ああ、そうそう、今日はまた日本紡が四つほど
銭石山の視線が日本の急所を見透したかのように尊大になって笑い始めると、甲谷は急に、今まで彼に売りつけようとしていた材木の話のことよりも、支那人の弱味について考え出した。
「もっとも、この頃の日本も日本でございますが、しかし、
「それはだんだん変ることでございましょうな。しかし、中国人の保護法が変ったところで、あそこは中国人を度外視しては政策の行われぬところだから、英国もどうしようもございませんわ。わたしの知り合いにも一人あそこにいるものもおりますが、シンガポールの英人の
「あれは英人の
「そうそう、それはわたくしたちも考えぬではありません。」と銭石山はいうと
甲谷は自分のいうべきことを、早や銭に代っていわれたのに気がつくと、一足乗り出すように机の角を撫でていった。
「いや、それは
銭石山はようやく、支那人たちの政略がひそかに攻撃されつつあるのを感じて来たらしく、急がしそうにまた茶を飲みながらいった。
「しかし、中国人が馬来や印度支那やフィリッピンで経済的実権を握っているということは、何もそれは不都合極ることじゃありませんからな。これは歴史的なことでして、フィリッピンも馬来もビルマも、もとはといえば中国への貢国です。そのつまり属国で中国人が生活的に向上したって、ヨーロッパ人のようには無理をしているんじゃありませんよ。」
甲谷はようやく銭石山が支那人の誇りを感じる
「いや、それは無理どころじゃありませんよ。中国人がいなければ南洋群島一帯は
銭石山は甲谷の雄弁が、中国に対する新しい解釈に向って鋭くなると、脊中の
甲谷は銭石山の視線が、自身の話にようやく流れ込んで来たのを感じると、ますます乗り気になって、八仙卓の彫刻の
「僕は奥さん、あなたの御主人に材木を買っていただきたくってやって来たのですが、もうそんなどころじゃありませんよ。あなたの御主人ほど僕の研究の趣意をよく汲んで下すった中国の人はまだありませんね。実際、馬来にいる中国人と英人と日本人との三つの混合は、これから起って来るこの上海の騒動と一番関係が深いですからな。僕たちはもうこれからは、今までみたいに安閑としていられないに
「だって、あたしにはそんなこと、どうだってかまやしないわ。だって、そんなことなんか考えたって、どうしようもないんですもの。」
甲谷はお柳から鈍重に
「銭さん。僕は先日、芳秋蘭という婦人を舞踏場でちらりと見ましたが、あの婦人は僕の友人のアジヤ主義者の話によりますと、共産党の女闘士だそうじゃありませんか。」
「そうそう、そういう女もおりました。わたしも一、二度ちょっと逢ったことがありましたが。随分あれは変ってる女ですな。」
「僕はあの婦人をもう一度見たいと思っていますが、シンガポールの
「いや、わたくしはもうどちらへも賛成しないことにしとるので。ただわたくしはもう親日が何よりだと主張しているものだから、この頃はうかうかしてると危うございましてな。しかし、シンガポールの方も、送金機関を外人に握らしていたりしては、馬来の中国人も本国政府を励ましてやりたくなるのは、これやもっともなことですよ。」
意外なときに意外なところで逃げ口を見つけ出した銭石山の巧妙さには、このとき甲谷もぼんやりせずにはおれぬのであった。しかし、甲谷はすぐまたいった。
「そうです。しかし、中国政府の実力を奪回しようとして、近頃のように白人に反抗する中国人の反帝国主義運動が盛んになればなるほど、一方また中国人に経済的実権を握られている殖民地でも、土民が下から中国人に反抗しつつ頭を上げているのですから、結局は同じことになるのでしょう。ただ一番問題なのは、各国にもっとも豊富な生活の原料を与えねばならぬ南洋やその他の熱帯国では、白人が生活するに適当でなくて、中国人が適しているという生理的条件です。これは白人種の一番恐るべき条件ですが、しかし、それもこの頃では、文化的な設備如何によって身体には何らの危険もないということが証明せられて来つつあるそうですから、これも問題となるのはここしばらくのことでしょう。そうしますと、後には混血の問題だけが残って来ます。しかしこの難問だけは、いかにヨーロッパ人といえども、どうすることも出来ないでしょう。」
甲谷はいつの間にか自身が中国人と同じ黄色人であるという意識のために、共同の標的をヨーロッパ人に廻して快活になろうとしている自分を感じた。するとお柳は唇のまわりを唾でぎらぎら光らして、ますます強く西瓜の種子を噛み砕きながら、
「まア、いつまできざったらしいことをいうんだろう。」というように、にがにがしく横を向いた。
甲谷は明らかにお柳の馬鹿にし出した態度を見ると、一層彼女を腹立たせてやることが愉快になった。彼は先ず悠々と構え直すと、「この毒婦め。もっと聞け。」というように、にっこり微笑を浮べて銭石山にいった。
「南洋やその他の一般の土地では、白色人と黒色人との混血が、白色人にはならずに黒色人を生んで、黄色人と黒色人との混血が、黒色人にはならずに黄色人になるというので、黒色の土人は白人よりも黄人と好んで結婚する風がだんだん増えて来ましたが、この現象はつまりこれからますます増加していく人種は白色人でもなく、黒色人でもなく、われわれ黄色人だということを証明しているわけで、したがって、世界の実行力の中心点は黄色人種にあるということになるのですが、こういう現象が今日のようにこうまではっきりとして来ますと、白人と黄人との対立が観念の上で、一層濃厚になって来ますから、世界の次の大戦争はもう経済戦争ではなくなります。人種戦争です。そうしますと、支那と日本が、今日のようにがみがみやっていたりしましては、ますます良い汁ばかりを吸っていくのは白人で、印度はその間に挟まって、いつまで立っても起き上れないにちがいありません。その何より印度を苦しめている安全弁は、事実上、シンガポールを中心として生活している
銭石山はお柳が二人の話にだんだん興味を無くし始めたのを感じたのであろう。甲谷の話を振払うように、左右を見たり、
「あなたのお説はなかなか進歩したお考えだとわたくしは思いますが、しかし中国はやはり大国でありまして、日清戦争のあったということなどは知らないものの方が多いのですから、こういう大国というものは、中心がどこにあるか分りませんが、周囲の国を鎮静させるだけでもまア立派なものでございましょう。それにはまア、当分はあちらやこちらにお愛想をいったり、気持ちを柔らげるために笑ってみたりしていなければ、こせこせして血眼になっている世界というものは、物静に廻っていくものではございませんわ。つまり、中国人の一番好きなことはまアまア、どなたもお静になすっては、というような妥協が何より好きなのですから、事は何事でもいつでも穏便に納まってしまいます。妥協が好きだということは、歴史が古うて文明が非常に進歩してしまった国でなければ、尊敬せられませんが、中国人は妥協の美徳を一番どこの国の人間よりも心得ておりますからな。この点だけは、中国人は大いに威張れるわけでございますよ。」
甲谷も銭石山のこの虚無にも等しい寛仁大度な狡猾さには、もう今は手の出しようもないのであった。彼はにやにや無意味に笑いながら、
「いや、それは優れたお話だと思います。そういわれれば、中国で一番深い思想の老子も、あれはつまり自然に対する妥協の哲理を説いたものだと思いますが、あらゆる美徳の源は妥協に始まって妥協に終るなどという秀抜な考え方などは、法則ばかりにかじりついているヨーロッパ人には、とても分りっこないと思いますね。ことに何んでも白色文明ばかり憧れているこの頃の日本人や中国人には、なかなか難解な思想だと思いますよ。」
すると、甲谷がそこまで話したとき、突然銭石山は八仙卓の片端を握ったままぶるぶると慄え出した。お柳は主人の後から立ち上ると、傴僂を抱いて寝台の上へ連れていった。
「一寸しばらく、御免なされ。時間がやって来ましてな。」
主人は甲谷に会釈しながら横になると、お柳の与えた
「あなたはいかが。」
「いや、僕は駄目です。どうぞ奥さんは御遠慮なく。」
お柳は主人の傍で煙管の口から焼き始めた。甲谷はふと彼ら二人は自分の視線を楽しむために、この楼上へ呼び出したにちがいないと判断した。すると、
「月明の良夜、慇懃に接す。」
甲谷の頭の中で、
お杉は朝起きると、二階の欄干に
お杉はその小舟の中で老婆がひとり縫物をしているのを見ると、急に日本にいた自分の母親のことを思い出した。お杉の母親は、まだお杉が幼い日のころ、彼女ひとりを残しておいて首を
「何も知らないものにお金をくれて、それをまた返せなんて、ああ、口惜しい。」
お杉は母の不幸の日のことが、つい前日のことのように思われると、のどかな朝の空気が、一瞬の間、ぴたりと音響をとめて冷たく身に迫った。
お杉は自然に涙の流れて来るのを感じると、自分がこんなになったのも、誰のためだと問いつめぬばかりに、さもふてぶてしそうに
しかし、間もなく、老婆の背後の草の生えた煉瓦塀の上から、
しかし、今自分のこうして眺めている支那の街の風景は、日本とは違って、何んとのんびりしたものであろう。朝から人は働きもせず、自分と同様、欄干からぼんやり泥溝の水の上を見ているのだ。水の上では、朝日がちらちら水影を橋の脚にもつらせていた。縮れた竿の影や、崩れかけた煉瓦のさかさまに映っている泡の中で、
お杉はそうしてしばらく、あれやこれやと物思いにふけっているうちに、今日は少し早い目から、客を捜しに街へ出ようと思った。それに、一度何より日本の
――そうだ、今日はこれから
そう思うと、急にお杉は元気が出た。彼女は顔を洗ってから化粧をし、どこかの良家の女中のような風をして、籠を下げて買物に市場へいった。
市場はもう午前十時に近づいていたが、数町四方に拡がっている三階建の大コンクリートの中は、まだまだひっくり返るような賑いであった。花を売る一角は満開の花で溢れた庭園のようであった。魚を売る一角は、水をかい出した池の底のようなものであった。お杉は
彼女は前方に群がっているスッポンの大槽の傍で、甲谷とお柳の姿を見たのである。お杉は二人から見つけられない前に、こそこそと人の背後へ隠れた。それからのお杉はもう買物どころではなくなった。お杉は下っている蓮根や、砂糖黍の間をすり抜けて、甲谷とお柳の眼から逃げながらも、しかし、どうして自分はこんなに二人から逃げねばならぬのかと考えた。悪いのは向う二人ではないか。自分は今こそ街の慰み物になっている女だとはいえ、こんなにしたのは、そんなら誰だ。誰だ。――
お杉は雑踏した人の中で、口惜しさがぎりぎり湧き上って来ると、思いきって二人の前へ、こちらからぬっと逆に現われてやろうかと思った。そうしたなら、どんなに向うの二人は
お杉はまた勇気を出して、人波のなかを二人の方へ進んでいった。しかし、お杉の来ているのを知らない二人も、お杉につれて、
しかし、さて二人と顔を合せてどうするつもりであろうとお杉は思った。何も今さらいうこともなければ、腹立たしさをぶちまけて二人を思う存分殴りつけてやるわけにもいかぬのであった。殊に、二人が自分を見て、ひやりとでもしてくれたら、まだ幾分腹立たしさも納まるにちがいない。しかし、もしかしたら、二人がかりで、今度は逆にひやかして来ないとも限らぬと思うと、何よりお杉は、そのときの二人のにやにやしながら自分の胴を見る顔が、気味悪くなって来た。
それでも、お杉はしばらく、二人の後をつけ狙うように歩きながら、甲谷の肩の肉つきや、ズボンの延びを眺めていた。
すると、ふと、彼女は参木の家で、夜中、不意に貞操を奪われたあの夜の夢を思い出した。あのときは、頭を上げて迫って来る白い波や、子供の群れや、魚の群が、入れ変り立ち変り彼女を追って来て眼を
お杉は袖口で口を
――お杉はやがてそうしてだんだんと里心が起って来ると、また二人から放れて市場の外へ出ていった。彼女は
しかし、行きすぎるもののうちで、昼間からお杉に視線をくれるようなものは誰もなかった。ときたまあれば、肉屋の大きな
お杉は橋の袂まで来た。そこの公園の中では、いつものように各国人の売春婦たちが、甲羅を乾しに巣の中から出て来ていて、じっと静かにものもいわず、
宮子の踊る踊場では、宮子を囲む外人たちが邦人紡績会社の
「今度の罷業はたしかに工場の方がいけませんよ。彼らは支那工人を軽蔑するからです。いったい軽蔑されて腹の立たんのは、昔から軽蔑する方だけなんですからね。第一日本人にとっても、外人を尊敬しないような人物を海外に送り出して、それでわれわれの販売力を独占しようとすることからして、損失の第一歩だ。これでは日本本国からの輸出品と、こちらの日本会社の製品とが衝突するだけじゃすみやしません。支那の工業界を
「どうして、あなたたちが幸福ですの。」と宮子は顎をあげていった。
「君は僕の独逸人だということをまだ知らんのかな。僕らは戦前まで東洋に大きな販売市場を持っていたものですぞ。ところが、そいつをふんだくったのは各国だ。われわれは各国の貨物が支那から排斥せられるということに有頂天になるのは、これや当り前さ。」
「だって、それは日本だけが悪いんじゃないわ。お国だって悪いのよ。」
「そう、それは独逸だって充分に後悔しなきゃいけませんよ。僕はアメリカだが独逸の超人的な勢力は、もうわれわれの会社まで圧迫しつつあるんですからな。」と三人へだてた遠くから、美男のアメリカ人のクリーバーが顔を上げた。
フィルゼルの眼鏡は、急にクリーバーの方へ向って光り出した。
「失礼ですが、あなたたちはどちらの会社に御関係でいられます。」とフィルゼルは訊ねた。
「僕はゼネラル・エレクトリック・コンパニーのハロルド・クリーバーという社員ですが、あなたの方は?」
「いや、これはこれは。僕はアルゲマイネ・エレクトリチテート・ゲゼルシャフトの支店詰のヘルマン・フィルゼルというものです。どうもこれは、
フィルゼルは手を出しながら立ち上ったが、ひょろひょろするとまた坐った。すると、クリーバーが向うから立って来て、二人は握手をした。フィルゼルはボーイにいった。
「おい、シャンパン。シャンパン。」
「何んだかややこしくなったわね、あなた方お二人が敵同士の会社なら、あたしこれからどちらへ味方したらいいのかしら。」と宮子はいった。
「それや勿論、あなたは、ジー・イーさ。」
クリーバーの言葉を
「いや、それや、是非とも僕の方でなくちゃいけないよ。僕たち独逸人にあなたが反対すれば、第一、賠償金が返りませんぜ。勿論、アメリカへだって返しやしませんよ。今の所、われわれだけは何をしたってよろしい。大戦に負けた慈善が、こういう所で実るのでさ。」
すると、クリーバーは飲みかけたカクテルを下に置いて、フィルゼルにもたれかかりながら、
「僕はあなたの
「いや、それはなかなかもって恐縮ですな。だけども、実はそれやわれわれの方の苦情ですぜ。あなたの方のジー・イーこそ何んだ。マルコニー無電を買収してロッキー・ポイントを占領しただけで納まらずに、フェデラル無電会社を支配して、支那全土への放送権まで握ろうとしてるじゃないですか、え?」
すると、クリーバーは苦笑しながらウィスキイをぐっといっぱい飲み込んだ。
「いや、なかなか、あなたの方の精細な御調査には満足を感じますよ。が、しかしだ。それは何かの間違いだと一層結構だと思いますね。よろしいか、われわれのフェデラル無電は、今は日本の三井に支那放送権を奪われているのですぜ。もっとも、こう申し上げるのは、何もあなたがアー・エー・ゲー・シンジケートの強力なことを羨望するわけじゃないですが、とにかく、近来のアー・エー・ゲーの進出振りのお盛んなことは、敵ながら
宮子はもたれかかって来る二人の大きな脇の下から擦り抜けると、立ち上って髪を掻き上げた。
「もう沢山。シャンパンが来ましてよ。この上あたしたち、ドイツとアメリカのシンジケートで攻められちゃ、踊ることも出来やしないわ。」
「そう、そう、われわれは、闘いよりも踊るべしだよ。」
クリーバーは抜かれたシャンパンを高く上げるといった。
「われらの敵、アルゲマイネ・エレクトリチテート・ゲゼルシャフトの隆盛のために。」
フィルゼルはふらふらして立ち上った。
「われわれの尊敬の的、ゼネラル・エレクトリック・コンパニー万歳。」
しかし、ふとその拍子に、彼は頭の上の電球を仰ぐと、しばらくぼんやりしていてから、突然眼をむいて大きな声で叫び出した。
「これは、俺の会社の電球だ。万歳、万歳、ばんざあい。」
クリーバーは彼と同様に天井を仰いでみた。が、
「へへえ、これはすまぬが、ジー・イーだよ。おれんところの会社の電球だ。ゼネラル・エレクトリック・コンパニー、万歳、万歳、万歳。」
「いや、これはアー・エー・ゲーだ。見ろ、エミール・ラテナウの白熱球だ、万歳。」
「いや違うよ、これやの――」
「まア、馬鹿馬鹿しい。これは、日本のマツダ・ランプよ。」と宮子はいった。
二人は上げかけた両手をそのままに、ぽかんとして天井を見つめたまま黙ってしまった。すると、クリーバーは急に子供のように叫び出した。
「そうだ。こりゃ三井のマツダだ。われわれゼネラル・エレクトリック・コンパニー、マツダ・ランプ、万歳。」
彼は宮子の胴を
「ふむ、日本の代理店ならアー・エー・ゲーだってあらア。大倉コンパニーを知らねえか。大倉コンパニーは、ロンドンで、ロンドンでちゃんと調印したんだぞ。」
しかし、そのとき宮子の視線はさきから
踊りがすむと、宮子は参木の傍へ近よって来て腰を降ろした。
「あなた、どうしてこんな所へいらしったの。お帰りなさいな。ここはあなたなんかのいらっしゃる所じゃなくってよ。」
「そこを、どきなさい。」と参木はいった。
「だって、ここをどいたら、あたしの恋人の顔が見られるわよ。」
「僕はさきからあの女を見てたんだが、あの人は何んていう。」
「誰れ、ああ、容子さん。刺されてよ。危いからこっちを向いてらっしゃいな。あの人はあたしのように、開けてやしないわよ。」
「もう黙って向うへいってくれよ。今夜は考えごとをしてるんだから。」
宮子は椅子から足をぶらぶらさせながら煙草をとった。
「だって、あたしだって、ここにいたいんだわ。もうしばらくここにこうしていさせてちょうだい。」
「もうすぐここへ甲谷がやって来るんだが、そしたらまたここへおいでなさい。あの男と君が結婚するまでは、君とは、話したくないよ。」
宮子は火のついた煙草の先で、花瓶の花を焼きながら、微笑した。
「まあ、御苦労なことね。あたしはあなたと結婚するまでは、甲谷さんとは話さないことにしているんだから、どうぞ、甲谷さんには、あなたからよろしく
「僕は冗談を聞きに来たんじゃないですよ。僕は今夜は、もう良い加減に一つ良いことをしとこうと思って来たんだから、僕のいうことも聞いといてくれ給え。その方が君だって、いいに
「あたしは甲谷さんとは、死んだっていやなんですからね、あなたにくれぐれもお願いするわよ。あたし、あの方と結婚して、シンガポールなんかへいったって、色が真黒になるだけだわ。」
「それじゃ、甲谷と君とはもう駄目なんですか。」参木の眼からもう笑いが消えてうす冷い光りが流れた。
「ええ、もうそれは初めっからだわ。あたし、甲谷さんの好きな所は、御自分の英語の間違いも御存知にならない所だけよ。あれならきっと奥さんにおなりになる方だって、お
参木は宮子の皮肉が不快になると横を見た。並んだ踊子たちの膝の上を、一握りのチョコレートが華やかな騒ぎを立てて
「あなた、今夜はあたしと踊ってちょうだい。あたし、つくづくこの頃、生きてるのがいやになったの、あたし、どうして踊子なんかになったのでしょう。あたし、死ぬ前にあなたと一度、日本の花嫁さんの姿をして結婚がしてみたいわ。それも一度よ。ね、そうしてよ。」
「君ももうすることがなくなったと見えるね。僕を掴まえてそんなことをいうようじゃ、それや危いぞ。」
「そう、危いのよ。あたしは自分と同じような顔を見つけると、恐ろしくて寒けがするの。あなたももうお気をつけてらっしゃらないと、危くてよ。顔に出てるわ。」
参木は急所を刺されたようにますます不快になると眉を
「もう、向うへいってくれよ。同じ人間が二人もいちゃ、辷るだけだよ。」
「だって、もうこうなれば同じことだわ。あなた、おかしくなったらあたしにいってね、あたし、いつでもあなたのお相手してよ。嘘じゃないわ。あたしひとりなら、まだまだぶらぶらしてるに
参木は滲み込んで来る危険な境界線を見るように、宮子の眼を眺めてみた。すると、ふと、彼は競子の顔を思い出した。だが、もう彼女は体の崩れた未亡人だ。彼は秋蘭の顔を思い出した。だが、彼女を見ることは死ぬことと同様だ。いやそれより俺には何の希望の芽があるか。――
「あたし、何んだか、だんだん氷と氷の間へ辷り込んでいくような気がするのよ。これはきっと、あんまり人の身体の間へ挟まってばかりいるからね。恋愛なんてまるで泥みたいに見えるのよ。」
参木は
「君、もう踊って来なさい。僕はここで君の踊るのを見てるよ。」
「あなた一度、あたしと踊らない。」
「駄目だ、踊りは。」と参木はぶっきら棒にいった。
「だって、ただぶらぶら足踏みさえしておればいいんじゃないの。こんな所で上手に踊ったりするのは、きっとどっか馬鹿な人よ。」
「とにかく、何んだっていいよ。ここにいたってつまらないじゃないか。あっちの方が君の
宮子は参木の指差した外人たちの
「何アんだ。さきからぷんぷんしてたの、それか、あたし、そういうのは好きじゃないね。じゃ、さようなら、あちらへ行くわ。ああ、そうそう、あそこに
「それより、もうすぐ甲谷が来るよ。」
「だって、あたし、ほんとに甲谷さんとは、初めから何んでもないのよ。それだけは覚えといて、ね、ね。」と宮子はいうと、英語のバスの渦巻いた会話の中へ、しなしな背中に笑いを波立てながら歩いていった。
高重の工場では、暴徒の襲った夜以来、ほとんど操業は停ってしまった。しかし、反共産派の工人たちは機械を守護して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると袋叩きにして河へ投げた。工場の内外では、共産派の宣伝ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。
高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木が無事なら顔だけは見せるにちがいないと思っていた。だが、それも見せぬ。――
高重は工場の中を廻って見た。運転を休止した機械は昨夜一夜の南風のために
高重は屋上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦から
来たぞ、と高重は思った。彼は脊を低めて階下へ降りようとした。すると、倉庫の間から、声を潜めて馳けている黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷っていった。それは逞しい兇器のように急所を狙って進行している恐るべき一団にちがいないのだ。高重はそれらの一団の背後に、芳秋蘭の潜んでいることを頭に描いた。彼はそれらの計画の裏へ廻って出没したい慾望を感じて来た。彼らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したいだけなのだ。――
高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場は真黒になった。喚声が内外二ヶ所の門の傍から湧き起った。石炭が工場を狙って飛び始めた。探海燈の
高重は彼らを工場内に引入れることの
彼らは精紡機の上から、格闘する人の頭の上へ飛び降りた。木管が、投げつけられる人の中を、飛び廻った。ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら裸体の肉塊へ突き刺さった。打ち合うラップボートの音響と叫喚に攻め寄せられて、次第に反共産派の工人たちは崩れて来た。
高重は電話室へ馳け込むと、工部局の警察隊へ今一隊の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工場内の電燈が明るくなった。瞬間、はたと混乱した群集は停止した。と、再び、怒濤のような喚声が、湧き上った。高重はまだ侵入されぬローラ櫓を楯にとって、頭の上で唸る
しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。すると、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上へ飛び上ると、礫や石炭を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上る群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて
反共派の工人たちは、この団々と膨脹して来る群衆の勢力に巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新しく群衆の勢力に変りながら、逆に社員を襲い出した。社員は今はいかなる抵抗も無駄であった。彼らは印度人の警官隊と一団になりながら、群衆に追いつめられて庭へ出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の群れが襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇器を振り上げた新しい群衆が、忽然として現れた。彼らの怒った口は
反共産派の工人たちは、この敗北しかけた共産系の団流を見てとると、再び
工部局の機関銃隊が工場の門前に到着した時は、
顔をぽってり
山口はここでアムリと話したら、今夜は、お杉に逢うことの出来なくなるのを感じた。しかし、そのときは、早や、彼はアムリに声をかけてすでに近よってしまっている後であった。
「おう。」アムリは堂々とした身体を振り向けると、宝石台の厚ガラスに片手をついて、山口と握手をしつつ明瞭な日本語でいった。
「しばらく。」
「しばらく。」
「ときに、どうも飛んだことになったじゃないか。」と山口はいって手を放した。
「左様、なかなか込み入って来ましたね。今度は支那もよほど拡げる見込みらしい。」
「あなたは李英朴に逢いましたか。」
「いや、まだだ。李君に逢おうと思っても
「しかし、あれはまア、発砲したのが日本人であろうと印度人であろうと、押しよせて来たのは支那人なんだから、誰だって発砲しようじゃないかね。文句はなかろう。」
「それはそうだが、そうだとしたって、罪を印度人に負わせる必要はどこにもないさ。」
「しかし、あれは君、検視してみたら弾丸が印度人のと日本人のとが這入っていたというので、何んでも今日あたりからいままでの排日が、排英に変っていくそうだ。それなら、君だって賛成だろう。」
アムリは入口の闇に漂っている
「われわれは支那人の排英にはもう賛成しませんね。支那人に出来るのは、排支だけだ。」
「廃止か。」山口はアムリの大きな掌で
「いや、違う。泥棒からだ。」
「それじゃ、ひとつ貰ったって、かまわんね。」
「よろしい。どうぞ。」とアムリはいって宝石台の戸を開けた。山口は中につまっている印度製の輝いた麦藁細工の黒象をかきのけると、お杉にひとつと思って、アメシストの指環を抜きとった。
「君、これは贋物じゃなかろうね。」
「いや、それは分らぬ。」とアムリはいった。
「それじゃ貰ったって、有難かないじゃないか。」
「だから、金五ドルさ。」アムリは掌を山口の方へ差し出した。
「贋物のくせに、君はまだ金をとろうというのかね。」
「それが商売というものだよ。おい、君、五ドル。」
山口は五ドルを出すと、指環を自分の指に
「今夜からは、わしだけは排印だ。」
「僕をこんなにしたのは、これは英国さ。」
「英国といえば君、この頃の英国はまたなかなかやりよるじゃないか。君の国の国民会議派も危いね。」
「危い。」とアムリは平然としていった。
「君はどうだ。会議派がもし分裂すればどちらになるんだ。まさか君の御大のジャイランダスまで共産党にくらがえするんじゃなかろうね。大丈夫かい。」
「それは分らん。この頃みたいにヤワハラル・ネールが鞍がえするとなると、ジャイランダスだって、そのままにはいられまい。」とアムリはいった。
「しかし、今頃から鞍がえするなんて、ヤワハラルもあんまり山を張りすぎるじゃないか。」
アムリは黙って戸口の方を眺めたまま答えなかった。山口は印度から詳細な通知が、もうこのアムリに来ているにちがいないと思って袖を引いた。
「ヤワハラルの鞍がえは、英国の寿命を五十年延ばしてやったのと同然だよ。君はどう思う。」
「僕もそう思う。」とアムリは答えた。
「それなら、君の敵はまた一つ増えたわけじゃないか。」
「増えた。」
「今頃、同志が苦しんで英国と闘っているときに、青年の力を借りなければならぬからといって、わざわざ君らを背後から襲うというのは、分裂している印度を一層分裂させるようなものだ。君らは印度を改革しようとするんじゃなくって、今日からは守備につかねばならんのだ。目的が変って来ている。今度は君らは改革される番じゃないか。」
しかし、アムリは前方の靄の中を眺め続けたまま、急激に起って来たこの祖国の新しい混乱に疲れたかのように、いつまでも黙っていた。
「君、その後の通知はまだ印度から来ないのかね。」
「来ない。」とアムリは答えた。
「それじゃよほど今頃は混乱してるんだな。」
「しかし、共産党が印度にも起り出したところで、われわれはその共産党と闘う必要はない。共同の目的はどちらにしたって英国だ。」
山口はアムリから自国の
「君、印度に共産党が起れば、今まで独立運動に資金を出していた資本家が、英国と結びついてしまうじゃないか。そうしたら、会議派の条件は永久に葬られるより仕様があるまい?」
「それはそうかもしれないが、しかし、支那でも資本家は共産党と結託して排外運動を起しているんだから、印度もそこは、ジャイランダスとヤワハラルにまかしておくより仕方があるまい。」
アムリは時計を仰ぐと、
「おい、店をしまえ。」と大声で小僧にいった。
「しかし、それにしたって、印度からこちらの海岸線が、そう無暗に共産化してどうなるんだ。われわれの大アジヤ主義もヨーロッパと戦うことじゃなくって、これじゃ共産軍と戦うことだ。」
「ロシアだ。曲者は。」とアムリはいうと、窓のカーテンを引き降ろした。続いて小僧は表の大戸を音高く引き降ろした。
「この分だと君らのミリタリズムは、当然ロシアと衝突せずにはおられまい。」とアムリはいった。
「ミリタリズムがロシアと衝突すれば、君、印度はどうする? これは一番問題だぞ。」と山口は刺し返した。
「そうすれば印度は当然分裂さ。ヤワハラルのこの頃の勢力は、青年の間ではガンジー以上だから大変だよ。」
「そうすると君の大将のジャイランダスはどうなるんだ。」
「ジャイランダスはあくまで英国と闘うさ。問題はまだまだ山のようにある。国防軍の統帥権と、経済上の支配権、印度公債の利権賦与と塩専売法の否定運動、それに何より政治犯人の控訴権の獲得だ。君、全印国民会議執行委員三百六十名の中、七十六パーセントの二百七十人は現在獄中にいるんだからね。いずれにしたって、これはこのままじゃいられぬさ。牢獄は正義の士でいっぱいだ。もう五年、五年間待ってくれ、やってみせる。」
アムリは内ポケットから謄写版ですった用紙を出した。
「これは先日ラホールの同志から来た印度総督攻撃の名文だが、なかなか近頃にない名文だ。――塩税に関して我々のなしたところの、げに穏健着実なる提案に対し、総督の採りたる態度は、怪しむべき政府の真情を暴露する。目もくらむばかりのシムラの高原に閑居する全印度の統治者が、平原に住む餓えたる数百万の苦悩を理解し得ざるは、我々にとってはあたかも日を仰ぐがごとく明瞭である。
「君、そりゃ、共産党の文句じゃないか。ラホールももう危いのかい?」と山口はいった。
アムリは用紙から眼を上げると、山口の顔を見ていった。
「君には何んでも共産党に見えるんだね。そんなに共産党が恐くちゃ、大アジヤ主義もお終いだよ。」
「まア、何んでも良いから今夜は出よう。」
「出よう。」
山口は先に表へ出ると、アムリも後から帽子を取ってついて出ていった。
海港からは、拡大する
参木はこの取引部の掲示板に表れた日本内地の好景気の現象に興味を感じた。邦人会社が苦しめられると、逆に大阪が儲け出したのだ。それなら、支那では――支那に於ける参木の邦人紡績会社では、久しく倉庫に溜った残留品までが飛び始めた。
勿論、この無気味な好況に
この罷業影響としての棉製品の欠乏から、最も巨利を占めたのは、印度人の買占団と、支那人紡績の一団であった。支那人紡績は、前から久しく邦人会社に圧迫せられていたのである。彼らは邦人紡績に罷業が勃発すると同時に、休業していた会社さえ、全力を挙げて機械の運転を開始し始めた。罷業職工内の熟練工が続々彼らの工場へ
この支那資本家の一団である総商会の一員に、お柳の主人の銭石山が混っていた。彼は日本人紡績会社に罷業が起ると、彼らの一団と共に策動し始めた。彼らは支那人紡績に資金を増した。排日宣伝業者に費用を与えた。同時に罷業策源部である総工会に秋波を用いることさえ拒まなかった。そうして、この支那未曾有の大罷業が、どこからともなく押し寄せた風土病のように、その奇怪な翼を刻々に拡げ出したのだ。今や海港には失業者が満ち始めた。
この騒ぎの中で、高重ら一部の邦人と、工部局属の印度人警官の発砲した弾丸は、数人の支那工人の負傷者を出したのだ。その中の一人が死ぬと、海港の急進派は一層激しく暴れ出した。彼らは工部局の死体検視所から死体を受けとると、四ヶ所の弾痕がことごとく日本人の発砲した弾痕だと主張し始めた。総工会幹部と罷業工人三百人から成る一団が、棺を担いで、殺人糾明のため工場へ押しかけた。しかし、彼らはその門前で警官隊から追われると、ようやく棺は罷業本部の総工会に納められた。
高重は自身たちの作った一つの死体が、次第に海港の中心となって動き出したのを感じた。支那工人の団結心は、一個の死体のために、ますます
しかし、見よ、と彼は思った。
――今に、彼女が活動すればするほど、彼女に引き摺り廻される工人の群れは餓死していくにちがいないのだ。――
総工会に置かれた死亡工人の葬儀は、附近の広場で盛大に行われた。参木の取引部へは、刻々視察隊から電話が来た。
襲撃された邦人の噂が
参木は視察を命ぜられると、時々支那人に扮装して市中を廻った。彼は芳秋蘭を見たい慾望を
その日は、参木はいつものようにパーテルで甲谷と逢わねばならなかった。彼の歩く道の上では、夏に近づく蒸気がどんよりと詰って居た。乞食の
群衆のその長い列は、検束者を奪うために次第に噛まれた頭の方向へ縮りながら押し寄せた。石の関門は
彼は激昂しながら同胞の殺されたことや、圧迫するものが英国官憲に変って来たことを叫んでいるうちに、突然脳貧血を起して石の上へ卒倒した。群衆はどよめき立った。宣単が人々の肩の隙間を、激しい言葉のままで飛び歩いた。
その勢いに乗じて再び動き始めた群衆は、口々に叫びながら工部局へ向って殺到した。ホースの筒口から射られる水が、群衆をひき裂くと、八方に吹き倒した。人の波の中から街路の切石が一直線に現れた。
もはや群衆は中央部の煽動に完全に乗り上げた。そうして口々に外人を倒せと叫びながら、再び警察へ向って肉迫した。
それはほとんど鮮かな一閃の断片にすぎなかった。小銃の反響する街区では、群衆の巨大な渦巻きが、分裂しながら、建物と建物の間を、交錯する
参木は自身が何をしたかを忘れていた。駈け廻る群衆を眺めながら、彼は秋蘭の笑顔の釘に打ちつけられているのである。彼は激昂しているように、茫然としている自分を感じた。同時に彼は自身の無感動な胸の中の洞穴を意識した。――遠くの窓からガラスがちらちら滝のように落ちていた。彼は足元で弾丸を拾う乞食の頭を
「ああ。」と彼は叫んだ。
彼は秋蘭の腕に引き摺られていたのである。
「さア、早くお逃げになって。」
参木は秋蘭の後に従って駈け出した。彼女は建物の中へ彼を導くと、エレベーターで五階まで駈け昇った。二人はボーイに示された一室へ這入った。秋蘭は彼をかかえると、いきなり激しい呼吸を迫らせてぴったりと接吻した。
「ありがとうございましたわ。あたくし、あれから、もう一度あなたにお眼にかかれるにちがいないと思っておりましたの。でも、こんなに早く、お眼にかかろうとは思いませんでした。」
参木は次から次へと爆発する眼まぐるしい感情の音響を、ただ恍惚として聞いていたにすぎなかった。秋蘭は忙しそうに窓を開けると下の街路を見降ろした。
「まア、あんなに官憲が。――御覧なさいまし、あたくし、あそこであなたにお助けしていただいたんでございますわ。あなたを狙っていたものが発砲したのも、あそこですの。」
参木は秋蘭と並んで下を見た。壁を伝って昇って来る硝煙の匂いの下で、群衆はもはや最後の一団を街の一角へ吸い込ませていた。真赤な装甲車の背中が、血痕やガラスの破片を踏みにじりながら、穴を開けて静まってしまった街区の底をごそごそと
参木は彼の闘争していたものが、ただその真下で冷然としている街区にすぎなかったことに気がついた。彼は自身の痛ましい愚かさに打たれると、
参木は弾力の消え尽した眼で、秋蘭の顔を見た。それは
「もう、どうぞ、僕にはかまわないで、あなたのお急ぎになる所へいらっして下さい。」
「ええ、有りがとうございます。あたくし、今は忙がしくってなりませんの。でも、もう、あたくしたちの集る所は、今日は
「いや、ただ僕は、今日はぶらりと来てみただけです。しかし、あなたのお顔の見える所は、もうたいてい僕には想像が出来るんです。」
「まア、そんなことをなさいましては、お
「では、もう、日本工場の方の問題は、このままになるんですか。」と参木は訊ねた。
「ええ、もうあたくしたちにとっては、罷業より英国の方が問題です。今日の工部局の発砲を黙認していては、中国の国辱だと思いますの。武器を持たない群衆に発砲したということは、発砲理由がどんなに完全に作られましても英国人の敗北に
秋蘭は窓そのものに憎しみを投げつけるように、窓を突くと部屋を歩いた。参木は秋蘭の切れ上った
「僕は、今日の中国の人々には御同情申し上げるより仕方がありませんが、しかし、それにしたって、工部局官憲の
彼はそういったまま黙った。彼は支那人をして支那人を銃殺せしめた工部局の意志の深さを嗅ぎつけたのだ。
「そうです、工部局の
憤激の頂点で、
「僕は先日、中国新聞のある記者から聞いたのですが、ここの英国陸戦隊を弱めるために、最近ロシアから一番有毒な婦人が数百人輸送されたということですよ。この話の真偽はともかく、このロシアの老獪さはなかなか注意すべきことだと思いますね。」参木はこういいつつも、何をいおうと思っているのか少しも自分に分らなかった。しかし、彼はまたいった。「僕は今日のあなたの御立腹を妨害するためにいうんじゃありませんが、僕はただどんなに老獪なことも、その老獪さを無用にするような鍛錬といいますか。――いや、こんなことは、もうよしましょう。僕のいうことは、何もありませんよ、あなたはもう僕を
唖然としている秋蘭の顔の中で、流れる秋波が微妙な細かさで分裂した。彼女の均衡を失った唇の片端は、過去の愛慾の片鱗を浮べながら痙攣した。秋蘭は彼に近づいた。すると、また彼女はその
「さア、もう、僕をそんなにせずに帰って下さい。あなたはお国をお愛しにならなければいけません。」と参木は冷くいった。
「あなたはニヒリストでいらっしゃいますのね。あたくしたちが、もしあなたのお考えになっているようなことに頭を使い始めましたら、もう何事も出来ませんわ。あたくし、これから、まだまだいろいろな仕事をしなければなりませんのに。」
秋蘭は何かこのとき悲しげな表情で参木の胸に手をかけた。
「いや、誤解なさらんように。僕はあなたを引き摺り降ろそうと
参木はドアーを開けた。
「では今日はあたくし、このまま帰らせていただきますわ。でも、もう、これであたくしあなたにお逢い出来ないと思いますの。」秋蘭はしばらく、出て行くことに躊躇しながら参木を仰いでいった。
「さようなら。」
「あたくし、失礼でございますが、お別れする前に、一度お名前をお聞きしたいんでございますけど。まだあなたはあたくしに、お名前も
「いや、これは。」
と参木はいうと曇った顔をして黙っていた。
「僕は甚だ失礼なことをしていましたが、しかし、それは、もうこのままにさせといて下さい。名前なんかは、僕があなたのお名前さえ知っていれば結構です。どうぞ、もうそのまま、――」
「でも、それではあたくし、帰れませんわ。明日になれば、きっとまた市街戦が始まります。そのときになれば、あたくしたちはどんな眼に合わされるか知れませんし、あたくし、亡くなる前には、あなたのお名前も思い出してお礼をしたいと思いますの。」
参木は突然襲って来た悲しみを受けとめかねた。が、彼はぴしゃりと跳ね返す扇子のように立ち直ると、黙って秋蘭の肩をドアーの外へ押し出した。
「では、さようなら。」
「では、あたくし、特別会議の日の夜、もう一度ここへ参りますわ。さようなら。」
部屋の中で、参木はいつ秋蘭の足音が遠のくかと耳を
市街戦のあったその日から流言が海港の中に渦巻いた。殺戮される外人の家の柱に白墨のマークが附いた。工務局では発砲のために大挙して襲うであろう群衆を予想して、各国義勇団に出動準備を命令した。市街の要路は警官隊に固められた。
参木はほとんど昨夜から眠ることが出来なかった。彼は支那服を着たまま露路や通りを歩いていた。彼はもう市街に何が起っているのかを考えなかった。ただ彼はときどきぼんやりしたフィルムに焦点を与えるように、自分の心の位置を測定した。すると、
この彼のうす冷い孤独な感情の前では、銃器が火薬をつめて街の中に潜んでいた。群衆は排外の
参木はこれらの膨脹する群衆から
これらの群衆はしばらくは警官隊の騎馬の鼻さきを愚弄しながら、だんだん総商会のホールの方へ近づいていった。そこでは、前から集合していた商会総聯合会と、学生団体との聯合会議が開催されていたのである。附近の道路には数万の男女の学生が会議の結果を待って
参木にはこれら共産党と資本家団体との一致の会合が、二日の後に開催される外人団の納税特別会議に対する威嚇であることは分っていた。しかし、それにしても、もしその日の納税特別会議が――外人の手で支那商人の首を一層確実に締めつける関税引上げの議案を通過させれば、――参木には、その後の市街の混乱は全世界の表面に向って
参木は前からこの群衆の渦の中心に秋蘭の潜んでいるのを感じていた。しかし、彼はそのどこに彼女がいるかを見るために、動揺する渦の色彩を眺めていたのである。彼の皮膚は押し詰った群衆の間を流れて均衡をとる体温の層を感じ出した。すると、彼は彼ひとりが異国人だと思う胸騒ぎに締めつけられた。彼は彼と秋蘭との間に群がる群衆の幅から無数の牙を感じると、次第にその団塊の中に流れた共通の体温から、ひとりだんだんはじき出されていく自分を見た。
参木がようやく群衆の中から
「おい君、もう僕はここにいたって駄目だ。四、五日すれば材木が着くんだが、着いたら宮子を連れてシンガポールへ逃げ出そうと思っている。」と甲谷は疲れた眼を上げていった。
「それで宮子は承知したのか。」と参木は訊ねた。
「いや、承知はまだだ。材木の金がとれるか宮子が落ちるか、とにかくどっちか一つが駄目なら、俺は自殺だ。」
「それやどっちも駄目だ。明日から銀行は危くなるのは
「そんなら、自殺も出来んじゃないか。」
笑う後から滲み出る甲谷の困惑した顔色を、参木は黙って眺めていた。恐らく甲谷には参木の流れる冷たい心理の中へ足を踏み込むことは出来なかったにちがいない。しかし、それとは反対に、参木は甲谷の健康な慾望の波動から、瞬間、久しく忘れていた物珍らしい過去の暖い日を幻影のように感じて来た。すると、競子の顔が部屋の隅々から現われ出した。
「とにかく、われわれはこうしてはいられない。何とかしなけれや。」と甲谷はうろうろしたようにいった。
「何をするんだ。」と参木はいった。
「それが分れば困りあしないよ。」
「君は宮子を落せばいいんじゃないか。」
「しかし、君はどうするんだ。」
「俺か。」
参木はもう一度秋蘭に逢いたいだけだ。
「君、あの宮子を君は突き飛ばすことは出来ないのか。」
「出来ない。あの女は僕を突き飛ばしているだけさ。あの女には僕はシンガポールの材木をすっかり食われてしまわなきあ、駄目らしいよ。」と甲谷はいった。
「君が出て来たときには、フィリッピン材を蹴飛ばさなきあ帰らないといってたが、皮肉にも程度があるぞ。もう僕は君にあの女をすすめるのはやめたよ。あの子は君の裏と表をすっかりひっくり返してしまっているじゃないか。」
「しかし、ひっくり返っているのは何も俺だけじゃなかろうじゃないか。この街まで今は
甲谷は重そうに立ち上ると、ポケットから競子の手紙を出して出ていった。その手紙の中には、帰ろうとしている競子を邪魔しているものは、この海港の混乱だと書いてあった。
――帰れなくしたのは誰だ、と参木は思った。すると、彼の日々見せつけられた暴徒の拡った黒い翼の記憶の底から、芳秋蘭の顔が様々な変化を見せて現われて来るのであった。
宮子は甲谷に誘われるままに車に乗った。彼女は彼女を取り巻く外人たちが、今は義勇兵となって街々で活動している姿を見たかったのだ。しかし、甲谷はもう宮子に叩かれ続けた自尊心の低さのために、今はますます叩かれる準備ばかりをしていなければならなかった。二人は車を降りた。河岸の夜の公園の中では、いつものように春婦らがベンチに並んでうな垂れていた。毒のめぐった白けた女たちの皮膚の間から、噴水が舌のようにちょろちょろと上っていた。甲谷は雨の上った
「もう僕は何もかもいってしまっていうことはないんだが、同じいうなら、もう一度いったって悪くはなかろう。」
「いやだね、あんたは。そういつもいつも、あたしばっかり攻めなくたって、
「それで実は、もう僕も何から何までさらけ出して話すんだが、ひとつ頼むよ。」
宮子は甲谷の肩にもたれかかるとうるさまぎれに、もう毒々しく笑い出した。
「あたし、あなたは嫌いじゃないのよ。だけど、そうあなたのように、いつもいつも同じことをいわれちゃ、あたしだっておかしくなるわ。」
甲谷がベンチに腰を降ろすと宮子もかけた。甲谷は靴さきに浮ぶ
「あちらはあちら、こちらはこちらだ。ね、君、君とこうして坐って話していても、仕方がないから、もういい加減に僕を落ちつけてくれたっていいだろう。とにかく、これからすぐ、僕のところへ行こう。」
「まア、あんなに煙が出たわ。御覧なさいよ。あれは英米煙草だわ。もうこの街もおしまいだわ。」
「街なんかどうなろうといいじゃないか。いずれこの街は初めから
「だって、あたしにゃこの街ほど大切な所はないんですもの。あたしここから出ていったら、
甲谷は乗り出す調子が
「もうそんなことは考えないでくれないか。ただ結婚してくれれば万事こちらで良くしていく。それなら良かろう。それなら、僕は、――」
「だって、あたし、だいいち結婚なんかしてみたいと思ったことなんてないんですもの。あたしもし結婚したければ、あなたが初め
甲谷は頭を掻くように笑いながら、一寸後を振り返ったがまた急いだ。
「それや、いくら悪口いわれたっていいから、とにかく、これじゃ、いくら君を廻ってぐるぐるしたって、これはただぐるぐるしているというだけで、何んでもないんだからね。」
「あたしは駄目なの。あたし、自分が一人の男の傍にくっついて生活している所なんか、想像が出来ないわ。あたし男の方を見ていると誰だって同じ男のように見えるのよ。これで結婚なんかしていたら、あなたから逃げ出されるにきまっているわ。それよりあたしはあたしの流儀で、困っている沢山の男の方にちやほやしているの。あたしに
波がよせると、それが冷たい幕のように甲谷の身体に
「駄目だ。」と甲谷はいうと、不意に彼女を抱きよせようとした。が、後ろのベンチで、春婦の群れが
「あなた、あたしにしばらくこうしていさせて頂戴。あたし一日にいっぺん、誰かにこうしていないと、駄目なの。あたし、あなたのお心はもう分ったわ。だけど、駄目よあたしは。あなたは早くお綺麗な方を貰ってシンガポールへお帰りなさいな。あたしは誰にでもこんなことをする
イミタチオンの宮子の靴先が軽く甲谷の靴を蹴るたびに、甲谷の腕は
「君の優しさは前から僕は知っていたんだが、しかしこの上僕を迷わすことは御免してくれ。ただもう僕は君が好きで仕方がないんだ。」と甲谷はいってまた強く宮子を抱きすくめた。
「あなたはあなたに似合わず、今夜はつまんないことばかり仰言るのね。あの橋の上を御覧なさいよ。義勇兵が駈けててよ。それにあなたは、まア、なんて子供っぽいことばかり仰言るんでしょう。もっとこんなときには、
甲谷は宮子を芝生の上へ突き飛ばすと、立ち上った。しかし、彼は彼女が彼にそのようにも怒らせようと企んだ彼女の壺へ落ち込んだ自分を感じると、再び宮子の前へ坐っていった。
「君、もう
宮子は髪を振りながら芝生の上から起き上った。
「さア、もう、帰りましょうね。あたし、あなたがあたしを愛していて下さるんだと思うと、もういつでも我ままになっちゃうのよ。ね、だから、もう何もあたしには仰言らないで、――」
しかし、甲谷は完全に振り落された男がここに転げているのだと気がつくと、もう動くことも出来なくなった。宮子は公園の入口の方へひとりときどき振り向きながら歩いていった。芝生の上に倒れている甲谷の頭の上の遠景では、火のついた煙草工場がしきりに発砲を続けていた。
海港の支那人の活躍は変って来た。支那商業団体の各路商会聯合会、納税華人会、総商会の総ては、一致団結して
その日の夕刻、
参木は思った。これは何か必ず今夜、
しかし、参木には自分の頭脳の廻転が、自分にとって無駄な部分の廻転ばかりを続けていることに気がついた。彼はただ今は死ねば良いのだ。死にさえすれば。それにも拘らず秋蘭を見たいと思う願いがじりじり後をつけて来るのを感じると、彼はますます自身の中で
そのとき、前方の込み合った街路を一隊の米国騎馬隊が彼の方へ駈けて来た。それと同時に、両側の屋内から不意に銃声が連続した。騎馬隊の先頭の馬が突っ立った。と、なお鳴り続けている音響の中で、馬は
参木の周囲では、群衆は彼ひとりを中に挟んだまま、馬の進退に従って溶液のように膨脹し、収縮した。そのたびに、彼はそれらの流動する群衆の羽根に突き飛ばされ、巻き込まれながら、だんだん露路口の壁の方へ叩き出されていった。
騎馬隊が逃げていくと、群衆は路の上いっぱいに詰まりながら、
参木は押しつけられた胸の連結の中から、ひとり反対に道路の上を見廻した。彼はそこに倒れた動かぬ人の群れの中から、秋蘭の身体を探そうとして延び上った。馬の倒れた大きな首の傍で、人の身体が転がりながら藻掻いていた。
発砲のあった家を中心にして、霞のような煙が静々と死体の上を這いながら、
街路の上から群衆の姿が少くなると、騎馬隊へ向けて発砲した家の周囲が、工部局巡捕によって
参木はもし秋蘭がその中にと思いながら、露路の片隅からそれらの引き出された青年たちを見詰めていた。――やがて、検束された一団は自動車に乗せられると、機関銃に送られて工部局の方へ駈けていった。銃器が去ったと知ると、また群衆は露路の中から滲み出て来た。彼らは
参木は群衆の中から擦り抜けると、この前秋蘭と逢った建物の前まで来かかった。しかし、もう彼は秋蘭を探す眼に全身の疲れを感じた。疲れ出すと、今まで何も無いものを有ると思って探し廻った幻影が乱れ始め、ごそごそ建物の間を歩いている自分の身体が急に心の重みとなって返って来た。だが、彼はそこで、しばらくの間うろうろしながら、もし秋蘭が来ているならここだけは必ず通ったであろうと思われそうな門の下を、往ったり来たりして歩いていた。彼は高い建物の上方を仰いだり、門の壁にぺったりと背中をつけて居眠るように立ってみたりしていると、ふと、向うから若い三人の支那人の来るのを見た。すると、その中の短く鼻下に髭を生やした一人の男が、擦れ違う瞬間、素早く参木の右手へ手を擦りつけた。参木は彼の冷たい手の中から、一片の堅い紙片を感じた。彼ははッとすると同時に、それが男装している秋蘭だったことに気がついた。しかし、もうそのときには、秋蘭は他の二人の男と一緒に、肩を並べて行きすぎてしまっている後だった。参木は紙片を握ったまま、しばらく秋蘭の後から追っていった。しかし、彼がそのまま秋蘭の後から追っていくことは、彼女を一層危機へ落し込むことと同様だと思った。彼女は優しげにすらりとした肩をして、一度ちらりと彼の方を振り返った。参木はその柔いだ眼の光りから、後を追うことを拒絶している別れの歎きを感じた。彼は立ち停ると、秋蘭を追うことよりも彼女の手紙を読む楽しみに胸が激しく騒ぎ立った。
参木は秋蘭の姿が完全に人ごみの中へまぎれ込んだのを見ると、急いで真直ぐに引き返した。彼は自分の希望を、底深く差し入れた手の一端に握ったかのように明るくなった。彼は今さきまで鬱々として通った道を、いつ通り抜けたとも感じずに歩き続けると、安全な河岸の橋を見た。彼はそこで、紙片を開けて覗いてみた。紙片にはよほど急いだらしく英語が鉛筆で次のように書かれてあった。
「もう今夜、あたくしたちは危険かと思われます。いろいろ有り難うございました。どうぞ、それではお身体お大切にしなさいませ。もしまだこの上永らえるようなことでもございましたら、北四川路のジャウデン・マジソン会社の
そう思えば思うほど、参木は波の上に
その夜、参木は遅く宮子の部屋の戸を叩いた。ピジャマ姿の宮子は
「君、今夜だけは、赦してくれ給え。」
「だって、寝台はあちらにあるわ。あちらへいって。」
口へあてがう宮子のコップの底を見詰めながら、彼は片手で宮子の手を強く握った。
「あなたは今夜へんよ。あたし、さきから天地がひっくり返ったような気がしていて、そんなことをされたって、何のことだかわかんないわ。」と宮子はうつろな眼で参木を眺めながらいった。
しかし、宮子は急に
「あたし、あなたがいらっしゃる前まであなたの夢を見ていたの。そしたらあなたがいらっしゃるんでしょう。あたしそれまで、あなたと何をしてたとお思いになって。」
鏡の前から戻って来ると、宮子は参木の頭を膝の上へ乗せながら顔を近々と擦り寄せた。
「あなた、もう元気をお出しになってよ。あたし、あなたの疲れてらっしゃるお顔を見るのはいやなのよ。」
参木は起き上った。彼は宮子の手を掴むといった。
「とにかく、つまらん。」
「何が。」
「もういっぺん黙って寝させておいてくれないか。」
参木はまた倒れると眼を瞑った。宮子は彼の身体を激しく揺り
「駄目じゃないの、あたしを叩き起して自分が眠るなんて、まだあたしはあなたの奥さんじゃないことよ。」
すると、参木は傍にあったウィスキイをまた一杯傾けた。
「そう、そう。結構だわ。あたし、あなたのわがままなんか初めっから認めてやしないのよ。だから、あたしはあなたなんかに同情したことなんか一度もないの。人の顔を見ると
「どうも失礼。これでどうやら君に叱られているのも分って来たよ。」
「当りまえよ。あなたなんかに憂鬱な恰好なんか見せていただかなくたって、街にいくらだってごろごろしているわ。あたしなんか見て頂戴。馬鹿なことは一人前に馬鹿だけど、面白そうなことだけは、これで何んだって知ってるのよ。」
宮子は不機嫌そうに外方を向くと煙草をとった。参木は予想とは反対に、急に怒り出した宮子の様子に気がつくと、またぐったりと横に倒れた。宮子は床に落ちている
「君、もうしばらく僕の
「いやよ、あたしあなたのお相手なんかまっぴらだわ。」
「ときどきはこういう男も君の傍にいたって悪くはなかろう。人には怒るものじゃない。朝早くから夜中まで僕は今日は幾回死にそこなったかしれないんだ。たまには疲れて来たんだから、君、疲れたときには、人は一番親しい所へ転がり込むもんだ。そう怒らずにもうしばらくここにいさせてくれたって、良かろうじゃないか。」
宮子はドアーの前に立ったまま参木の方へ向き直った。
「あなたは今夜はどうかしててよ。まさか幽霊じゃないんでしょうね。」
「いや、それは分らん。しかし、実はちょっと白状したいことがあって来たんだが、もういうのはいやになった。これ以上馬鹿になるのは、神さまに対してあいすまんよ。」
「そうよ、あなたは、すまないのは神さまにだけじゃないことよ。あたしにだってすまないわ。競子さんのことを考えていらっしゃるのも結構だけど、それじゃ競子さん、もったいないわ。」
「競子は競子、これはこれさ、僕はふわふわした男だから、ふわふわしてしまわなきあおさまらないんだ。それで今夜はのるかそるか、ひとつ無茶をやろうと思ってやったんだが、とうとうそれも失敗だ。どうもおれは
「饒舌りなさいよ、饒舌りなさいよ。あなたのして来たこと、
宮子は参木の傍へぴったりくっつくと、彼の頭をかかえてまた揺った。参木は揺られる頭の中で今日一日のして来たことを考えた。すると、ますます自分の心が身体の上へ乗りかかって来る重々しさを感じるのであった。彼は行きつまった心を抛り出すように饒舌り出した。
「僕はこの間から支那の婦人に感心して、一ヶ月の間自尊心と喧嘩し続けて、とうとうやられてしまったのが、今夜なんだ。それから僕は死のうと思った。しかし今死ぬなら支那人に殺される方が良い。日本人が一人でも殺されたら、日本の外交だけでも強くなる、とそうまア、西郷さんみたいなことを僕は考えた。僕は愛国主義者だから、同じ死ぬなら国のために死のうと思ったんだが、ところが、なかなか支那人は殺してくれぬ。殺されないなら、死んだって国の為にはならないし、同じ死ぬなら殺されよう、と思っているうちに、いつまでたったってこの醜態だから、死ぬことが出来やしない。」
「まアまア、結構な御身分ね。あたし嫌いよ、そんな話は。」と宮子はいって膝を動かした。
「それから、ここだ。僕が
「あんまり馬鹿にしないで頂戴、あたし聞いてるのよ。あたし、さきまであなたの夢まで見てたんだわ、ああ、口惜しい。」
宮子は手を延ばすとまたウィスキイを荒々しく傾けた。
「しかし、こうして考えて見ると、まア、馬鹿な話は話さ。ところが、そいつを真面目に考えていたんだから、ちょっとはどうかしてるんだ。頭というものは、馬鹿になり出すと、つまり、馬鹿な方へばかりだんだん頭が良くなり出す。譬えば君にした所で、甲谷と結婚しないことなんて、馬鹿な方へ頭がふくれだしたからさ。良いか、分ったね。」
「そうよ。あたし、あなたなんかに眼が
宮子は立ち上るとひき抜いた
「おい君、ここへ来てくれ、愛国主義者は一番
宮子は近寄る参木を突き飛ばした。参木は後の壁へよろけかかると、また宮子の肩へ手をかけた。
「よして頂戴。あたしは支那人じゃなくってよ。」
「支那人であろうが鱈であろうが、かまうものか。愛国主義者を出したからには、誰であろうと恩人さ。われわれ下級社員に愛国主義以外の何がある。」
参木は宮子のピジャマの足を
海港の
しかし、倒れたものはそれだけでなかった。海港のほとんど全部の工場は閉鎖された。群がる埠頭の
船は積み込んだ貨物をそのままに港の中でぼんやりと浮き始めた。新聞の発行が不能になった。ホテルでは音楽団が客に料理を運び出した。パン製造人がいなくなった。肉も野菜もなくなり出した。そうして、外人たちはだんだん支那人の新しい強さに打たれながら、海港の中で籠城し始めた。
参木は人通りのほとんどなくなった街の中を歩くのが好きになった。
しかし、参木は頻々として暴徒に襲われ続ける日本
或る日、参木と甲谷はいつもの店へ食事をしに出て行くともう食料がなくなったといって拒絶された。米をひそかに運んでいた支那人が発見されて殺されたという。それに卵もなければ肉もなかった。勿論、野菜類にいたっては欠乏しなければ不思議であった。
甲谷は外へ出ると参木にいった。
「これじゃ、飢え死するより仕方がないね。銀行は有っても石ばっかりだし、波止場に材木は着いても揚げてくれるものはなし、宮子にはやられるし、米も食えぬとなれば、君、こういう残酷な手は、神さまが知っていたのかね神さまが。」
しかし、参木には昨夜からの空腹が、彼の頭にまで攻め昇るのを感じた。すると、彼は彼をして空腹ならしめているものが、ただ
「君、君の休業中の手当が出るのかね。俺の金はもうないよ。しばらく君の手当をあてにするから、そのつもりでいてくれ給え。」と甲谷はいった。
「そうだ、すっかり手当のことは忘れていた。いずれなんとかなるだろう。手当が出なけれや、今度はわれわれが
「それやそうだな。しかし、そんならその罷業はどういうのだ。罷業をしたってお先に支那人にされちゃ、罷業にもならんじゃないか。」
「そしたら支那人と共同だ。」と参木はいって笑った。
「それじゃ、俺たちを一層食えなくするのも、つまり君たちだとなるのか。」
「もう食う話だけは、やめてくれ。僕は腹が
「しかし、休業中の手当を日本人だけ出しといて、支那人に出さぬとなると、これやますますもって大罷業だね。この調子だと、俺もいつまでたったって食えないかもしれないぞ。」
二人は両側の家々の戸の上に、「外人を暗殺せよ。」と書かれた紙片の貼られたのを読みながら、歩いていった。
「とにかく、殺されるためにゃ、食べなくちゃ。」と参木はいった。
「いや、この上殺されちゃ、おしまいだよ。」と甲谷はいった。
二人は笑った。参木は笑いながらふと甲谷と宮子を妨害している自分という存在について考えた。すると、ここでも彼は不必要に自分の身体に突きあたらねばならなかった。
「君は宮子が本当に好きなのかい。」と参木はいって甲谷を見た。
「好きだ。」
「どれほど好きだ。」
「どういうもんだか俺はあ奴が俺を蹴れば蹴るほど好きになるのだ。まるで俺は蹴られるのが好きなのと同じことだ。」と甲谷はいった。
「それで君は結婚して、もし不幸な事でも起ればどうするつもりだ。」
「ところが、俺の不幸は今なんだからね。今より不幸のことってあってたまるか。」
参木は競子をひそかに愛していた昔の自分を考えた。そのとき、甲谷は競子の兄の権利として、絶えず参木の首を掴んでいた。が、今は、彼は甲谷の首を逆に掴み出したのだ。
「君、君はお杉をどう思う。」と参木はいった。
「あれか、あれは俺にとっちゃ
「あれは君にとっちゃ捨石かも知れないが、僕にとっちゃ細君の候補者だったんだからね。お杉を攻撃したのは君だろう。」
瞬間、甲谷の顔は
「ふん、俺の捨石になる奴なら、誰の捨石にだってなろうじゃないか。」といってのけた。
参木は自分の捨石になり出す宮子のことを考えながら、その捨石の、また捨石になり出した甲谷の顔を新しく眺めてみた。
「とにかく、僕にはお杉より適当な女は見当らぬのだ。君の捨石を拾ったって、君に不服はなかろうね。」と参木はいった。
「君、もう冗談だけはよしてくれよ。俺は飯さえ食えないときだ。これからひとつ馳け廻って、君、飯一食を捜すんだぜ。」
参木は黙った。すると、しばらく忘れていた空腹が再び頭を
しかし、参木と甲谷の廻った所はどこも白米と野菜に困っていた。明日になれば長崎から食料が着くという。二人は明日まで空腹を満すためには、暴徒の出没する危険区域を通過しなければならなかった。だが、今はその行く先にも食物があるかないかさえ分らないのだ。参木は甲谷とトルコ風呂で落ち逢う約束をすると、甲谷を安全な街角から後へ帰して、ひとり食物を捜しに出かけていった。
甲谷は参木と分れると一層空腹に堪えかねた。それにないものはパンだけではなく煙草もないのだ。街路は夕暮だのに歩いているのは彼ひとりであった。どこもかしこも閉めてしまっている戸の隙から、何物が狙っているともしれたものではなかった。それにしても、兄の高重もひどいことをしたものだ。高重と印度人の弾丸が、彼をこんなに混乱させてしまう原因になろうとは、――甲谷は自分の船の材木が港に浮いたまま誰も
街に革命が起っているのも知らぬらしい一台の
しかし、いったいどこまで自分は走ろうとするのだろう。彼は地図を考えた。一番近いのは山口の家である。――山口の家には不用な女がごろごろしている話をきかされた。それがこの革命で死人と一緒に、どんなことをしているやら。お負けにその女のひとりを譲ろうといったのも山口なのだ。そうだ、山口の家へいってやろう。甲谷には眼の前の人けのない夕暮が、奇怪な光りをあげたように楽しくなった。彼は山口が
「左様、先ず一つの死体の価格で、ロシア人七人の
そう
もっと走れ、走れ。――
車夫はあばたの皮膚へ汗のたまった顔を辻ごとに振り向けて、甲谷を仰ぐと、またステッキの先の方向へ、静まり返った街路をすたすたと素足の音を立てながら走っていった。
甲谷は山口が家にいなければ、お柳の家へいこうと思った。お柳の家なら、彼女の主人は総商会の幹事をしている支那人だ。殊に共産党のあの芳秋蘭は、お柳の主人の銭石山と、気脈を通じているにちがいない。お柳の話では、いつかも芳秋蘭が二階の奥の密室へ来たことがあるという。俺はあの芳秋蘭を殺したなら、――そうだ。俺の材木をすっかり腐らせた奴め。俺はあ奴を殺したなら、そうだ俺があ奴を殺したって、ただそれは一人の人間を殺したというのと同じではないか。
彼は自分の考えていることが、車の上の気まぐれな幻想なのか、それとも真面目なのかどうなのかを考えた。全く、今はもう彼は、空腹と絶望のために、考えることそのことが夢のようで、考えが実行していることとどこで
彼は周囲の色が、次第に灰白色に変化して来るのを見ていると、もうあたりがいつの間にか、租界外の危険区域であるのを感じた。しかし、もう彼の空腹は、迫る危険の度合いを正当に判断することさえうるさくなって、ずるずると車と一緒に辷っていった。彼は宮子が今頃どうしているであろうかを考えた。或いはもう先夜自分を跳ねつけた行為を後悔して、今は自分の助けにいくのを待っているかもしれない。それとも、もう彼女を愛していたスコットランドの士官にでも救われているのであろうか。それともあの
遠くで、遅い
そのとき、突然彼を乗せた車が、煉瓦の弓門を潜ろうとすると、行手に見える長方形の空間が輝いた。それは六、七十人の暴徒に襲われている製氷会社の氷であった。氷はトラックの上から、ひっかかった人と一緒に辷り落ちた。アスファルトの上で
甲谷はもうすぐに山口の家があるのを思うと、今から後へひき返すことは、これまで来たことより一層危険なことだと思った。彼は群衆が氷塊の傍から次の地点まで暴力を移動していくまで、しばらくそこに隠れていなければならなかった。
丁度、幾条かの
甲谷は群衆が彼の前を通り抜けて空虚になると、初めて街路に出て、群衆とは反対に山口の家の方へ馳け始めた。しかし、そのとき、初めに甲谷を追って露路へ這入った群衆のいくらかが、逃げる甲谷を見付けて彼の後から馳けて来た。甲谷はもう疾風のようであった。走る速力に舞い上る柳の花の中をつきぬけた。背後から氷の破片と罵声がだんだん速度を早めて追って来た。彼は追っつかれない前に露路へまた逃げ込もうと思った。しかし、ふと右手の街角にアメリカの駐屯兵の
「諸君、頼む、危険だ。あれが。――」
しかし、駐屯兵は微笑を浮べたまま、追手の群衆を迎えるかのように動こうともしなかった。動かぬ兵士の中にいつまで停っていても、危険は刻々に迫るばかりであった。彼は一人の兵士の胴を一度くるりと廻ると、木柵の中を脱け出るようにそのまま裏へ飛び抜けてまた馳けた。橋があった。甲谷は橋の上で振り返ると、駐屯兵たちが追っかけて来る群衆を遮断してくれているものかどうかを見た。しかし、もう群衆は笑いながら立っている駐屯兵たちの前を通り過ぎて、彼の手近に迫っていた。甲谷はもう息が切れそうになった。自分の足の関節の動いているのが分らなかった。ときどき身体が宙を泳いで前にのめりそうになるのを、ようやく両手で支えてまた馳けた。橋を渡り抜けると、次の街角から草色をした英国の駐屯兵の新しい服が見えた。英国兵は馳けて来た甲谷を見つけると、
甲谷は山口の家の戸口へ着いたときには、もう、ぼんやりとして立ったまま急に
「どうした。」
そう山口が出て来ていっても、甲谷はまだしばらくの間黙っていた。山口は甲谷の背中を強く叩いて階段を連れて上ってから水を飲ました。
「寝るか。」
「寝る。」
と甲谷は一言いうと同時に、傍にあったベッドに横に倒れた。
「パンをくれ。パンを。いや、水だ、水だ。」と甲谷はいった。
陽がもう全く暮れてから、ようやく食事にありつくと甲谷は再び元気になった。彼は今朝から起った始終の話を山口にした。
「僕は君のこの家に這入って来るなり、いきなり変異が起ってね。僕は君のように愛国主義者になったんだが、もう僕は君より立派なものさ。覚悟をしてくれ。」
建築師の山口はポケットからナイフを出すと、黙って甲谷に血判状をつくれと迫った。甲谷はナイフの溝にたまっている黒い手垢を見ると山口の日頃触っている死体の皮膚が、定めしそこに溜り込んでいるのであろうと思って顎をひいた。
「あ、そうだ。君から僕は金を貰わなくちゃならないのだが。」と甲谷はいった。
「今日僕の乗って来た車夫は、門の下で
「駄目だよ、そんなものは。」と山口はいって相手にしなかった。
「だって、僕がその車にさえ乗らなきあ、あ奴は死人なんかにならなくたって良かったんだからね。それにわざわざ君んとこの傍まで追い込んで来たのは、誰だと思う。」
山口は手を振って甲谷の攻め立てて来る機略をまた
「そんなことをいいだしたら、今から君の
「しかし、他のときじゃないよ。僕の材木はもう船から上る見込みがないんだからね。金はもう僕はこれきりだ。」
甲谷はズボンのポケットを揺って銅貨の音を立てながら、
「君、くれなきゃ、その代り、僕が死人になるまで君の所に厄介になるまでさ。いいか。」
「いや、それも困るぞ。」と山口はいってナイフを机の上に抛り投げた。
「それじゃ、僕を困らないようにしてくれたって、良かろうじゃないか。僕は今日は自分の
山口は立ち上ると机の引出から蝋燭を取り出した。
「おい君、地下室へいこう。俺の製作所を見せてやろう。」
甲谷は先に立った山口の後から土間を降りると、真暗な
「もうここまで這入ればおしまいだぞ。」
「何んだ。生命まで取ろうというのか。」と甲谷はいって立ち停った。
「勿論生かしておいちゃ、明日から俺のパンまでなくなるさ。」
二人はまた奥の扉を押して進んだ。すると、急に甲谷の足は立ち
「出よう。これだけはもう僕も御免こうむるよ。」
そのとき、彼はふと壁を見ると、そこにかかっていた白い肋骨の間を、往ったり来たりしている鼠があった。それは間もなく二疋になり、三疋になった。が、それは三疋どころではなかった。しばらく見ている中に、一方の隅から渡って来た鼠の群れが真黒になりながら肋骨の下や口の中から、出たり這入ったりして壁を伝って下へ降りた。
「君、あれは飼ってあるのかね。」と甲谷は訊ねた。
「そうだ。あれを飼っとくと手数がはぶける。鼠というものは昔から、地上を清めるために生息しているものなんだ。」
蝋燭の光りの中で、大きな影を造って笑っている山口の顔が、このとき甲谷には恐るべき蛮族のように見えて来た。
「頭の上に革命があるというのに、ここで君は始終そんなことを考えているんだね。」と甲谷はいった。
「何アに、革命といったって、支那の革命じゃないか。弱る奴は白人だけさ。良い加減に一度ヨーロッパの奴を捻じ上げとかないと、いつまでたったって馬鹿にしやがる。今日こそアジヤ万歳だ。」
山口は鼠の傍へよっていって手を出した。すると、忽ち鼠の群が音も立てずに地を這って甲谷の方へ流れて来た。
しかし、甲谷はもう充分であった。臭気と不潔さとで嘔吐をもよおしそうになった彼は、胸を圧えながら梯子を登って土間へ出た。
甲谷が山口からチュウトン系のがっしりと腰の張った若いオルガを紹介されたのは、それから間もなくであった。オルガは黙って初めは笑顔も見せなかった。しかし、甲谷が参木の友人だと教えられると同時に、彼女は輝くような笑みを見せた。
「あなたは参木のお友達でいらっしゃいますの。参木はどうしていますかしら? あたしあの方とは、ここで一週間も一緒に遊んでおりましたわ。」とオルガは早口な英語でいって甲谷の方へ手を出した。
「そうだ、あいつはここに一週間もいたくせに、とうとうオルガに負けて逃げちゃった。」と山口は
「ここにあ奴、いたのかい、それは知らなかったね。そうかい。」甲谷はうす笑いを浮べながらオルガの顔を見なおした。「どうです、オルガさん、こんどの支那の革命と、あなたのお国の革命とは違いますか?」
すると、急に山口は鏡の中から甲谷を見て、
「おいおい、革命の話だけはよしたらどうだ。オルガを泣かしてしまうだけだ。こいつは革命の話となると、狂人みたいになるからね。」と遮った。
「しかし、それや何より聞きたいさ。こんな事は、どうなるやらさっぱり僕には分らんからね。経験のある人に聞いとかないと、材木の処分に困るんだよ。」
「そんなこと聞きたけれや、後でゆっくり聞けばいいさ。俺はこれから、ひと仕事しないと寝られないんだ。」
甲谷はふとそのとき、いつかサラセンで逢った山口の話を思い出した。それでは山口は話の通り、オルガを自分に譲ろうというのであろうか。しかし、何事も計画は直ちに実行に移していく山口のことであった。
「じゃ、君はこれからどっかへ行くのか。」と甲谷は訊ねた。
山口は剃刀を下へ降ろすともう一度鏡を覗きながら、
「君をここへ一人ほったらかしておいたって、無論よかろうね。」と顎を撫でつつ訊ね返した。
「良いとは、何が良いのだ?」と甲谷は
「
「しかし、それは分らんよ。鼠に俺が曳かれて悪ければ、何も君は出ていかなきあいいじゃないか。」
「ところが、そこを出ようというのだから、察して貰おう。早く出ていかないと、君の乗って来た車夫は拾われてしまうかもしれないからな。それにまだ俺は、お杉の所へもいかなくちゃならんのだ。」
甲谷は山口の口からお杉と聞くと、言葉を次ごうとしていた呼吸も思わずはたと止ってしまった。――甲谷は再びお杉の顔を思い描いた。すると、参木も山口もお杉にした自分の行為を知っていて、ともに胸の底では、ひそかに自分に突っかかっているのではないかと思った。しかし、彼はたちまち昂然となると、
「お杉か。あれは北四川路八号の皆川だ。」彼はとぼけた笑いを浮き上らせながら白々しくいった。
「じゃ、君も行ったことがあるのかい。」
一瞬の間、山口は眉を強めて甲谷を見返した。
「いや、僕はお柳に訊いたのだが。お杉をあんなにしたのは、あれはお柳の仕業でね。気の毒は気の毒だが、気の毒なものは、まだそこにも一人いらっしゃるじゃないか。」
「俺か?」と山口はいうと、拳を固めて甲谷を殴りつける真似をした。
「馬鹿をいえ。気の毒なのはこのオルガさんだよ。この夜更けにひとりほったらかされて行かれちゃ、たまるまいよ。」
山口は笑いながら帽子をゆったり冠った。
「今夜は少々危いが、俺がやられたら後を頼むよ。昨夜は何んでも、芳秋蘭がスパイの嫌疑で仲間から銃殺されたとか、されかけたとかいうんだが、いつか君は、あの女の後を追っかけたことがあったっけ。」
「
「いや、そりゃ
山口は、ポケットから手帖と手紙を出すと、甲谷に見せた。
「君、俺がもし死んだら、君はこの二人の男に逢ってくれ。一人は
「じゃ、君も今夜はいよいよ死人になるんだな。」
山口はしばらく甲谷を見ていてから急に高く笑い出した。
「そうだ。死人になったら、俺の家の鼠にやってくれ。定めし鼠どもも本望だろう。」
「そりゃ、本望だろう。鼠にだって、この頃は
山口は、ともかくもこの場の悲痛な話を冗談にしてしまう甲谷の友情を感じたのであろう。オルガの肩を叩いて英語でいった。
「おい、お前の好きな参木に逢わしてくれるのも、この男よりないんだからね。甲谷には親切にしないといけないぜ。」
彼は甲谷を振り返った。
「じゃ、失敬、頼むよ。この李の手紙を読んどいてくれないか。なかなかの名文だよ。」
甲谷は悠々と笑いながら出ていく山口の後を見ていると、それはたしかに死体を拾いにいくのではなく、この騒動の裏で動くアジヤ主義者としての、彼の危険な仕事が何事かあるにちがいないとふと思った。彼は渡された李英朴の手紙を見ると、それは三日前にどこからか使いの者に持たして来たものであった。
山口君、本日の市街の惨案は、そもそもこは誰人の発案にかかるものであろうか。世界は常に公論ある人類の、永久的生存権を有するに非ざれば、必ず
李英朴
山口
「ね、甲谷さん、あなた、参木のことを御存知だったら、教えてちょうだい。あたし参木に逢いたいの。」とオルガはいって寝台の上に腰を降ろした。
「参木とはさっきまで一緒にいたんだが。しかし先生、僕の食い物を捜しに別れてからどこへいったか、僕にも分らんね。多分、あいつも途中でやられてしまったかもしれないぜ。」と甲谷はいってオルガの顔の変化を見詰めていた。
「じゃ、もう参木は死んだかしら。」オルガは首を上げて窓の外を見ながら動かなかった。
「それや、分らんよ。僕だってここへ来るには死にかかったんだからね。とにかく外は革命なんだから、何事が起るかさっぱり見当がつかないんだ。あなたたちの革命のときも、こうでしたか。まア、それから僕に聞かしてくれ給え。」
「あたしたちロシアのときは、何が街で起っているのか誰も知らなかったわ。ただときどき鉄砲の音がして、街を通っている人があっちへ
「それから、どうしたんです、それから。」と甲谷は物珍らしそうに
「それから、あたしの父が母とあたしとをつれて、とにかく逃げなけれやこれや危いっていうんでしょう。だから、あたしたち、まだ誰も革命だとは気付かないうちに、もうモスコウを逃げて来ましたの。だけどお金はあたしたち貴族は貴族だけど、いま急にっていったって、ないものはないんですからね。だからもう
オルガは丁度そのときもそうしたのであろう、胸に両手を縮めて空を見ながら、ぶるぶる
「何んだ。それから、どうしたんだね。」とまた甲谷はせき立てた。
「あたし、この話をするときは
オルガは甲谷の膝の上へ横に坐って身を擦りつけた。
「あなた、もしあたしが慄え出したら、あたしの身体をしっかり抱いてちょうだい。そうしたら、あたしもうそれで大丈夫なんだから。」
甲谷はオルガを抱きよせた。
オルガは手品を使う前の小手
「君、大丈夫かい。今から
「大丈夫よ、しっかりさえ抱いてて下されば、そうそう、そうしてあたしが慄え出したら、だんだん強く抱いてってよ。あたしのお父さんも、いつでもそうしてあたしを抱いてて下すったわ。」
「君のお父さん、まだいるの?」と甲谷は訊いた。
「お父さんはハルピンで亡くなったわ。だけど、もう革命のときトムスクでお父さん殺されかかったもんだから、よくまアあれまで生きられたもんだと思ってるの。」
「じゃ、君たちトムスクまでも逃げたんかね。」
「ええ、そうなの。あそこはあたしにとっちゃ忘れられないところだわ。」
「だって、電話や電信があるのに、よくそこまで新聞の特種が続いていったね。」
「そこがあたしたちにも分んなかったの。何んでも革命が起ると一緒に、電話局と電信局とは政府軍と革命軍との争奪の中心点になったらしいのよ。だもんだから、あそこの機械はすぐ壊されてしまったらしいのね。もし電話やなんか役に立ったりしちゃ、そりゃあたしなんか、トムスクまでは逃げられなかったにちがいないわ。」
オルガはそういう言葉のひまひまにときどき寒気を感じるように胴慄いをつづけた。甲谷はオルガの顔色を眺め眺めいった。
「そりゃ今夜だって、ここの租界の駐屯兵は一番電話局と電信局とを守っているからね。何んでもそれに水道が危いということだ。電気もまだこうして
「ええ、汽車はあったわ。だけど、それもトムスクまでよ。あたしたちトムスクまで逃げて来たら、そこの広場ではもう革命があたしたちより先になっていて、街の人々の集っている中で、怪しいものを一人ずつ高い台の上へ乗せて、委員長というのが傍から、この男は過去に於て反革命的行為をしたことがあるかどうかって、いちいち人々に質問してるの。そうすると集っている街の人々は、下の方からそれは誰々何々という男で、宗教心が強くって慈善家で、悪いことは何一つしたことがないというように、証明してるの。皆の証明がすむとその男はすぐ無罪放免ということになるんだけど、あたしの父のように誰も何も知らないとこじゃ、まったくもう怪しいと睨まれちゃそれじまいよ。すぐ傍でぽんぽん銃殺されちゃうの。だもんだから、お父さんがあたしたちから放れてひとりパンを買ってるとき、もうちゃんとつかまって、いつの間にか高い台の上へ立たされているんでしょう。あたしそのときはもう、お父さんの生命はないものと思ったわ。それであたし、ただもう空を向いて十字ばかりきってたの。そうすると、誰だか人の中から女の声がし始めて、あたしの父のことをしきりに弁明していてくれるのよ。あたし、誰かしらと思って見ると、それはお母さんじゃありませんか。お母さんはもうひとり下から
甲谷はオルガの身体を
「大丈夫か、君、おい。」
オルガは
「ええ、大丈夫。あたし、何んだかちょっと慄えただけなの。だって、あのときのことを思うと、それやもうあたし、恐くなるの。あたしそのときも、そこでそのまま癲癇を起しちゃって、気がついたときは、お父さんがあたしをこうして抱きすくめていてくださったわ。あたしたちそれから、まアそれはそれは、鉄道線路を伝うようにしてハルピンまで落ち延びて来たんだけど、もう全くハルピンまで来たものの、どうして良いか分らないもんだから、支那人に持って来た宝石を売ったり何んかして、やっと生活はしていたんだけど、いよいよそこにもいられなくなるし、それにまたハルピンは、やっぱりソヴェートの手が這入っていて不愉快でしょうがないもんだから、いつの間にやらこんなところまで来てしまったの。だけど、ここではここで、またこれからどうして生活していっていいのか皆目見当がつかないんでしょう。もうそうなれば、だいいちその日その日のパンが手に這入らないもんだから、こんな困ったことってなかったわ。今までこれがお母さんでこれがお父さんだと思っていたのに、浅ましいわね、もうお父さんよりお母さんより、何より自分よ。自分さえパンが食べられれば後はもうどうなったって、いいと思うものよ。あたしこれでもなかなか親孝行な方だったんだけど、ここへ来ちゃ、もう
「そうだよ、あの男は狂人だ。」と甲谷はいうと、乾いた唇へ冷たく触れるオルガの水滴形の耳環の先を舌の先で押し出した。
「あたし、それからここでいろんな日本の人に逢ったわ。だけど、参木みたいな人は一人もみないわ。あんな
オルガは窓から見える傾いた橋の足や、停って動かぬ泥舟を眺めながらいった。
「ね、甲谷さん、あなたどう思って。」とオルガは急に振り返ると、甲谷の首に腕を巻きつけた。「もうあなたは、ロシアに昔のような帝政が返らないとお思いになって。どう?」
「それや、もう駄目だ。どっちみち返ったところで、またすぐひっくり返されるに
オルガは寒気を感じたように身を慄わすといった。
「そうかしら、もうロシアは、あたしたちいつまで待っても前のようにはならないかしら。」
「駄目だね。だいいちここがもうこんな騒ぎになるようじゃ、すぐまたどっかの国も騒ぎ出すよ。」
「あたしたち、でも、まだまだみんなで、昔のようになるのを待ってるのよ。いつまで待ってもこんなじゃ、あたし、死ぬ方がいい。」
またオルガの身体がぶるぶる前のように慄えるのを感じると、
「君、おい、大丈夫かい。おかしいぜ、おい、君。――」と甲谷はオルガを揺りながら顔を覗き込んだ。
オルガはハンカチを出して口に
「あたし、お父さんに逢いたいわ。お父さんはハルピンで宝石を安く買って、それからこんなハンカチに包んでね、ロシアを通り越して、ドイツへいって、そこで宝石を売ってまた帰って来たのよ。そうすると、それはたいへん儲かったの。だけど一度モスコウへ用事がなくとも降りなきあ、疑われるもんだから、その降りるのが恐いんだって。あたしのお父さん、あたしにアメリカへ連れてってやろうっていってたんだけど、――あたし、お父さんにもう一度逢ってみたい。ああ逢いたい。」
オルガはいきなりまたハンカチを銜えて甲谷の肩に噛みつくようにつかまった。甲谷はオルガの顔を見た。すると、もうさッと彼女の顔色は変っていた。
「君、どうした、しっかり頼むよ。おい、おい。」と甲谷はいった。
オルガは頬をぺったりと甲谷の首にくっつけたまま黙って静に、びりびり揺れ続けた。すると、指さきの固く中に曲ったオルガの手が青くなった。頭がだんだんに
甲谷はオルガを寝台の上へ寝させるとそのまま手を放さずに抱きすくめた。汗が二人の身体から流れて来た。甲谷の首を締めつけつつ慄えているオルガの顔が真青になって来た。すると、耳から唇へかけてぴこぴこ
間もなく、甲谷の摩擦は効果があったのであろう。オルガは大きな呼吸を一度落すと、そのままぴったりと身体の痙攣をとめてしまった。すると、彼女の顔色は前のように安らかに返って来て、だんだん正しい呼吸を恢復させながら眠り始めた。甲谷はオルガを放して窓を開けると風を入れた。黒々とした無数の泡粒を密集させた河の水面は、
――さて、これでよし、と。――
甲谷は汗にしめって横たわっているオルガを花嫁姿に見たてながら、上着を脱いで釘にかけた。それから、石鹸壺の中でじゃぶじゃぶ石鹸の泡を立てて顔に塗ると、山口の置いていった剃刀の刃を横に拡げてひと刷き頬にあててみた。
外は真暗であった。所々に
参木は
しかし、彼の断滅する感傷が、次第に泥溝の岸辺に従って
参木はそれらの帆の密集した河口で、いつか傷ついた秋蘭を抱きかかえて、雨の中を病院まで走った夜のことを思い出した。あの秋蘭は今は何をしているだろう。
そのとき、参木は河岸の街角から現れて来た二、三人の人影が、ちらちらもつれながら彼の方へ近づくのを感じた。すると、それらの人の塊りは、急に声をひそめて彼の背後で動きとまった。彼は険悪な空気の舞い上るのを沈めるように、後ろを振り向こうとしたがる自身を撫でながら、そのまま水面を眺めていた。しかし、いつまでたっても停った人の気配は動こうとしなかった。彼はひょいと軽く後を振り返った。すると、星明りであばたをぼかした数人の男の顔が、でこぼこしたまま、彼を取り巻いて立っていた。彼はまた欄干に肱をつくと、それらの男たちの群れに背を向けた。すると、二本の腕が静にそっと、まるで参木の力を
ふと、参木は停止した自分の身体が、木の一端をしっかり掴んでいるのに気がついた。――しかし、ここは――彼は足を延ばしてみると、それはさきまで見降ろしていた船の中であった。彼は周囲を見廻すと、排泄物の描いた柔軟なうす黄色い平面が首まで自分の身体を浸していた。彼は起き上ろうとした。しかし、さて起きて何をするのかと彼は考えた。生きて来た過去の重い空気の帯が、黒い斑点をぼつぼつ浮き上がらせて通りすぎた。彼はそのまま排泄物の上へ仰向きに倒れて眼を閉じると、頭が再び自由に動き出すのを感じ始めた。彼は自分の頭がどこまで動くのか、その動く後から追っ駈けた。すると、彼は自分の身体が、まるで自分の比重を計るかのようにすっぽりと排泄物の中に倒れているのに気がついて、にやりにやりと笑い出した。――
しかし、自分はいつまでこうしているのであろう。――服の綿布がだんだん湿りを含んで
しかし、ふとそのとき、参木は仰向きながら、秋蘭の唇が熱を含んだ夢のように、ねばねばしたまま押し
彼は歩きながら、もう危険区劃を遠く過ぎて来ているのを感じると、しばらく忘れていた疲労と空腹とにますます激しく襲われ出した。彼はお杉のいる街の道路がだんだん家並みの壁にせばめられていくに従って、いつか前に、
参木はようやく甲谷に教えられたお杉の家を見つけると戸を叩いた。しかし、中からはいつまでたっても、戸を開けようとする物音さえしなかった。彼は大きな声で呼んでは支那人に聞かれる心配があったので、間断なく取手の
「僕は参木というものですが、この家にお杉さんという人がいませんか。」と参木はいった。
忽ち、戸がぱったりと落ちると、
「あなたはお杉さんか。」
「ええ。」
低く女が答えると、参木は感動のまま、ねっとりと汗を含んで立っているお杉の肩や頬を撫でてみた。
「しばらくだね。僕はいま河へほうり込まれて這い上って来たばかりなんだが、何んでもいいから着物を一枚貸してほしいね。」
すると、お杉はすぐ火も
「君、火を点けてくれないか。こう暗くちゃどうしようもないじゃないか。」
しかし、お杉は「ええ。」と小声で返事をしたまま、矢張りいつまでたっても電気を点けようともせず、彼から離れて立っていた。参木はお杉が火を点けようとしないのは、顔を見られる
しかし、あまりいつまで待ってもお杉が火を点けようとしないのを考えると、部屋の中には、今自分に見られては困るものが沢山あるのにちがいないと彼は思った。とにかく、あまりに自分の這入って来たのは突然なのだ。殊に、お杉は自分の所にいたときとは違って春婦である。いや、それとも、もしかしたらこの部屋の中には、自分以外の客が他に寝ているかもしれたものではないのである。
参木はもう火のことでお杉を羞しがらせることは慎しみながら、多分そのあたりにいるであろうと思われる彼女の方に向っていった。
「君、何か食べるものはないだろうかね。僕は朝から何も食べていないんだが。」
「あら。」とお杉は低くいうと、そのまま何もいおうともしなければ動こうともしなかった。
「じゃ、無いんだな、あんたのとこも。」
「ええ、さきまであったんだけど、もうすっかりなくなってしまったの。」
参木は今は全く力の脱けるのを感じた。これから朝まで何も食べずにすごさねばならぬと思うと、もう
「君とはほんとにしばらくだね。お杉さんのここにいるのは、実は今日初めて甲谷に聞いたんだが、僕んとことは近いじゃないか。どうしていままで
すると、返事に代ってお杉の
「あんたが出ていったあの
参木はふと、お杉がどうしてあのまま自分の所から出ていく気になんかなったのだろうかと、いまだに分らぬ節の多かったその日のお杉の家出について考えた。たとえその夜、甲谷がお杉を追い立てるようなことをしたとはいえ、それならそれで、お杉も
「あれから一度、お杉さんと街であったことがあったね。あのときは僕は君の後からしばらく車で追わしたんだが、あんたはそれを知ってるだろうね。」
「ええ。」
「そんならあのときもうあんたはここにいたんだな。」
「ええ。」
しかし、参木は、そのとき激しく秋蘭のことで我を忘れ続けていた自分を思い出した。もしあの日秋蘭とさえ逢って来ていなければ、そのままお杉の後をどこまでもと自分は追い続けていたにちがいなかった。だが、何もかももう駄目だ。自分は今でもあの秋蘭めを愛している。自分はあ奴の主義にかぶれているんじゃない。俺はあ奴の眼が好きなんだ。あの眼は、いまに主義なんてものは捨てる眼だ。あの眼光は男を馬鹿にし続けて来た眼光だ。お杉の傍にいるこの喜びの最中に、まだ秋蘭のことを、いつとはなしにいきまき込んで頭の中へ忍び込ませている自分に気がつくと、彼は闇の中で、のびのびと果しもなく移動していく自由な思いの限界の、どこに制限を加えるべきかに迷い出した。確に、自分は今は秋蘭のことよりお杉のことを考えねばならないときだ。お杉は自分のためにお柳から食を奪われ、甲谷の毒牙にかかり、そうしてこのじめじめした露路の中へ落ち込んだのではないか。しかし、さてお杉のことを今考えて、彼女を自分はどうしようというのであろう。――彼はお杉を妻にしている自分を考えた。それは
「お杉さん、僕は今夜は疲れているので、もうこのまま休ませて貰ったってかまわないかね。」と参木はいった。
「ええ、どうぞ。ここに床があるから、ここで休んでよ。夜が明けたらあたし食べ物を貰ってきとくわ。」
「有り難う。」
「電気も今夜は切られてしまっているので、真暗だけど、我慢をしてね。」
「うむ。」
というと参木は手探りでお杉の声の方へ近よっていった。手の先が冷い畳の上からお杉の熱く盛り上った膝に触った。お杉は参木の身体を床の上へ導くと、彼に蒲団をかけながらいった。
「今頃街なんか歩いて、危いわね。どこにもお怪我はなかったの。」
「うむ、まア怪我はなかったが、君はどうだった?」
「あたしは家からなんか出ないわ。毎日いっぺん日本人から
「さア、いつになるかね。しかし、明日は日本の陸戦隊が上陸してくるから、もうこの騒動は続かないだろう。」
「ほんとに早くおさまるといいわ。あたし毎日、もう生きている気がしないのよ。」
参木は自分の身体からお杉の手の遠のいていくのを感じると、お杉はどこで寝るのであろうと思っていった。
「お杉さんは寝るところはあるのかね。」
「ええ、いいのよ。あたしは。」
「寝るところがないなら、ここへお
「いいえ、そうしていて。あたし眠くなれば眠るからいいわ。」
「そうか。」
参木はお杉が習い覚えた春婦の習慣を、自分に押し隠そうと努めているのを見ると、それに対して、客のようになり下ろうとした自分の心のいまわしさにだんだんと胸が冷めて来るのであった。しかし、あんなにも自分を愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢って、ひと思いに強く抱きかかえてやることも出来ぬということは、何んという良心のいたずらであろう。前にはお杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬと思って抱くこともひかえていたのに、それに今度は、お杉が春婦になってしまっていることのために、抱きかかえてやることも出来ぬとは。――
「お杉さん、マッチはないか。一遍お杉さんの顔が見たいものだね。良かろう。」
「いや。」とお杉はいった。
「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔も見ずに暗がりの中で
「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、あなたに今頃見られるのいやだわ。」
参木は暗中からきびしく胸の締って来るのを感じた。
「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だったが、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもないからね。」
二人はしばらく黙ってしまった。
「あなたお柳さんにお逢いになって。」とお杉は訊ねた。
「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩してから一度もだ。」
「そう。あの夜はお神さん、それやあたしにひどいことをいったのよ。」
「どんなことだ?」
「いやだわ、あんなこと。」
嫉妬にのぼせたお柳のことなら、
「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れてもうものもいえないからね。その代り、明日からこのまま居候をさせて貰うかもしれないが、いいかねあんたは?」
「ええ、お好きなまでここにいてよ。その代り、汚いことは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ることだけど。」
「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここから動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑なら迷惑だと今の中にいってくれたまえ。」
「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、ここは参木さんなんか、いらっしゃるところじゃないのよ。」
参木は自分のお杉にいったことが、すぐそのまま明日から事実になるものとは思わなかった。だが、事実になればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼はいった。
「しかし、一人いるより、今頃こんな露路みたいな中じゃ、二人でいる方が気丈夫だろう。それとも、お杉さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわないぜ。」
すると彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように泣いたときも、いま自分がいったと同様な言葉をいってお杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信じていくたびに、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいったのだ。
しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、その言葉以外にはないのであった。生活の出来なくなった女を生活の出来るまで家においてやることが悪いのなら、それなら自分は何を
それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、自分はどれだけ沢山なことを考えたであろう。しかも、それら数々の考えは、ことごとく、どうすればお杉を、まだこれ以上
「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考えちゃ駄目だ。考えずにここへ来なさい。」
参木はお杉の方へ手を延ばした。すると、お杉の身体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。しかし、それと同時に、水色の
お杉は喜びに満ち溢れた身体を、そっと延ばしてみたり縮めてみたりしながら、もう思い残すことも苦しみも、これですっかりしまいになったと思った。明日までは、もう眠るまい。眠るといつかの夜のように、――ああ、そうだ、あの夜はうっかり眠ってしまったために、闇の中で自分を奪ってしまったものが、参木か甲谷か、とうとうそれも分らずじまいに今日まで来たのだ。しかも、その夜はそれは最初の夜であった。あれから今日まで、あの夜の男はあれは参木か甲谷か、甲谷か参木かと、どれほど毎日毎夜考え続けて来たことだろう。しかし、今夜は――今夜もあの夜のように部屋の中は真暗で、参木の顔さえまだ見ないことまでも同様だが、しかし、今夜の参木だけは、これはたしかに本当の参木にちがいない。でも、あの夜の参木が、もしあれが本当の参木なら、今夜のこの参木とは何と違っているのであろう。
お杉は眠っている参木の身体のここかしこを、まるで処女のように
お杉は蒲団の中からそっと脱け出すと、手探りながら杭州人形と蛇酒と水銀剤とを押入の中へ押し込んだ。それから、
お杉は参木があの夜限り帰らずに、自分を残して家を出ていってしまった日の、ひとりぼんやりと
[#改丁]
付録
この作の最初の部分は昭和三年十月に改造に出し、それから順次同雑誌へ発表を続け、最後も昭和六年十月に改造へ出した。全篇を五三十事件は大正十四年五月三十日に上海を中心として起った。中国では毎年この日を民族の紀念日としてメーデー以上の騒ぎをするが、昭和七年の日支事変の遠因もここから
私はこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、むしろ自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆をとった。しかし、知識ある人々の中で、この五三十事件という重大な事件に興味を持っている人々が少いばかりか、知っている人々もほとんどないのを知ると、一度はこの事件の性質だけは知っておいて貰わねばならぬと、つい忘れていた青年時代の熱情さえ出て来るのである。
昭和七年六月
横光利一
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