フォン・ノイマンについて(12)彼の死とまとめ
フォン・ノイマンは科学と純粋数学でみごとな業績を上げただけでなく、抜群の実務能力も持っていた。例えばプロジェクトを設立する際には、財務当局による査定が入って減額されないように、海軍と陸軍とのそれぞれの要請に応じて別々に契約することを避けて契約を一本化したり、持ち前の機知と説得力でかたくなな委員を納得させて委員会の運営をぐいぐい進めるなど、優れた手腕も発揮した。そういった実務力と科学の才能とを兼ね備えていたので、軍人、技術者、企業家、科学者などあらゆる職種の人々から絶大な信頼を得ていた[1]。特に、核ミサイル問題にかけて彼の右に出る者はおらず、「(11)戦略ミサイルと核戦争抑止」で述べたように、彼の言葉は重みを持って受け止められた。フォン・ノイマンが忙しすぎることを懸念して、彼の周囲は1954年夏にアイゼンハワー大統領の原子力委員(全米で5人)になるように手を回した[1]。この委員は就任に議会の承認を要する重い政策ポストだった。ところが彼は、1955年に癌と診断された。彼は生涯たばこは吸わなかったし、あまり飲酒もしなかった。おそらく1946年のビキニ環礁の核実験(クロスロード実験)に立ち会ったのが癌になった原因だと言われている。
彼は残された時間を惜しむように、車椅子に乗って多忙な生活を続けたが、1956年1月に入院した。彼が亡くなった1957年2月8日には、彼の病室に国防長官と副長官、それに陸海空軍の長官や参謀長などの政府高官たちがベッドをとり囲んで、彼の最後のひとことにまでじっと耳を傾けた[1]。まだ53歳だった。科学界というよりは人類にとって惜しんでも余りある早すぎる死だった。
私はこれまでにも述べてきたように、フォン・ノイマンの幅広い分野を深く俯瞰できる能力に感嘆している。自分の専門分野を深く掘り下げていく科学者は少なくない(というより科学者とはそういうものである)。しかしそうなればなるほど、他分野の研究と乖離していくことが多くなるとともに、研究に行き詰まってくる場合がある(いわゆる努力する割に成果が上がらないという「収穫逓減の法則」である)。
しかし、どこかで誰かがそれまでのさまざまな分野での成果を幅広く総合して整理し、相互に補完・利用できる部分や方向性を明確にできると、そこからそれぞれがあるいは新たな分野が大きく発展する場合がある。彼はそれができる数少ない人間の一人だった。彼は物理学の量子力学と数学のヒルベルト空間を結びつけた。電子工学と論理学を結びつけた。数学と経済学を結びつけた。書くと簡単だが、これは容易なことではない。彼は自らが理論を発展させただけでなく、それを使って現実の政治を動かした。
そして気象学から見ると、気象学と電子工学や論理学(ソフトウェア)とを結びつけた。当時の気象学の内容は主に力学や熱力学、統計学であり、気象学者は気象予報の偏微分方程式であるプリミティブ方程式を数値的に解く、という原理や概念は理解できても、そのための電子コンピュータの回路やそれを動かすソフトウェアのことを理解できる人はほとんど皆無だった。
しかも「(9)数値気象予報への貢献1」で述べたかつてのリチャードソンの失敗のように、膨大な努力を投入しても数値予報が成功するという保証は何もなかった。リチャードソンが1922年に「おそらく将来のある日、気象の進行よりは速く、・・・計算を行うことが可能性になるでしょう。しかし、それはまだ夢です。」[2]と述べてから、気象学はそれほど変わってはいなかった。数値予報はまだ単なる夢に近かった。
そういう状況の中でフォン・ノイマンは、プリミティブ方程式を解く意義と解ける見通しを明確に理解して、多くの人々を説得して資金や人を集めて、数値予報のためのプロジェクトを立ち上げ、電子コンピュータやそのソフトウェアを自ら作って、数値予報の実現を進めていった。彼の見通し力、率先力、実行力は、驚くべきものである。これまで述べてきた他分野の業績も合わせて、彼は単なる天才とか先駆者という範疇を超越していると思う。
フォン・ノイマンは、生物の細胞さながらにふるまう人工の素子を使って、人間の脳くらい複雑で高速なオートマトン(自動機械)を作れないかを考えていた[1]。彼が長生きしていれば、現在もてはやされているAIなども、はるかに進歩・進化していたかもしれない。もし彼がいなければ、今の世界はずっと遅れていたかもしれないと思うと同時に、もっと長生きしていれば今の世界はもっと変わっていたかもしれないとも思う。「(1)イントロダクション」で彼に対して鬼才という言葉を用いたが、とにかく異例の科学者であったことは間違いない。
フォン・ノイマンが受けた表彰
1938年:ボッチャー記念賞
1947年:功労勲章
1956年:自由勲章(アイゼンハワー大統領から直々にを手渡し)
1956年:アルベルト・アインシュタイン賞
1956年:エンリコ・フェルミ賞
そういう状況の中でフォン・ノイマンは、プリミティブ方程式を解く意義と解ける見通しを明確に理解して、多くの人々を説得して資金や人を集めて、数値予報のためのプロジェクトを立ち上げ、電子コンピュータやそのソフトウェアを自ら作って、数値予報の実現を進めていった。彼の見通し力、率先力、実行力は、驚くべきものである。これまで述べてきた他分野の業績も合わせて、彼は単なる天才とか先駆者という範疇を超越していると思う。
フォン・ノイマンは、生物の細胞さながらにふるまう人工の素子を使って、人間の脳くらい複雑で高速なオートマトン(自動機械)を作れないかを考えていた[1]。彼が長生きしていれば、現在もてはやされているAIなども、はるかに進歩・進化していたかもしれない。もし彼がいなければ、今の世界はずっと遅れていたかもしれないと思うと同時に、もっと長生きしていれば今の世界はもっと変わっていたかもしれないとも思う。「(1)イントロダクション」で彼に対して鬼才という言葉を用いたが、とにかく異例の科学者であったことは間違いない。
フォン・ノイマンが受けた表彰
1938年:ボッチャー記念賞
1947年:功労勲章
1956年:自由勲章(アイゼンハワー大統領から直々にを手渡し)
1956年:アルベルト・アインシュタイン賞
1956年:エンリコ・フェルミ賞
(このシリーズ終わり)
[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[2] ジョン・コックス著、堤之智訳(2013)「嵐の正体にせまった科学者たち―気象予報が現代のかたちになるまで」、丸善出版
[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[2] ジョン・コックス著、堤之智訳(2013)「嵐の正体にせまった科学者たち―気象予報が現代のかたちになるまで」、丸善出版
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