2024年2月17日土曜日

美術研究所に架けられた黒澤明の300号。:落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):SSブログ




Akira Kurosawa, "Meeting at the Construction Site" (watercolor), 1929, most likely displayed on the wall of the Institute of Proletarian Art




AKIRA KUROSAWA“Create Unemployment Insurance!”(poster)

両方現存しない

Both not extant.

現存していない

Not in existence.



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美術研究所に架けられた黒澤明の300号。:落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):SSブログ

プロレタリア美術研究所の壁に展示されていた可能性が高い1929年(昭和4)制作の黒澤明『建築現場に於ける集会』(水彩)

Akira Kurosawa, "Meeting at the Construction Site" (watercolor), 1929, most likely displayed on the wall of the Institute of Proletarian Art


Akira Kurosawa on his 'Marxist' roots:

"In my youth the situation of society was much worse than it is now. I experienced being a sort of Marxist. It was very fashionable among the youth. For one thing, we couldn’t get jobs after graduation from the university. 

There was a fever among young people. They did not know how to use their energies. I would say that almost all the intellectual urban youth in that period were at one time or another Marxists. They were not satisfied with the government and its policies. I was one of them. In reflection, we were also enjoying the thrill of being Marxists. 

But it is doubtful that I was a true Marxist, although I had that tendency. I still lean toward these ideas. I probably have Marxist ideas somewhere in me. When I was involved in the Marxist movement I fell ill. 

I sort of dropped out as a young Marxist because of my health. I had to stay in bed for about one year. During that period literally all of my Marxist friends were arrested and dispersed. This occurred before I was twenty years old. I guess I was about eighteen. 

I became sort of nostalgic for the time of my youth after I saw 'No Regrets for Our Youth' (1946) recently. I missed this period of my life while I was making that film. 
 
Almost all the Japanese film directors who are my contemporaries were more or less Marxists and had similar experiences. The only two who remained Communists until now are Satsuo Yamamoto, who made War and Peace [Senso to Heiwa, 1947], and Imai Sho-chan. I guess these two are the only ones. The rest of us are all ex-Communists." 

(Quote taken from 'Voice from the Japanese Cinema', Joan Mellen) 

Clip from: 

No Regrets for Our Youth (1946)
Director: Akira Kurosawa

黒澤明、彼の「マルクス主義者」のルーツについて:

「私の若い頃、社会の状況は今よりもずっと悪かったです。私は一種のマルクス主義者であることを経験しました。それは若者の間で非常に流行していました。一つには、大学を卒業しても就職できませんでした。

若者の間で熱が上がった。彼らは自分のエネルギーの使い方を知りませんでした。当時の都市部の知的若者のほぼ全員が、一度はマルクス主義者だったと私は思います。彼らは政府とその政策に満足していませんでした。私もその一人でした。振り返ってみると、私たちはマルクス主義者であることのスリルも楽しんでいたのです。

しかし、たとえそのような傾向があったとしても、私が真のマルクス主義者であったかどうかは疑わしい。私は今でもこれらの考えに傾いています。おそらく私の心のどこかにマルクス主義的な考えがあるのでしょう。マルクス主義運動に参加していたとき、私は病気になりました。

私は健康のため、若いマルクス主義者としてドロップアウトしたようなものでした。 1年くらい寝たきりでした。その期間中、文字通り私のマルクス主義者の友人は全員逮捕され、解散させられました。これは私が二十歳になる前の出来事でした。十八歳くらいだったと思います。

最近『青春に悔いなし』(1946年)を観て、なんだか青春時代を懐かしく感じました。この映画を作っている間、私は人生のこの時期を懐かしんでいました。

私と同時代の日本の映画監督はほぼ全員、多かれ少なかれマルクス主義者であり、同様の経験をしていました。現在まで共産主義者であり続けたのは、『戦争と平和』(1947年)を作った山本薩夫と今井翔ちゃんだけだ。この二人だけだと思います。私たちの残りは全員元共産主義者だ。」

(ジョーン・メレン「Voice from the Japanese Cinema」より引用)

クリップ元:

我が青春に悔いなし (1946)
監督:黒澤明

彼の兄はサイレント映画のための弁士だったが、ストライキ活動などで組織との板挟みになり自殺した。

His brother was an orator for silent films, but committed suicide when he was caught between the organization and strike action and other activities.

美術研究所に架けられた黒澤明の300号。 [気になるエトセトラ]

長崎町大和田界隈.JPG
 八島太郎展実行委員長の山田みほ子様Click!より、再び貴重な資料類をお送りいただいた。その中には、2010年にテレビ東京で放映されたドキュメンタリー『世界を変える100人の日本人』の八島太郎Click!編も含まれている。また、戦後の絵本関係の資料や作品画像、貴重な書簡類のコピー、八島太郎(岩松淳Click!)について書かれた椋鳩十による自筆の複写原稿もある。これらの資料については、またいつか改めて記事を書いてみたい。
 また、もし貴重な資料類の保存が地元の鹿児島で困難なようであれば、東京ではすでに絵本『あまがさ』の一部原画が保存されている上井草の「ちひろ美術館」Click!(練馬区)か、反戦の拠点として特高Click!と憲兵隊につぶされた長崎町大和田のプロレタリア美術研究所Click!があった豊島区での保存が妥当だろうか。あるいは、八島太郎(岩松淳)も含めて同美術研究所へ通った画家たちが多く住み、また新宿紀伊国屋Click!の2階展示場で開かれた同研究所の卒業制作展をしばしば訪れていた、林芙美子Click!や平林たい子など落合地域の作家たちが大勢住む新宿区のほうだろうか。いずれにしても、山田様の保存へ向けたご懸念が、1日も早く解決されることを望みたい。
 さて、長崎町大和田1983番地にあった、プロレタリア美術研究所(元・造形美術研究所Click!のち東京プロレタリア美術学校Click!)の建物内部の間取りや授業の様子が、さまざまな資料から明らかになってきた。入り口に面した大教室(画室)には、黒澤明制作の水彩300号が展示されていたことも判明している。広い教室(画室)は2部屋あり、また泊りこみの事務局員用に小さな畳部屋が付属していた。所長の矢部友衛から依頼され、その畳部屋に住みこんで研究所の事務をこなしていた美術家・小野沢亘の証言を、1994年(平成6)出版の『1930年代-青春の画家たち』(創風社)に収録された「プロレタリア美術運動と私」から引用してみよう。
  
 プロレタリア美術研究所は、東京市外長崎町にあった。現在の東京都豊島区長崎町である。私は悲壮な覚悟を胸に秘めて研究所を訪れた。少し大げさと思う人がいるかもしれないが、この私の悲壮感は嘘ではなかった。プロレタリア美術運動をやるからには、警察に捕まって拷問されることは覚悟しなければならない。それに、私は肋膜炎をやったことがある。下手に拷問されたら生命にかかわると思ってそれが非常に不安だったからである。/しかし研究所について、事務所から事務の乃木さんという人が出てきたときにはホッとした。たくましいというより、おとなしそうな、やさ男といった感じの人だった。/その時には乃木さん以外には誰もいなかった。大きな板の間の部屋が二つ、小さな畳部屋が一つあった。私は入所してから一年もたたないうちに乃木君にかわって、この部屋に住むことになるのであった。入口に面して大きな部屋には、黒沢明(映画監督)の三百号位の大きな水彩画が掛けてあった。
  
 この情景は、小野沢が川端画学校を出てから初めてプロレタリア美術研究所を訪れた、1929年(昭和4)秋のことだ。広い画室のひとつに架けられた300号の黒澤作品とは、いったいどのような画面だったのだろうか。前年(1928年)の暮れ、上野の東京府美術館で開催された第1回プロレタリア美術展に黒澤明は出品していない。小野沢が事務局へ勤務しはじめた直後、1929年(昭和4)12月に第2回プロレタリア美術展が上野の同美術館で開催されるが、同展に黒澤は水彩による『建築場に於ける集会』を出品している。ひょっとすると小野沢が目にした300号サイズの画面は、出品直前の同作だったのかもしれない。
八島太郎「SUMMER ROAD」1940.jpg
八島太郎絵葉書1940.jpg
 小野沢亘は、同研究所の事務所に住みこんで多様な雑事をこなすかたわら、川端画学校時代の実力をかわれてデッサンの講師もしていた。また、学生たちのデッサンにモデルを雇うときは、谷中にあった宮崎モデル紹介所Click!に出かけ、モデルの選定もしている。以前、こちらでご紹介したダット乗合自動車Click!バスガールClick!に頼みこんで人物モデルClick!を依頼したのも、また小野沢亘の仕事ではなかっただろうか。小川薫様Click!のお母様・上原とし様Click!は、モデルを雇う資金がなくなったとき、ときどきモデルの依頼に乗務員組合を訪れる小野沢亘の顔を、よく知っていた可能性が高い。小野沢が書いた「研究所の留守番役」から、研究所での仕事の様子を引用してみよう。
  
 住み込みの事務員としての私の仕事は、ときどき研究費を集めたり、モデルを雇えるだけの金がある時には、上野にあったモデル紹介所に出向いてモデルを頼んできたりするぐらいであった。その外のことは、私が講習生だった時と同じように、講習生たちでつくっていた自治会が、なんでもやってくれていたのでこれというほどの仕事はなかった。/私の毎日の仕事は、美術家同盟員になってから与えられた実技指導者としての仕事だけだった。/金がなく、絵具などもろくに買えず、デッサンばかりやっていたので、デッサンは比較的上手だった。そこを見込まれたというわけである。/私は川端画学校時代に、モデルさんに、「黒いキューピー」とあだ名をつけられたりするような童顔で、年よりは三つくらいも若く見えたから、新しく入所してきた講習生などは、これが実技指導者かと怪げんな顔をする人もいた。/研究所に住み込んでの、わずらわしいことといえば、週に一、二回、所轄の特高がやってくることだった。特高は、美術家同盟が出しているプリント刷りの内部資料や、講習生が出している自治会ニュースを、来るたびごとに要求した。
  
小野沢亘「詩人」1936.jpg
日ノ出湯煙突.jpg
 同証言には、特高と憲兵隊とが仕事(思想・信条弾圧)の「成果」を競い合っていた様子も記録されている。登場する特高は、高田警察署Click!(現・目白警察署)に勤務していた刑事たちだ。プロレタリア美術研究所には、特高のほかにときどき憲兵たちも姿を見せていた。憲兵も内部資料を要求したようだが、特高の刑事から「憲兵に内部資料をわたす義務はない」との"助言"を受け、小野沢亘はうるさい憲兵たちを追い払いつづけた。
 その後、小野沢は1930年(昭和5)に『市電従業員のデモ』Click!を描いたあと特高に検挙されたのを皮切りに、都合6回逮捕され拷問を受けている。プロレタリア美術研究所では講師仲間だった八島太郎(岩松淳)からは、「特高はしょせんサラリーマンなのだから、逃げようと思えば逃げられる」とアドバイスを受けている。だが、同研究所(当時は東京プロレタリア美術学校)を物理的に破壊しに襲ってきたのは、特高ではなく陸軍憲兵隊だった。
 では、当時の同研究所へ通っていた学生側からの証言を、1987年(昭和62)発行の『美術運動』第117号に掲載された、松尾隆夫「プロレタリア美術研究所と共同制作の頃」から引用してみよう。
  
 私は一九三一年五月長崎町大和田にあったプロレタリア美術研究所(後にプロレタリア美術学校といった)にいた。その研究所は進歩的な同じ考えを持った若さに輝き熱気溢れる集りであった。農村漁村からの出身者、金属労働者、又は男子学生、女子学生達の面々であった。自治会を持って自主的に運営されて指導はプロレタリア美術家同盟の人で毎晩一人か二人きて指導を受けた。毎週土曜日には作品の合評会があり活発な討論があった。学課は唯物史観、プロレタリア美術論、唯物弁証法的創作方法其の他がなされた。そこには外部の在来の美術学校や、営利主義のブルジョア美術研究所とは全く違った新鮮さがあった。私が初めて入所して出席した夜は自治会の一ヶ月毎の総会で委員長の奥田武君の報告に多少質問と異見をのべた事から次の委員長に選出され後二~三回やった様に思う。やがて五期生の卒業制作展は新宿の紀国屋(ママ)の階上でした。その時の入場者の中に作家の林芙美子と平林たい子の二人が揃って熱心に見て行った。
  
 ちなみに、五期生だった松尾隆夫の同窓には、戦後に砂川裁判の伊達判決で注目された裁判官夫人の伊達孝子や、山代巴、松尾ミネ子などの女性画家たちがいる。
黒澤明「建築現場に於ける集会」1929.jpg 松尾隆夫「版画家飯野農夫也氏像」1960.jpg
小野沢亘.jpg 松尾隆夫.jpg
 1932年(昭和7)12月に、プロレタリア美術研究所は東京プロレタリア美術学校と改称しているが、男子学生ばかりでなく八島太郎(岩松淳)夫人となる新井光子をはじめ、女子学生たちも次々と入学してくるようになる。その多くは、女子美術学校Click!在学中か卒業したての画家の卵たちなのだが、それはまた、別の物語……。

先日、飯野農夫也Click!のご子息である飯野道郎様Click!よりご連絡をいただき、岡本唐貴が1927年(昭和2)に制作した森の絵が、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年)のシーンに酷似していることをご教示いただいた。おそらく、撮影用の黒澤絵コンテもよく似ていたのではないかと想定できる。

◆写真上:造形美術研究所→プロレタリア美術研究所→東京プロレタリア美術学校の跡地へ向かう途中に残る、長崎町大和田時代からのいまや希少な住宅。
◆写真中上:米国のフィリップス・コレクションとしてワシントンのPhillips Memorial Art Galleryに収蔵されている1940年(昭和15)制作の八島太郎『SUMMER ROAD(夏の道)』。同館では、過去に『SUMMER ROAD』を記念絵はがきにしている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)制作の小野沢亘マンガ『詩人』の冒頭。は、小川薫様のアルバムより上原宅2階から見える昭和初期の富士ノ湯(のち鶴の湯)と日ノ出湯の煙突。日ノ出湯のほぼ真下、西隣りにプロレタリア美術研究所があった。
◆写真下上左は、プロレタリア美術研究所の壁に展示されていた可能性が高い1929年(昭和4)制作の黒澤明『建築現場に於ける集会』(水彩)。上右は、1960年(昭和35)制作の松尾隆夫『版画家飯野農夫也氏像』。下は、小野沢亘()と松尾隆夫()。

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