2024年2月7日水曜日

八桙神社と長国造

吾平津媛

吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。

日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人である。

名称

名前に含まれる「媛(ひめ)」については、「ヒメ」を参照。

系譜

記紀には両親についての記載はない。

古事記』によれば、「阿多之小椅君」の妹。同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。

上述の「阿多之小椅君」は、『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる「吾田君小橋」と同一と思われる[1]。そのため、同じく『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる隼人との関連が指摘される[2]

記録

日本書紀』によれば、神武天皇(当時太子)は神武東征を行う前、日向にいた時に吾平津媛を妃としたという。

脚注

出典

  1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus『吾田小橋』 - コトバンク
  2. 喜田,p255-257「皇妃吾田吾平津媛」

参考文献



伊比良咩神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊比良咩神社
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所在地徳島県板野郡藍住町徳命前須西65番地
位置北緯34度7分3.9秒東経134度29分2.1秒座標北緯34度7分3.9秒 東経134度29分2.1秒
主祭神阿比良比咩命
大己貴命
素盞鳴命
社格式外社
創建不詳
別名伊比良美神社
地図
伊比良咩神社の位置(徳島県内)
伊比良咩神社
伊比良咩神社
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伊比良咩神社(いひらめじんじゃ)は、徳島県藍住町に鎮座する神社である。

歴史

創建年は不詳。元々は藍住町東中富に鎮座していた。阿比良比売を祀る神社は少なく、社名に「阿比良比売(伊比良咩)」を掲げる全国で唯一の神社である。

872年貞観14年)に式外大社として「日本三代実録」に記されたのが最古の記録である。

神社が所有する「伎楽面」と、緑泥片岩の阿波青石を素材としている鳥居は、1988年昭和63年)1月10日に藍住町指定有形文化財に指定された。

祭神

文化財

交通

参考文献

外部リンク

https://youtu.be/M7-OmWw0C_8?si=GJJwyDtZoxVm6kVb

アマテラスの治める粟国文化圏とスサノオの長国が誓約をしたというのが阿波説の見立てでしょう。
宮崎県と島根県では遠すぎます。
ちなみにスサノオは徐福系と言う人もいます。
さて、伊島の當所神社(伊島大明神)に関してはどう思われますか?奥津三信神を祀る唯一の神社です。これも捏造でしょうか?

info:ndljp/pid/943590
八桙神社と長国造
著者島田泉山
大正5

阿波にある全国的有名神社の元宮


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亀太夫神事と出雲大社

八桙神社 阿波古代史

阿波古代史を研究し始めて、ずっと以前から気になっていた出雲大社の謎が解けました。その謎とは?

1.出雲大社は何故、50mもの超巨大建造物であったのか?
2.出雲風土記には何故大国主命を祀った神社が全く出てこないのか?
3.出雲国一ノ宮であった熊野大社の特殊神事「亀太夫神事」は何故起こり、今日まで続いているのか?

特に3は、はじめてそれを知ったときは本当に奇異に感じました。

ここから六次元さんのブログより、「亀太夫神事」について引用してみます。

亀太夫というのは、熊野大社の下級神官です。
毎年10月15日に、新嘗祭に使用する臼と杵を、出雲大社の宮司が熊野大社に借りに行きます。

そのとき出雲大社の宮司は、新米で作った餅を数枚持参して熊野大社に渡そうとしますが、亀太夫という下級神官が応対に出て、その餅に難癖をつけます。餅が小さい、形が悪いなど…さんざん悪態をつきます。

挙げ句の果てに「出雲の人たちのおかげで生きていることを忘れるな」とまで言われます。

これを出雲大社の宮司は、黙って頭を下げたまま拝聴しなければなりません。

出雲大社の宮司家と言えば、あの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「日本には天皇が二人いる」とまで言ったほどの存在です。

近代まで、旅先で宮司の入った風呂の残り湯は、ご神水といって地元の人たちが競って奪い合ったほどです。

そのように権威と権力を持った宮司が、たかが下級神官にボロクソに言われるのを、じっと我慢しなければならないところに、この神事の不思議さがあります。

その後、亀太夫神事が終わると出雲大社の宮司によって「百番の舞」が舞われます。

というものなのですが、実は出雲大社は8世紀に突然建造された神社のようで、それまではこの地は熊野大社が国造の厚い信頼を受けて、国内第一の神社としてご奉仕していたそうなのです。それが突然その地位を奪われたから、こうしたいわゆる「ガス抜き」行事が今日まで形として残っているようなのです。

阿波古代史を研究して、実は今で言う出雲は阿波国に本来あり、天孫降臨の地を隠すための一環として、各地に建造された大きな神社のひとつとして出雲大社があると言う説を聞いて腑に落ちた次第です。

もともと大国主命は現在の出雲にはいなかった、だから地元のスーパースターである大国主命が記述が詳細だと言われてる出雲風土記に全く出てこず、かたやあわてて10社もの大国主命を祭る神社を出雲に創ったものだから整合性が取れなくなったわけです。

こうしたことが理由で、延喜式内社として大国主命を祀る神社が出雲には10社あるのに、出雲国風土記には出雲大社以外全く出てこないうえ、他の神社も記述欄には神社の名前がない「同社」という記述が山ほど出てくるとか。それは官史であることを考えれば、そんな手抜き記事は通用しないことですよね。

とりあえず数合わせのために神社の名前を書かなきゃならないのに思いつかないからそうしたようなのですが、それがそのまま通るのですから、風土記を校正する役人もとにかく急がされていたのかもしれません。

一方、突然建造された出雲大社は50mからある日本一の建造物にして、衆目を集めました。俗に、「雲太。和二。京三。」などと残っていますよね。一方では、天皇の前で祝詞を奏上するという大変な名誉を建造直後から何度も行って、その権威付けをしていたようです。

かたや、出雲大社が突然創建され、理由を知らされずにその地位を奪われた熊野大社には「亀太夫神事」が残りました。出雲大社が明治に入るまでは杵築大社と言われることから、杵でつく餅を毎年献上する神事が生まれたのかなとも思います。

実際に、阿波には本当に古くから祭られている大国主命の神社がたくさんあります。一方では出雲神社と名のつくものは徳島にひとつ、それも祭神はスサノオノミコトです。この辺からも、現在の出雲大社の北側にある素鵞社が、元の祭神ではないかと言われているのにも符合するのも興味深いことです。

阿波にある元宮の候補地のひとつである八鉾神社など、それほど有名な神社とも思われないのですが、写真には現在の皇太子様がちゃんと行啓されている記念碑が建っております。

その当時に皇太子がお忍びで八鉾神社にお参りされたエピソードを以前に友人から聞きました。

そのお忍びを受けた宮司さん曰く、「ヘリコプターを神社の上空に待機させるのに木が邪魔なので、神社の木を切って欲しい。」と言われたとか。
実際は上空にヘリコプターを待機させてタラップで神社に降りて来られ、講義を受けて、またヘリコプターで帰られたとのことでした。そこまでして立ち寄りたかった神社なのですね。

私自身は八鉾神社には何度かお参りできて、小さな神社でしたが雰囲気がありました。ただ、現在の鳥居のそばから巨大な鳥居跡が出たとの話があります。

失われた日本魂―超古代史が今、静かに動き出す

八鉾神社

亀太夫神事と出雲大社」に詳細は書いておりますが、現在の出雲大社は創建時から「出雲大社」と言う名前だったわけではありません。そもそも現在の出雲大社は、江戸時代までは「杵築大社」と呼ばれており、「大社」と言えば現在は丹後地方にある「出雲大神宮」を指していたのです。そしてその出雲大神宮は、阿波から移されたとの話が伝わっており、その元宮の候補地として、八桙(やほこ)神社、勝占神社などが候補地になっております。

その候補地の一つ、「八桙神社」にも隠されたエピソードがあります。

今上天皇が皇太子でいらっしゃった頃、研究対象として徳島の古代の海運跡を見学された事がありました。その折、密かにこの「八鉾神社」を訪問されたいとのご希望がありました。お忍びでしたので、「ヘリコプターで神社の上空から参拝したい。そのために神社の本殿の上の木々を伐採してくれ。」との連絡が、宮内庁から当時の宮司にあったそうです。
そして皇太子はお忍びにてヘリコプターで参拝。宮司からの講義を受けてまた戻られたという話。これは宮司の友人から直接お聞きした話です。

矢鉾神社矢鉾神社

皇太子がそこまで参拝したかった八桙神社。現在もその行啓の記念碑が建立されております。


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