2024年2月7日水曜日

徐福と日本Ⅱ_各種資料が語り始めた徐福の実像 Kindle版 前田 豊 (著) 形式: Kindle版

徐福と日本Ⅱ_各種資料が語り始めた徐福の実像 Kindle版 前田 豊 (著)  形式: Kindle版

参考:

【徐福ルート】Google mapで悪ふざけ どーせまたウソなんでしょ⁉️ 

https://youtu.be/x_A9mVulod8?si=GXG4bk23noin2bBS


(第32話)【忌部の先生対談②徐福さんの末裔であり、歴史文化神の世界〜量子力学までお話は多岐に渡ります】ELCAFLORAエルフロMitsuko... youtu.be/kbXecoX31E8?si… @YouTubeより

https://x.com/slowslow2772/status/1757316008027861202?s=61


 【不老不死の薬草発見】徐福伝説は京都にあった!新井崎神社 

https://youtu.be/QYPwpzKsqPQ?si=kf_HQl5lQMG8Wj_w


冷泉家の儀式 徐福の上陸 居皆亭(いるみなてい)Vol.25 飛鳥昭雄2018/ 2/7 https://youtu.be/H3_muX2wJBM?si=Fu3QnEf_YN-mxM11 


FGO「『椿説弓張月』の徐福ちゃんですが、源為朝から質問された女性が「むかし異朝夕秦始皇」山霧 棲の漫画


OtoEhaKD_normal.jpg
山霧 棲@yamagiri_sumika

『椿説弓張月』の徐福ちゃんですが、源為朝から質問された女性が「むかし異朝夕秦始皇帝、長生不老の仙薬を求め給ふこと、いと親切なりしかば(中略)方士徐福と呼ばるるもの、往に彼の仙山へ到りし事ありと申すよしを、聞えあげ奉りければ、始皇帝やがて徐福を召され」云々と答えたのが該当箇所 #FGO 

#FGO FGO


椿説弓張月:物語日本文学: (NDLデジタルコレクション) (国立国会図書館所蔵本研究会) Kindle版 

(16)









佐藤行信『伊豆国海嶋風土記』[3]
天明2年(1782年)著、伊豆諸島の地誌。馬琴の蔵書印が押された写本が残る[3]

 
 
slowslow2772
⁦‪@slowslow2772‬⁩
徐福伝説とは?~佐賀県、鹿児島県、宮崎県、和歌山県、富士吉田市その他、お墓多すぎ…【ゆっくり解説日本史】 youtu.be/eRtwWRsV_Mo?si… ⁦‪@YouTube‬⁩より pic.twitter.com/lK9PKZgzL8
 
2024/02/09 16:28
 
 

https://x.com/slowslow2772/status/1755856232924295445?s=61







徐福と日本Ⅱ_各種資料が語り始めた徐福の実像 Kindle版 前田 豊 (著)  形式: Kindle版


蓬莱の徐福船団 講話② オリエンテーション後編


https://youtu.be/f3qXoVtyVus?si=TV6mVLX38-mO6gUS









三浦半島秋谷地区で発見された丸石は、徐福船団が使用した船の安定化バラストではないかと考えられている(逗子市の郷土史研究家の赤埴和晴氏の説、赤埴氏はその後、足柄市塚原に30隻近い徐福船団の遺跡を発見したとアッピールされている)

徐福と日本Ⅱ_各種資料が語り始めた徐福の実像 Kindle版 前田 豊 (著)  形式: Kindle版

https://dylan2023bible.blogspot.com/2024/02/blog-post_45.html @


https://www.blogger.com/blog/post/edit/6555249751919114552/6702623070250682734


徐福と日本Ⅱ_各種資料が語り始めた徐福の実像 Kindle版 


2:5

興味深いことには、神奈川県の大山山麓の伊勢原には、「竹内文書」に記された古代イスラエル人ヨセフの墓と呼ばれる古塚(真磬塚または心敬塚)や、秦氏の大王とも言われる応神天皇の大臣であった、武内宿禰の伯母に由来すると伝える「伯母様」という地名が存在する。


2:6

神奈川にも存在した徐福伝承 

 神奈川県にも、徐福伝承がいくつかある。これらの徐福伝承がなぜこの地に存在するのか。 その原点は、神奈川県藤沢市の妙善寺にある福岡家の墓碑にあった。そこには、福岡家の祖先が秦氏を称し、徐福の子孫であることを明記している。このことは、徐福研究家・奥野利雄氏著「ロマンの人・徐福」に、初めて取り上げられ、神奈川県徐福研究会の河野氏らは、文面を写しとって研究会で紹介。徐福研究作家・池上正治氏が解読した。 福岡家の墓碑から判った事は、「福岡家の人々は、徐福の子孫であり、祖先は秦野から来た」とされている。 一方、富士山麓に土着した徐福一行の子孫が、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり、大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したとの伝えがある。秦野市横野にある唐子神社の御祭神(からこ神)は、富士山から丹沢山系を越えてきた、徐福の子孫であることを伝承、また、乳牛(ちうし)の旧からこ神社にも、大磯から上陸した、古代中国からの渡来神が祀られていた。 秦野市蓑毛の大日堂(宝蓮寺)の縁起書には、大日堂の五大尊が徐福に関係することを伝えていた。 また、相模原市(旧藤野町)・栗原家に徐福持参の鉄鍬を伝承していた。 

 大山阿夫利神社の御祭神は、大山祇命であるが、この神は様々の神社仏閣の神仏の中で、徐福を祀るとされる佐賀県金立神社の祭神と同一とみなされている。そうすると、相模一宮・寒川神社のご祭神も寒川彦命であり、徐福を表していることになる。 

三浦半島秋谷地区で発見された丸石は、徐福船団が使用した船の安定化バラストではないかと考えられている(逗子市の郷土史研究家の赤埴和晴氏の説、赤埴氏はその後、足柄市塚原に30隻近い徐福船団の遺跡を発見したとアッピールされている)。

八丈島周辺にも同様の丸石が発見されており、徐福伝説がある。 富士山東麓の道志川の伝承は相模の大山が徐福一行の開発であることを証言していた。江戸時代に大山講を通じて大いに賑わった基点になったのが伊勢原町であるが、「伊勢原町勢誌」に次のような記載があった。 

「大山の山岳信仰に関連して、山梨県の道志村に残る伝説で、秦の徐福が蓬莱山なる富士に不老不死の仙薬があると聞き及び、五百人の童男童女を使わして求めたけれども得ること難く、たとえ幾年ついやそうともこの秘薬を手に入れぬ内は、帰国を許さずと厳命した。やむなく五百人の使者は土着して、相州大山までの連山を訪ね探して秦野に移住し、御正体山・地蔵ヶ岳・薬師ヶ岳・丹沢山から大山を、神仏に祈り探して、この地を蓬莱山と呼んだ。しかしめざす仙薬は遂に見当たらず、五百人の男女はここに帰化してしまった。」 

つまり、徐福一行は、リーダー徐福の厳命で、不老長寿の仙薬を求めて、秦野に移住し、蓬莱山と呼んで帰化してしまった、という。 「史記」の「徐福は平原広沢を得て、王として止まり来えらず」に該当するかも知れないのである。


以下、

徐福と日本

前田豊


 最近の公開された情報によると、物部氏は秦の始皇帝の命によって、不老不死の霊薬を求めて、東海に船出した「徐福集団」と一緒に渡来したと見られるようになってきた。  著名作家・飛鳥昭雄氏らは、賀茂氏出身のヤタガラスの長老からの情報を得て、「物部氏は徐福とともに来た」という、驚愕の事実を公開している。(「月刊ムー」二〇〇九年七月号二二〜五七頁など)。  賀茂氏は秦氏の分族であり、彼らは、古代イスラエルの一神教信仰をもつ人々であった。  一方、日本の古代文献の中には、「古事記」以前の書と呼ばれて、内容に古代日本の伝承が含まれている文書がある。古史古伝としては、「富士古文献(宮下文書)」、「物部文書」、「竹内文書」、 「九鬼文書」、「秀真伝」、「三笠紀」、「先代旧事本紀」、「上記」、「先代旧事本紀大成経」などがある。  富士古文献には、徐福が書き写したことが記載された文献が存在している。すなわち、神皇第七代孝霊天皇の世七三年(BC二一三)、秦の方士徐福率いる八五隻の大船団が、紀伊熊野に到着し、天皇が派遣した竹内宿祢を案内者として、富士山麓に落ち着いたという。  徐福は、富士の阿祖山太神宮の神官から、神代文字で記された古代記録を見せられ、その内容を漢文で書き写したことから「徐福文献」という名が生じた。  また、筆者の調査によれば、古史古伝の編者は、物部氏や秦氏が関与している。  即ち、徐福集団が持ち込んだ、ユーラシア大陸の歴史が反映されていると思われる。 (3)淡路島のその他の徐福情報  淡路島に存在する神社やイワクラは徐福と関係しそうである。関係を示唆する事柄を列挙してみる。  諭鶴羽神社は、創建が開化天皇の治世と伝えられる古社である。祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命である。  長寛元年(一一六三年)に書かれた『長寛勘文』の「熊野権現御垂迹縁起伝」によると、熊野神は英彦山から石鎚山、諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡られたとされる。速玉男命は、熊野で徐福を表すものとされている。  山王山舟形岩は、船団で渡来した徐福集団のメモリアルモニュメントと考えられる。  舟木石上神社の神座も同様である。  東山寺奥の院には、国指定の薬師如来がお祀りされているが、薬師如来像は富士古文献では、徐福が持参との伝承がある。  雨乞い山加茂神社は、徐福が雨乞いの神様になっていることと対応関係がある。  松尾神社は、秦氏が大山咋神を祀る神社であるが、この神は大山祇神の孫とされ、徐福の子孫と目される。  淡路島洲本の千光寺には、岩戸神社があり、イザナギ神の子、天照大神が祀られている。  洲本は御食国と呼ばれ、紫黒米という赤米を炊いたご飯で有名であった。赤米は、徐福一行が持ち込んだ古代米と徐福研究家の間では考えられている。  イワクラが、縄文時代を含む古代日本で祀られていたことは否めないが、弥生時代の渡来集団、徐福集団と関連するところが多く、イザナギ神、イザナミ神の国生みの原点である「天の御柱廻りの方向」は、道教(仙道)の考え方でいう、天(男)の動きと、地(女)の動き方と一致している。


以下、

徐福は本当に…

《 徐福が「羌」の若者を連れて行く次第 》 一方の徐福は、連れて行く若い男女を募集しようと努力しましたが、始皇帝の戦と大土木工事によって、若者は徴発されて中々集まりません。 そのような時に、始皇帝が徐福に「羌」の若者を連れて行くように命じました。 実は、始皇帝の「秦」は左の「戦国の七雄」の地図でも分かるように、7国の中で中原より一番西方に外れた位置にあり、春秋時代中期に発展して「五覇」の一つに数えられたこともありますが、中原諸侯からは野蛮の夷狄視され続けたこともあり、同じく夷狄視されていた「羌」に親近感を覚えていたのでしょう。 「後漢」の許慎の手になる『説文解字』の解釈では‥‥、 「『羌』は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」──とあり、『羌』の文字は確かに『羊』と『人』という字を組み合わせて作られています。 また、「『秦』は東遷した『羌人』と中原の人の末裔である」──とも説明されています。始皇帝の「秦」と「羌」は同族なのです。 (「戦国の七雄」の地図。「百度百科」より) 「羌」は、遊牧民族で馬の扱いにも巧みで、当時は西羌族(現在の少数民族「チャン」の祖)の一部が揚子江の流域にも住んでいて稲作の文化を持っていました。 「羌族」の赤子には、日本人と同じようにお尻に「蒙古斑」があります。 また、「後漢書」には、「姜は羌と同族」とあります。 実は、中国古代の伝承に登場する「三皇五帝」の一人で、医薬と農業を司る神炎帝神農もその姓は「羊」+「女」の「姜」で、炎帝の兄弟で漢民族の始祖の黄帝や、周王朝の建国の名将太公望も姜姓でチベット系民族なのです。 以上のような理由で、始皇帝も親近感を持っていた「羌」の若者を、兵士や土木工事には徴発しなかったのです。 なお、「当時は西羌族の一部が揚子江の流域にも住んでいた」と書きましたが、筆者はこの部族は伝説の「三苗人」の末裔で、「ミャオ族」の祖先?ではないかと考えています。 考古学者で総合人類学者の鳥居龍蔵博士は、未開拓の大陸の考古学や人類学・民族学の方面に自ら足を踏み入れた結果、ミャオ族の「銅鼓」には日本の「銅鐸」に似た文様の要素があると「ミャオ」の一部が日本列島に渡って日本人の祖先になったとされています。 筆者が、徐福が「羌」の若者を連れて「東渡」したと考えるのも、全く根拠がないことではないのです。


以下、

徐福渡来伝説


9、結び・古代イスラエルの「失われた十氏族」  太古の日本に集団組織的に渡来してきたということでは徐福伝説がその筆頭に挙げられるところであるが、それ以外にも騎馬民族渡来説や河童一族渡来伝説が微妙に重なってくる。  本論でも河童一族渡来伝説については詳しく紹介した。  河童一族渡来伝説は、架空の創造物である河童そのものではなく、本来は水神信仰を持つ職能集団が渡来してきたものとして捉えるべきものである。  彼らに共通していることは、大陸から海を渡って日本に渡来してくる手段として船を利用している以上、当時の東アジア沿岸部で活動していた海洋民族とは密接に関係していたことが窺えるところである。  渡来してきた集団は、渡来後も日本全国に拡散していく際にも沿岸に居住するそれらの海人らと深く繋がったまま移動していった。  徐福ら一行も九州を拠点にして、全国各地にその一族が分散していった。  渡来という行動に至るには多くの背景が考えられるが、徐福には始皇帝に命じられた不老長寿の「霊薬」を入手という大きな目的があったはずである。  徐福自身が「霊薬」入手を奉じているわけであるから、当初よりすべての計画の目論見は徐福の下で実行されていたことになる。  彼の渡航遠征計画の規模は途方もなく大掛かりなものであった。  規模が大掛かりであっただけでなく、計画は事前に徐福の下で用意された周到なものであったのだとも云える。 「霊薬」の探索は、始皇帝の存命中は続けられたことになっている。  徐福には、「霊薬」の探索以外の渡来目的があったことは確かである。  それは彼らの手で統治する新たな国造りである。  そうした新天地を求めて、徐福一行は集団で蓬莱(古代日本)に渡来してきた。  蓬莱への遠征計画そのものは徐福の側に始めからあったわけで、徐福は方士として「霊薬」入手を始皇帝に奏上して遠大な渡航計画を勧めてみせたということになる。  計画を実行するには、計画する者にそれなりの力量が備わっていなければ不可能なことである。  徐福側には、秦の始皇帝を納得させるだけの条件が揃っていなくてはならなかったはずである。  始皇帝はそうした徐福の経歴はもとより、徐福の云う「霊薬」についても入手の可能性を厳しく問うたことであろう。  結果的には始皇帝は徐福の渡航計画を承認し、「霊薬」入手を命じたのである。  徐福にしても、もとより専門性の高い職能集団や多くの海人を纏め上げるだけの強権なしには、こうした集団移住計画を成功させることは出来まい。  徐福という人物は、王家に繋がる家系であったとされる。  そこには組織的強権が働くだけの部族的活動や祭祀といったものが集約される王権そのものが、始めから徐福には揃っていたのである。  少なくとも沿岸地域に居住する彼ら一族の首領格か、氏族長の地位にあったからこそ、集団移住ともいえる計画そのものを手掛けたのだとも云えよう。  海外への集団渡航を計画する理由は、徐福に独自の海外情報があったからである。  このときすでに新天地を確保できるだけの、地理的手掛かりを徐福自身が摑んでいたという事になる。  海のシルクロードを自由に行き来する海洋民族らとの交流によって、特定の情報を得ていたと云うことになる。  そこから先の徐福の行動はすべて計画的であった。  その彼が、時の権力者である始皇帝の命令を機会にその部族集団の日本への渡航を巧妙に工作してみせたということになる。  「霊薬」入手は政略的目的ではあったであろうが、彼の真の目的は部族集団の集団移住であったのだ。  徐福自身は、集団移住によって新天地を得る大きな目的を胸中に秘めていたことになる。  これはまさに巨大な移住プロジェクトである。  徐福が沿岸部の海洋民族に関わりを持つ以上、海のシルクロードの存在はもとより、渡来先である日本の地理情報も事前に彼らの間では共有されていたはずである。  徐福らには、集団移住への強い意志が働く何らかの要因があったとも考えられる。  始皇帝の暴政から逃れる手立てであったのか、徐福一族に何らかの理由があったのかは判然としない。  どちらにしても当時の蓬莱(古代日本)が、彼ら部族にとっては約束の土地であったことになる。  その意志が働いたことで、時の権力者秦の始皇帝に取り入り不老長寿の「霊薬」の入手を吹聴してみせたということであろう。  不老長寿を求める始皇帝は、「霊薬」の入手の計画実行の為に莫大な資財を徐福に与えた。  徐福は巨大な船を造らせ、職能集団だけではなくを多くの少年少女らを集めた。  徐福渡来は、当時の中国文化の精華そのものを原始日本にもたらした大事件であったが、古代日本の歴史の変遷と共に為政者の都合によってすべてが消されたのである。。  海を渡っての日本への集団移住と云うことで、ここでさらに視野を広げれば、古代イスラエルの十支族の渡来伝説というのが浮上してくる。  昔から言われているところのこの手の日ユ同祖論(日猶同祖論)とは、日本人(大和民族)とユダヤ人(古代イスラエル人)とは、共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説のことである。


心敬塚古墳 (再訪) 伊勢原市三ノ宮 - 週末は古墳巡り
https://kofunmeguri.hatenablog.com/entry/2023/02/21/000000

心敬塚古墳 (再訪) 伊勢原市三ノ宮

心敬塚古墳を再訪。脇に心敬塚の石碑が建立されていた。

f:id:kofunmeguri:20230210141418j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141415j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141422j:image

心敬塚 (しんけいづか)

連歌中興の祖といわれる心敬は、応永13年(1406)紀伊国に生まれた。幼少のころに出家し、京都東山の十住心院の住持となり、後に権大僧都に至った。正徹に和歌を師事し、『ささめごと』、『老いのくりごと』、『心玉集』、『心敬僧都百句』、『芝草』などの著作を遺した。連歌七賢の一人で、弟子に宗祇がいる。

応仁の乱を避け、関東へ下向し、太田道真・道灌父子と親交を結んだ。文明3年(1471)夏、大山山麓の浄業寺に身を寄せ、同6年には江戸城で開かれた道灌主催の「武州江戸歌合」の判者を務めた。 翌7年4月16日に、当地石蔵にて没した。享年70歳。当地では、心敬が「遠海をみどりによする夏野かな」の一句を詠んだとされる。

大山、江ノ島などの景色を愛でながら、都や故郷を偲んだのであろうか。 地元では古くからこの丘を“心敬塚”と呼び、心敬を祀る地として手厚く護持している。

平成31年3月16日 伊勢原市歴史文化を活かした地域づくり協議会

f:id:kofunmeguri:20230210141810j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141524j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141611j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141700j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141959j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141951j:image

三の宮高区配水池
f:id:kofunmeguri:20230210142002j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141948j:imagef:id:kofunmeguri:20230210141955j:image

三ノ宮低区配水池
f:id:kofunmeguri:20230210142125j:imagef:id:kofunmeguri:20230210142128j:imagef:id:kofunmeguri:20230210142121j:image

伊勢原市No.67遺跡
f:id:kofunmeguri:20230210140603j:imagef:id:kofunmeguri:20230210140607j:imagef:id:kofunmeguri:20230210140611j:imagef:id:kofunmeguri:20230210140614j:image

害獣駆除檻
f:id:kofunmeguri:20230210140905j:image

心敬塚 | 伊勢原市

文献

[1] 相原精次・藤城憲児 2000「神奈川の古墳散歩」彩流社

心敬については太田道灌胴塚の句碑で予習しておいた。

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

椿説弓張月

椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5編29冊[1]。版元は平林庄五郎と文刻堂西村源六[2]

保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝(ちんぜい はちろう ためとも)琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。

概要

馬琴の史伝物読本の初作[2]。物語は日本の物語と琉球の物語に区分でき[3]、鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという伝説がある[4])するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。

そのあらすじは、九州に下った弓の名人源為朝は八町礫紀平治を家来とし、阿曾忠国の娘白縫の婿となるが、保元の乱に破れて大島に流される[2]。大島を抜け出した為朝は兵を挙げるが、海上で暴風雨に遭い、琉球に漂着する[2]。琉球では尚寧王の姫忠婦君が利勇や曚雲と図って、王女寧王女を陥れようとしていた[2]。為朝は寧王女を助け、琉球を平定するというものである[2]

日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。

小史

文化4年(1807年)にまず『前篇』が出版され、以後足掛け4年をかけて『後篇』、『続篇』、『拾遺』、『残篇』が出版されて、全5篇・29冊で完結。当初は前篇と後篇の全12巻で完結予定だったが[5][1]、反響が予想以上に大きかったことで馬琴の筆が伸び、完結も延期を繰り返した。

題名

正式には「鎮西八郎為朝外伝」の角書きが付いて『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』。

『椿説弓張月』の「椿説」は「ちんせつ」と読む。意味としては「珍説」と同じで、珍しい説の意味であり[3]、九州の鎮西にも通じる[6]。「弓張月」は主人公が弓の名手であるから名付けられた[3]。「為朝外伝」は正史以外の伝記を意味し、本作の内容が史実離れしていることを標榜している[3]

「説」という字は、「遊説」を「ゆうぜい」と読むように、「ぜい」と読むこともできる。したがって「椿説」は、「ちんぜい」という読みが可能で、この「ちんぜい」が、読みが同じ「ちんぜい」の「鎮西」こと鎮西八郎為朝に掛かっている。これは歌舞伎外題で多用される、題名の中に主人公の名を暗示する文字や音を掛詞として織り込む手法と同じで、このため古くから『椿説弓張月』は歌舞伎の外題風に「ちんぜい ゆみはりづき」と読まれることも多かった[要出典]

主要登場人物

  • 源為朝(みなもとの ためとも)源為義の八男で弓の名手。
  • 白縫姫(しらぬい ひめ):為朝の正室。舜天丸を儲ける。
  • 尚寧王(しょうねい おう):琉球王。
  • 寧王女(ねい わんにょ):尚寧王の第一王女。
  • 白縫王女(しらぬい わんにょ):寧王女の肉体に白縫姫の魂が宿ったもの。
  • 八町礫紀平治(はっちょう つぶての きへいじ):為朝の忠臣で礫印地打ちの名手。舜天丸を養育する。
  • 舜天丸(すてまる):為朝と白縫姫の嫡子。曚雲を討ち、琉球国王舜天となる。
  • 鶴・亀(つる・かめ):琉球王国の忠臣・毛国鼎(もう こくてい)の二人の息子。
  • 阿公(くまきみ):琉球王国の高名な巫女利勇の陰謀に加担。
  • 曚雲(もう うん):尚寧王が暴いた蛟塚から現れた妖僧。妖力を使い妖獣・を操る。
  • 崇徳院(しゅとく いん):かつて為朝が主として仕えた上皇。怨霊となって、為朝が危機に陥ると救いに現れる。

典拠

『弓張月』の典拠は多岐多様にわたるが、ここでは代表的なものをいくつか挙げるにとどめる。

謡曲「海人」
『椿説弓張月』の初期段階の構想に用いられ、作品の枠組みに貢献した[7]
保元物語[3]
前半の種本。なお、馬琴が採用したのは、元禄時代に水戸の彰考館で編纂刊行された『参考保元物語』であり[3]、上方読本『保元平治闘図会』も部分的に用いている[8]
佐藤行信『伊豆国海嶋風土記』[3]
天明2年(1782年)著、伊豆諸島の地誌。馬琴の蔵書印が押された写本が残る[3]
古宋遺民『水滸後伝[3]
後半のネタ元。『水滸伝』の後日談で、李俊シャム王になるという筋にとどまらず、人物や部分的趣向も借りている。
徐葆光『中山伝信録[3]
6巻。琉球関係の人名・地名・事件などについて活用。

当時の評価

本作は庶民から絶大な支持を得て、商業的に大成功を収め、馬琴の読本作者としての地位を確たるものとした[5]。『為朝一代記』『源氏雲弦月』『弓張月春宵栄』といった合巻をはじめ[3]、錦絵や双六の題材となるなど、幅広い人気を集めた[2]。本作の次に書いたのが『南総里見八犬伝』で、今日ではこちらの方が有名になっているが、当時は逆だった。

文献

活字本

現代語訳

  • 三田村信行訳 『新編弓張月』(上巻「伝説の勇者」・下巻「妖魔王の魔手」)、ポプラ社平成18年(2006年)。※児童書。
  • 平岩弓枝訳 『椿説弓張月』 学研パブリッシング〈学研M文庫〉、平成14年(2002年)。※編訳版、初刊・学研、1981年。
  • 山田野理夫訳 『椿説弓張月』 教育社歴史新書(上・下) 原本現代訳、昭和61年(1986年)。※訳文のみ。序跋系図の類は省略。
  • 高藤武馬訳 『椿説弓張月 古典日本文学全集27』 筑摩書房、昭和35年(1960年)。訳文のみ、新装版「古典日本文学」。※序跋「備考」や本筋に無関係な考証的な箇所(系図など)に省略がある。
  • 丸屋おけ八訳 『全訳 椿説弓張月』、言海書房、2012年。訳文のみ、序跋の類や考証的な箇所は省略。

派生作品

錦絵

北斎の他に、歌川国芳月岡芳年らが本作から着想した作品を残している。

  • 国芳画『為朝誉十傑』の一「源爲朝」

    国芳画『為朝誉十傑』の一「源爲朝」

  • 芳年画『爲朝の武威痘鬼神を退く圖』

    芳年画『爲朝の武威痘鬼神を退く圖』

  • 芳艶画『為朝誉十傑』の一「魔界に入る崇德院」
    芳艶画『為朝誉十傑』の一「魔界に入る崇德院」
  • 国芳画『讃岐院眷屬をして爲朝をすくふ圖』
    国芳画『讃岐院眷屬をして爲朝をすくふ圖』

歌舞伎

馬琴の『椿説弓張月』刊行中の文化5年10月に、まず浄瑠璃『鎮西八郎誉弓勢』として、同年11月には近松徳三作の歌舞伎『島巡弓張月』として演じられたほか[9]、1853年(嘉永6年)、三代目瀬川如皐作『与話情浮名横櫛』劇中、主人公与三郎の夢という演出による常磐津の所作事『嶋廻色為朝』、さらに明治14年に河竹新七 (3代目)により『弓張月源家鏑箭』が初演されるなどしたが[10]、一篇のまとまったストーリーとして劇化されたのは戦後昭和の1969年(昭和44年)11月5日に東京国立劇場で初演の三島由紀夫作『椿説弓張月』全3幕8場である[11]

三島台本の活字発表は雑誌『』同年11月号でなされ、11月25日には中央公論社より限定版で、歌舞伎戯曲『椿説弓張月』が出版された。この作品は三島の書いた最後の歌舞伎であり、最後の舞台作品となった[12]。脚本のほか、演技、美術、音楽などの演出も自ら手掛けた[13][14]

似非近代化した当時の歌舞伎に失望していた三島が、古典的・伝統的な義太夫狂言の様式に構成したルネサンス的な創作歌舞伎である[11]。初演時・配役も、源為朝に八代目松本幸四郎、阿公・崇徳院に二代目中村雁治郎、紀平治に八代目市川中車、高間太郎に三代目市川猿之助と一流の役者を配し、白縫姫には三島の肝煎で当時まだ無名に近かった19歳の五代目坂東玉三郎が抜擢された。玉三郎はこの舞台が絶賛され、以後の盛名に至る出世作となった。なお、為朝の役について三島は、市川染五郎(6代目)を強く希望していたが、染五郎のスケジュールが空かなかったため、父・松本幸四郎になった[15]

のち文楽で上演する話が進められたが、三島の死で脚本が未完成となったのを、演出を担当していた山田庄一らにより補筆され1971年(昭和46年)11月に初演された[16]

当時演出助手を務めた織田紘二が三島の言葉をメモした制作ノートによると、テーマは「太い男の流れる姿」であるとし、挫折と行動を繰り返し続けた「未完の英雄」為朝を自らの理想の英雄像として仮託し、「為朝の孤忠」を主題とした[11][14][17]。三島は、「日本のオデッセイを作りたい。日本のオデッセイは為朝だ」と腹案を織田に伝えたとされる[15]。為朝の騎乗する白馬が海の中から出現して飛翔する演出に、三島は最後までこだわり続けたという[11]

歌舞伎は過去に遡るほどよいとする三島は古典様式を重んじ、擬古文で書いた擬古典歌舞伎にこだわり、(河竹黙阿弥が活躍し歌舞伎の様式を確立した)「明治初年の作者に戻り、歌舞伎の様式の中で新しい形式を作りたい」とスタッフ会議で並々ならぬ意欲を述べたという[14]。音楽には、当時としては異例だった文楽義太夫を入れることにし、鶴澤燕三に作曲を依頼、文楽座を初めて歌舞伎に出演させた[14][13]。また、狂言作者は本読みを自分で行ない皆に聞かせるという習慣に倣って、三島も本読みを行なったところ、すべての役を巧みに演じ分ける三島のうまさに驚いたスタッフの勧めで録音することになり、杉並公会堂で8月26日と27日の2日間かけて録音しレコードを制作、役者顔寄せの日にそれを聞かせた[14][18]。ポスターを手掛けた横尾忠則のジャケット装で日本コロムビアから『椿説弓張月』(上の巻)として発売もされた[14][19]

公演

おもな刊行本

  • 限定版『椿説弓張月』(中央公論社、1969年11月25日) 限定1000部(記番入) NCID BN06674487
    • 題字:竹柴蟹助、B5横判、和装袋綴。紙装。夫婦函。段ボール外函。88頁
    • 収録内容:「椿説弓張月」「『弓張月』の劇化と演出」
    • 「上の巻」「中の巻」「下の巻」の題扉の次にカラー図版16頁(裏白)8葉、衣裳絵:高根宏浩、舞台装置図:国立劇場舞台美術研究会(村山和之)。本扉裏に「昭和己酉刊」とあり。巻末に初演データ。
  • 『椿説弓張月』(中央公論社、1970年1月30日) NCID BN05623593
    • 題字:竹柴蟹助。B5横判。紙装。
    • 収録内容:「椿説弓張月」「『弓張月』の劇化と演出」
    • 普及版:上記の1969年11月刊行の限定版と同じ内容
  • 文庫版『椿説弓張月』(中公文庫、1975年11月10日)
    • 題字:竹柴蟹助。装幀:白井晟一、紙装。解説:磯田光一
    • 収録:「椿説弓張月」「『弓張月』の劇化と演出」「『椿説弓張月』の演出」「歌舞伎の脚本と現代語」
  • 『My Friend Hitler and Other Plays』(Columbia University Press、2002年11月15日)

全集収録

  • 『三島由紀夫全集24(戯曲V)』(新潮社、1975年4月25日)
  • 『三島由紀夫戯曲全集 下巻』(新潮社、1990年9月10日)
    • 四六判。2段組。布装。セット機械函。
    • 収録作品:「熊野」「女は占領されない」「熱帯樹」「プロゼルピーナ」「弱法師」「十日の菊」「黒蜥蜴」「源氏供養」「喜びの琴」「美濃子」「恋の帆影」「聖セバスチャンの殉教」「サド侯爵夫人」「憂国」「アラビアン・ナイト」「朱雀家の滅亡」「ミランダ」「わが友ヒットラー」「癩王のテラス」「椿説弓張月」「文楽 椿説弓張月」「附子」「LONG AFTER LOVE」〔初演一覧〕
    • ※ 上・下巻 2冊組での刊行。
  • 『決定版 三島由紀夫全集25巻 戯曲5』(新潮社、2002年12月10日)
    • 装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
    • 月報:織田明「三島さんと『わが毒』」、山中剛史「資料探索の密かな愉しみ」、〔天球儀としての劇場5〕田中美代子「受肉・または俳優の恍惚」
    • 収録作品:「癩王のテラス」「椿説弓張月」「文楽 椿説弓張月」「オルフェ」「ブリタニキュス」「プロゼルピーナ」「トスカ」「聖セバスチャンの殉教」[21]
      • 〔参考作品〕「老人の星」「長唄 螺鈿」「頼政(「あやめ」異稿)」「無題(「黒川伯爵家の……」)「鯉になつた和尚さん」「ちびくろさんぼのぼうけん」「舌切雀」「附子」「LONG AFTER LOVE」「歌劇台本 潮騒」「無題(「あるさびれた海岸の……」)」「清水一角(シノプシス)」「無題(「大東塾……」)」
      • 「『癩王のテラス』創作ノート」「『椿説弓張月』創作ノート」

音声資料

  • LPレコード『椿説弓張月“上の巻”』(日本コロムビア、1969年11月10日)
    • 台詞朗読:三島由紀夫。義太夫:鶴澤燕三野沢勝平。長唄:杵屋栄左衛門。囃子:田中佐十次郎
    • ジャケット装幀:横尾忠則。帯、ブックレット付。
    • ジャケット掲載文章:寺中作雄「耳で聴く三島文学」、三島由紀夫「レコード化に当って」
    • 収録内容:「椿説弓張月“上の巻・伊豆国大嶋の場”」
    • 国立劇場と日本コロムビア提携作品。“下の巻”は未刊。
    • ※1987年(昭和62年)10月21日にカセットテープ・CD化され発売[19][18]。こちらのジャケットはLPの装幀とは異なり、掲載文章は三島の「『レコード化に当って』序文より」のみ[19]
    • ※2004年9月に刊行された『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』のディスク3として所収。

映画

1914年大正3年)と1955年(昭和30年)の2度、映画化されている。

テレビ

  • 連続人形劇『新八犬伝』(1973年 - 1975年)
    • 八犬士の一人(犬塚信乃)が琉球へ渡り、その琉球では『弓張月』の登場人物である阿公、朦雲、中婦君などがそのままの名で登場する。その自由な創作ぶりを巡っては賛否両論で、『椿説里見八犬伝』と論評に書かれたこともあった[要出典]

脚注

  1. a b 後藤丹治校注『椿説弓張月 上』岩波書店、1958年8月、3-54頁。none
  2. a b c d e f g 岡本勝雲英末雄編『新版 近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、115頁。
  3. a b c d e f g h i j k 後藤丹治校注『椿説弓張月 上』岩波書店、1958年8月、3-54頁。
  4. ^ 琉球王国正史中山世鑑』、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』などには、為朝は現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったと書かれている。
  5. a b 国文学研究資料館・八戸市立図書館編『読本事典』笠間書院、2008年2月、64-66頁。
  6. ^ 国史大辞典
  7. ^ 大高洋司 (2004). “『椿説弓張月』の構想と謡曲「海人」”. 近世文藝 (日本近世文学会) 79: 17-28. doi:10.20815/kinseibungei.79.0_17.
  8. ^ 三宅宏幸 (2011-03). “『椿説弓張月』典拠小考”. 同志社国文学 (同志社大学国文学会) 74: 45-56. doi:10.14988/pa.2017.0000012691.
  9. ^ 江戸歌舞伎の残照吉田弥生、文芸社, 2004
  10. ^ 弓張月源家鏑箭歌舞伎・浄瑠璃外題辞典
  11. a b c d 織田紘二「椿説弓張月」(事典 2000, pp. 234–236)
  12. ^ 千谷道雄「椿説弓張月」(旧事典 1976, pp. 260–261)
  13. a b 「『椿説弓張月』の演出」(毎日新聞 1969年11月7日号)。35巻 2003, pp. 732–735
  14. a b c d e f ETV2000 「シリーズ 巨匠 その知られざる素顔 第1回三島由紀夫 最後の歌舞伎」NHK、2000年6月12日放送
  15. a b 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998, pp. 233–331)
  16. ^ 織田紘二「文楽椿説弓張月」(事典 2000, pp. 330–331)
  17. ^ 「『弓張月』の劇化と演出」(国立劇場プログラム 1969年11月)。35巻 2003, pp. 728–731
  18. a b 「解題の冊子」「disc3」(41巻 2004
  19. a b c 山中剛史「音声・映像資料――肉声資料」(42巻 2005, pp. 891–899)
  20. ^ 新橋演舞場五月花形歌舞伎平成24年5月1日(火)~25日(金)歌舞伎美人
  21. ^ 「プロゼルピーナ」はゲーテ、「ブリタニキュス」はラシーヌ、「聖セバスチャンの殉教」はダヌンツィオの戯曲訳書

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

0 件のコメント:

コメントを投稿

Synekura AudioさんによるXでのポスト

    Synekura Audio ⁦‪@synekura_audio‬⁩ 'Waiting for Godot' [1988], directed by Mike Nichols, starring Robin Williams [Estragon] and ...