2012年11月10日に日本でレビュー済み
『美は乱調にあり』は、大杉栄と伊藤野枝の遺児、魔子さんに作家が会って話を聞く場面から始まる。小説が発表されたのは1965年、直接の縁者はまだ多く存命だったのだ。肉親が語る伊藤野枝は生々しいイメージで読者の前に現れ、そのまま作品中の野枝となって歩み出す。
周囲の思惑も顧みず自分の欲望と信念の命ずるところに従って生きた女性、欠点も多かったが、その真っ直ぐさと野生のエネルギーが男を虜にする。作者の野枝に向ける視線は厳しいが、行動力と生命力の溢れる女性の個性は鮮烈である。
伝記小説と呼ばれるにふさわしく人物は小説中の人物として描きこまれる。恋愛シーンが多いが、作者の独擅場ともいうべき筆の冴えに引きずりこまれた。小説は、神近市子が大杉栄を刺す日蔭茶屋事件でとりあえず幕をとじる。
『諧調は偽りなり』は、前作が幕を引いた日蔭茶屋事件から始まる。執筆時期は1980年であり、作風も変化し、作者が直接の批評を加える評伝小説の趣がある。甘糟事件をもって終了するが、大杉栄と伊藤野枝の周辺で、彼らにかかわる有名無名の人物が多数登場して、ひとりひとりの軌跡が詳細にたどられる。政治運動、恋愛、出家、心中、文学、それぞれの人間のひたむきな生きざまが重たく哀切である。それにしても登場人物がもつパワーなのか小説の放つエネルギーなのか、読者をして芯から力づける2作品である。
周囲の思惑も顧みず自分の欲望と信念の命ずるところに従って生きた女性、欠点も多かったが、その真っ直ぐさと野生のエネルギーが男を虜にする。作者の野枝に向ける視線は厳しいが、行動力と生命力の溢れる女性の個性は鮮烈である。
伝記小説と呼ばれるにふさわしく人物は小説中の人物として描きこまれる。恋愛シーンが多いが、作者の独擅場ともいうべき筆の冴えに引きずりこまれた。小説は、神近市子が大杉栄を刺す日蔭茶屋事件でとりあえず幕をとじる。
『諧調は偽りなり』は、前作が幕を引いた日蔭茶屋事件から始まる。執筆時期は1980年であり、作風も変化し、作者が直接の批評を加える評伝小説の趣がある。甘糟事件をもって終了するが、大杉栄と伊藤野枝の周辺で、彼らにかかわる有名無名の人物が多数登場して、ひとりひとりの軌跡が詳細にたどられる。政治運動、恋愛、出家、心中、文学、それぞれの人間のひたむきな生きざまが重たく哀切である。それにしても登場人物がもつパワーなのか小説の放つエネルギーなのか、読者をして芯から力づける2作品である。
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