吾平津媛
吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。
名称
名前に含まれる「媛(ひめ)」については、「ヒメ」を参照。
系譜
記紀には両親についての記載はない。
『古事記』によれば、「阿多之小椅君」の妹。同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。
上述の「阿多之小椅君」は、『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる「吾田君小橋」と同一と思われる[1]。そのため、同じく『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる隼人との関連が指摘される[2]。
記録
『日本書紀』によれば、神武天皇(当時太子)は神武東征を行う前、日向にいた時に吾平津媛を妃としたという。
脚注
出典
参考文献
- 近藤敏喬 編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、6頁頁。ISBN 4-490-20225-3。none
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『吾平津媛』 - コトバンク
- 喜田貞吉『日向国史 古代史』(東洋堂)
伊比良咩神社
このページの参考文献節は適正でない可能性があります。(2018年1月) |
伊比良咩神社 | |
---|---|
所在地 | 徳島県板野郡藍住町徳命前須西65番地 |
位置 | 北緯34度7分3.9秒東経134度29分2.1秒座標: 北緯34度7分3.9秒 東経134度29分2.1秒 |
主祭神 | 阿比良比咩命 大己貴命 素盞鳴命 |
社格等 | 式外社 |
創建 | 不詳 |
別名 | 伊比良美神社 |
地図 |
伊比良咩神社(いひらめじんじゃ)は、徳島県藍住町に鎮座する神社である。
歴史
創建年は不詳。元々は藍住町東中富に鎮座していた。阿比良比売を祀る神社は少なく、社名に「阿比良比売(伊比良咩)」を掲げる全国で唯一の神社である。
872年(貞観14年)に式外大社として「日本三代実録」に記されたのが最古の記録である。
神社が所有する「伎楽面」と、緑泥片岩の阿波青石を素材としている鳥居は、1988年(昭和63年)1月10日に藍住町指定有形文化財に指定された。
祭神
文化財
交通
- 徳島自動車道「藍住インターチェンジ」より車で約3分。
参考文献
- 『角川日本地名大辞典 36 徳島県』(1986年 ISBN 4040013603)
外部リンク
info:ndljp/pid/943590
八桙神社と長国造
阿波にある全国的有名神社の元宮記事一覧
出雲大社
矢鉾神社「亀太夫神事と出雲大社」に詳細は書いておりますが、現在の出雲大社は創建時から「出雲大社」と言う名前だったわけではありません。そもそも現在の出雲大社は、江戸時代までは「杵築大社」と呼ばれており、「大社」と言えば現在は丹後地方にある「出雲大神宮」を指していたのです。そしてその出雲大神宮は、阿波か...宇佐八幡神社
宇佐神宮と言えば、誰もが大分にある宇佐神宮を思い浮かべることでしょう。ではその宇佐神宮は元宮なのでしょうか?725年(神亀2年)には確かに現在の大分に創建されたのでしょうが、「宇佐」の名前の由来は伝わっていないのではないですか?阿波の国では宇佐とは元々、「宇狭」。阿波は古代、「倭の国」(いのくに)と...樫原神社
阿波にある樫原神社が、ご祭神を神武天皇として延喜式内社に掲載されている唯一の古社です。明治時代、奈良に橿原神宮ができた時、この徳島県阿波市土成町の鈴川山頂上にあった樫原神社はある日突然轟音とともに崩れ落ち、谷底に埋まってしまいました。それを村民が総出で掘り起し、現在の場所に鎮座させたと言われています...白鳥神社
白鳥神社は、江戸時代に分社されていた讃岐の白鳥神社が非常に賑わって「うちが本家だ。」と言い出したため、阿波と讃岐のどちらの神社が白鳥神社として元宮なのか、江戸幕府が裁定することになりました。その結果が写真にある「両国一社」と言う言葉です。つまり阿波と讃岐の両国の中で元宮はこの一社であるとの裁定結果な...鴨神社
下加茂神社のところで書きましたように、江戸時代、京都の上賀茂神社から使者が来て、「そちらの神社は神祭りの仕方が違うので、当社のしきたりに直すように。」と言われ、新参者に泣く泣く?合わせた悲しい歴史が地元三好町史に掲載されています。下加茂神社にお参りした時にその境内の「猫の額(ひたい)」のような小ささ...下加茂神社
ここが鴨神社とともに、空海によって京都に移された下賀茂神社の元宮です。この地域は古代加茂宮と呼ばれ、天皇家の聖地でした。江戸時代に京都の上賀茂神社から使者が来て「御社の祭りの仕方が違うので変更するように。」との話があったことが三好町史に残っています。当時、時代をときめく名社である上賀茂神社が地方の小...住吉神社
阿波にある住吉神社。その元宮は、今は埋め立てられて陸続きになっておりますが、江戸時代以前は禁足地として海に浮かぶ「玉島」に鎮座した豊玉媛神社の摂社として存在したのです。そして現在は藍住町に移されております。ここの神社は今でも重厚さがあって、阿波でも私が好きな神社の一つです。住吉神社と言えば、大阪は摂...大山祇神社
画像は現在の大山にある大山寺です。全国に系列社10000社をもつと言われる伊予の国の一宮、大山祇神社。この元宮は阿讃山脈の東にある大山です。頂上に大山寺が現在でもあります。古代、「~大山」という地名は全国に数々ありますが、単に「大山(おおやま)」と呼ばれていたのはここだけだそうです。つまり、「神宮」...諏訪神社
徳島県名西郡石井町にある諏訪神社。古事記の中にも出てくる、タケミナカタとタケミカヅチが力比べをしたと伝わる「力石」(ちからいし)が伝わる、現在の長野県諏訪大社の元宮です。古来、「多祁御奈刀弥神社」(たけみなとみじんじゃ)として呼ばれた神社です。諏訪神社力石そもそも信濃国の諏訪神社は691年に創建され...天岩戸神社
徳島県美馬郡つるぎ町一宇にある天岩戸神社です。「天岩戸」の項でも書きましたように、林道ができる前は、参拝するにも命がけの神社でした。今では便利になった反面、場を維持する重要性が増したと思います。ご縁があると思われた方は、是非一度お参りくださいませ。秋葉神社
多家良町丈六にある秋葉山に鎮座する秋葉神社です。ここは勝浦川にのぞむ燈台跡です。この秋葉神社は上州の秋葉神社にここから移したとも伝わるところです。上州は忌部が開拓していった地方ということから考えると、それが正しい伝承だと思います。勝占神社
「出雲大社」の項でも書いたように、出雲大社の元宮の候補地の一つである「勝占神社」です。ここがオオナムチ神(阿波では大国主命という言い方はあまり出てこないですね)の葬場との話が伝わる重量な場所です。亀太夫神事と出雲大社
阿波古代史を研究し始めて、ずっと以前から気になっていた出雲大社の謎が解けました。その謎とは?
1.出雲大社は何故、50mもの超巨大建造物であったのか?
2.出雲風土記には何故大国主命を祀った神社が全く出てこないのか?
3.出雲国一ノ宮であった熊野大社の特殊神事「亀太夫神事」は何故起こり、今日まで続いているのか?
特に3は、はじめてそれを知ったときは本当に奇異に感じました。
ここから六次元さんのブログより、「亀太夫神事」について引用してみます。
亀太夫というのは、熊野大社の下級神官です。
毎年10月15日に、新嘗祭に使用する臼と杵を、出雲大社の宮司が熊野大社に借りに行きます。
そのとき出雲大社の宮司は、新米で作った餅を数枚持参して熊野大社に渡そうとしますが、亀太夫という下級神官が応対に出て、その餅に難癖をつけます。餅が小さい、形が悪いなど…さんざん悪態をつきます。
挙げ句の果てに「出雲の人たちのおかげで生きていることを忘れるな」とまで言われます。
これを出雲大社の宮司は、黙って頭を下げたまま拝聴しなければなりません。
出雲大社の宮司家と言えば、あの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「日本には天皇が二人いる」とまで言ったほどの存在です。
近代まで、旅先で宮司の入った風呂の残り湯は、ご神水といって地元の人たちが競って奪い合ったほどです。
そのように権威と権力を持った宮司が、たかが下級神官にボロクソに言われるのを、じっと我慢しなければならないところに、この神事の不思議さがあります。
その後、亀太夫神事が終わると出雲大社の宮司によって「百番の舞」が舞われます。
というものなのですが、実は出雲大社は8世紀に突然建造された神社のようで、それまではこの地は熊野大社が国造の厚い信頼を受けて、国内第一の神社としてご奉仕していたそうなのです。それが突然その地位を奪われたから、こうしたいわゆる「ガス抜き」行事が今日まで形として残っているようなのです。
阿波古代史を研究して、実は今で言う出雲は阿波国に本来あり、天孫降臨の地を隠すための一環として、各地に建造された大きな神社のひとつとして出雲大社があると言う説を聞いて腑に落ちた次第です。
もともと大国主命は現在の出雲にはいなかった、だから地元のスーパースターである大国主命が記述が詳細だと言われてる出雲風土記に全く出てこず、かたやあわてて10社もの大国主命を祭る神社を出雲に創ったものだから整合性が取れなくなったわけです。
こうしたことが理由で、延喜式内社として大国主命を祀る神社が出雲には10社あるのに、出雲国風土記には出雲大社以外全く出てこないうえ、他の神社も記述欄には神社の名前がない「同社」という記述が山ほど出てくるとか。それは官史であることを考えれば、そんな手抜き記事は通用しないことですよね。
とりあえず数合わせのために神社の名前を書かなきゃならないのに思いつかないからそうしたようなのですが、それがそのまま通るのですから、風土記を校正する役人もとにかく急がされていたのかもしれません。
一方、突然建造された出雲大社は50mからある日本一の建造物にして、衆目を集めました。俗に、「雲太。和二。京三。」などと残っていますよね。一方では、天皇の前で祝詞を奏上するという大変な名誉を建造直後から何度も行って、その権威付けをしていたようです。
かたや、出雲大社が突然創建され、理由を知らされずにその地位を奪われた熊野大社には「亀太夫神事」が残りました。出雲大社が明治に入るまでは杵築大社と言われることから、杵でつく餅を毎年献上する神事が生まれたのかなとも思います。
実際に、阿波には本当に古くから祭られている大国主命の神社がたくさんあります。一方では出雲神社と名のつくものは徳島にひとつ、それも祭神はスサノオノミコトです。この辺からも、現在の出雲大社の北側にある素鵞社が、元の祭神ではないかと言われているのにも符合するのも興味深いことです。
阿波にある元宮の候補地のひとつである八鉾神社など、それほど有名な神社とも思われないのですが、写真には現在の皇太子様がちゃんと行啓されている記念碑が建っております。
その当時に皇太子がお忍びで八鉾神社にお参りされたエピソードを以前に友人から聞きました。
そのお忍びを受けた宮司さん曰く、「ヘリコプターを神社の上空に待機させるのに木が邪魔なので、神社の木を切って欲しい。」と言われたとか。
実際は上空にヘリコプターを待機させてタラップで神社に降りて来られ、講義を受けて、またヘリコプターで帰られたとのことでした。そこまでして立ち寄りたかった神社なのですね。
失われた日本魂―超古代史が今、静かに動き出す
八鉾神社
「亀太夫神事と出雲大社」に詳細は書いておりますが、現在の出雲大社は創建時から「出雲大社」と言う名前だったわけではありません。そもそも現在の出雲大社は、江戸時代までは「杵築大社」と呼ばれており、「大社」と言えば現在は丹後地方にある「出雲大神宮」を指していたのです。そしてその出雲大神宮は、阿波から移されたとの話が伝わっており、その元宮の候補地として、八桙(やほこ)神社、勝占神社などが候補地になっております。
その候補地の一つ、「八桙神社」にも隠されたエピソードがあります。
今上天皇が皇太子でいらっしゃった頃、研究対象として徳島の古代の海運跡を見学された事がありました。その折、密かにこの「八鉾神社」を訪問されたいとのご希望がありました。お忍びでしたので、「ヘリコプターで神社の上空から参拝したい。そのために神社の本殿の上の木々を伐採してくれ。」との連絡が、宮内庁から当時の宮司にあったそうです。
そして皇太子はお忍びにてヘリコプターで参拝。宮司からの講義を受けてまた戻られたという話。これは宮司の友人から直接お聞きした話です。
皇太子がそこまで参拝したかった八桙神社。現在もその行啓の記念碑が建立されております。
0 件のコメント:
コメントを投稿