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ヴォルスの頭陀袋から格言を取り出しつつ、サルトルは論を進める。
紹介される格言の最後は、『荘子』から。
《もう一度あの頭陀袋をあけて、ここにもうひとつ引用文を挿入しておこう。
「指が指でないという事実を示すために指を用いるのは、指が指でないという事実を示すために指ならざるものを用いるほど有効ではない。
馬が馬でないという事実を示すために白馬を用いるのは、馬が馬でないという事実を示すために馬ならざるものを用いるほど有効ではない」。
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「宇宙は一本の指である。すべてのものは一頭の馬である」。
これらの言葉をその作者荘子に従って理解しようと思う人びとにとって、それらはつねにかなり難解なものだ。だが、ヴォルスの作品と関連させて考えれば、その意味も明らかになるし、彼の作品を新たな光で照らし出すのだ。》――「指と指ならざるもの」
ヴォルス論のタイトル「指と指ならざるもの」が、『荘子』に由来することがここでわかる。
そして、いきなり難解です。
「指が指でないという事実」「馬が馬でないという事実」とはどういうことなのか。
指は指であり、馬は馬である。それが事実ではないのか。
引き続きサルトル「指と指ならざるもの」から。
《彼ほど自分自身に忠実だった人間はいないが、この人物ほど「私は一個の他者である*」ことを私にはっきり感じさせてくれた者はいない。彼は苦しんでいた。誰かが彼の思想やイメージを盗み、醜悪無惨なものと代えてしまったのだ。それらが彼の頭を満たし、眼のなかに積み重なっていた。いったいどこからやって来たのか? どんな幼年時代が立ち現れたのか? 私は知らぬ。彼が、自分が何かに操られていると感じていたこと以外は、何ひとつ確かではない。》
*はランボーの言葉
《クレーにとっては、世界は、尽きることなく作られ続けている。ヴォルスにとっては、世界はその内部にヴォルスを含んですでに作られている。前者は、活動的であり、«存在の計算者» であって、はるかな道を辿っておのれ自身に立ち戻る。彼は ‹他者› のうちにあってさえ彼自身だ。後者は、おのれを耐えている。つまり、彼は、おのれ自身の奥底においてさえ自己以外のものであって、ヴォルスの存在とは彼の他者存在なのだ。》
折あるごとに自身を他人として切り捨てたヘンリー・ミラー vs 他者性に苦しみ続けたヴォルス?
あるいは、ヴォルスもミラーと同じ境地に落ち着くことに?
《彼が頭陀袋をあけると、なかからさまざまな言葉が立ち現れた。自分の頭で見つけたものもあったが、たいていは、さまざまな書物から写しとったものだ。どの引用文のしたにも、必ず作者の名前をていねいに書きつけていたが、それらの言葉のあいだになんの区別もつけてはいなかった。なにはともかく、そこには出会いと選択とがあった。人間による思想との出会いや選択があったのか? そうではないのだ。彼の考えでは、事情は逆であった。同じ頃だが、ポンジュが私にこんなことを言った。「考えるんじゃないんだな。考えられるんだよ」。ヴォルスもこの考えを認めたことだろう。》――サルトル、同前
考えたのではない。考えられたのだ。
私が選んだのではない。むこうが私を選んだのだ。
格言が私を選んでやってきた。
そういうことだろう。
《彼には自分が、われわれ人類の一員たることが、いかにも不思議に思われた。「人の話では、おれは男と女から生まれた息子だそうだ。おどろき入ったことである」*。彼が仲間たちと接するときの礼儀正しさもなんだか怪しげなものだった。仲間たちより、自分の飼っている犬のほうが好きだった。もともとは、われわれだって、彼にとってなんの関心もない存在ではなかったのだろう。だが、途中で、何ものかが失われてしまったのだ。われわれはおのれの存在理由を忘れ去り、気ちがいじみた行動主義に身を投じてしまったのだ。もっとも彼は、例の礼儀正しさから、それをわれわれの «活動» と呼んでいた。》――サルトル「指と指ならざるもの」(粟津則雄訳)
*ヴォルスが自分のものとしたロートレアモンの句
《私は一九四五年にヴォルスと相識った。頭は禿げ、持物といえば酒びんに頭陀袋だった。その頭陀袋には、世界すなわち彼の関心が入っており、びんのなかには彼の死が詰めこまれていた。彼は以前は美しかったのだが、もうその頃はかつての面影はなかった。当時三十三歳だったが、そのまなざしに輝く若々しい悲しみのかげがなければ五十歳と思われたことだろう。誰もが――誰よりもまず彼自身が――とうてい長生きはできぬと思っていた。》――サルトル「指と指ならざるもの」(粟津則雄訳)
ヴォルス(1913-1951)は、おもにフランスで活動、放浪のうちに生涯を終えたドイツ人画家。
https://www.google.com/search?q=ヴォルス+芸術作品
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https://x.com/soignetongauche/status/1854331141526000095?s=61
https://filmarks.com/movies/118928/reviews/186781718
シナリオのTnTのネタバレレビュー・内容・結末 2024/11/26 18:57 シナリオ(2024年製作の映画) - DNAの章とMRIの章(聞いたことない音だけどあれはMRIの音なのかな)と分けられて命名されているが、お互い相関関係があり、MRIはDNAの変奏、リエデイットのような体を成す。 これが最期とは思えないいつも通りの聡明さを兼ねた映像の鋭さに、今回も圧倒された。これはゴダールの死への意識というよりも、やはりこの世を憂いたようなふうに私は思えた。自作「はなればなれに」のアルチュールの長すぎる死の歩行と、フッテージと思われる男のスローモーションの強烈な結びつきはなんだ?銃乱射のフッテージと、映画史に描かれた同じ銃撃のイメージたち。「上海から来た女」、そしてやはりイメージとしては強烈な「無防備都市」のシーン。その後自作で描かれた死のイメージたち。「最期の警告!」と彼は念押しして今までも言っていたのだ、それなのに今時代は悪い予感のする選択肢を進んでしているように思えてならない。 「馬が馬でないことを馬を用いて描き出すよりも、馬がいないこと(non-horse)を用いて馬がいないことを描き出すほうが効果的」? これが一番頭を悩ます、まず文章が長い。細切れの字幕を追うだけでは何を言わんとしてるかわからなかった。しかし、このNothingを用いて説明するというのは「ゴダールのリア王」あたりから彼が試みていることではある。無いことを用いて、そこにいないことを説明する。これは映画というNo-thing(物でない)イメージがその背後に何もないことを意味するということではないのか?それを朗読するゴダールの最期の姿、腹をでっぷり出して「OK!」と明るくカメラに合図した所で幕切れする。そこにはまさにイメージという無によって、彼の無が証明されるという悲劇的な構図が完成されている。あっけらかんとしたそのOKは微笑ましく可愛らしい、劇場では客席から笑みさえ漏れた。存在は、詰まるところ重要ではないのだ、映画にとって。そこにはしかしイメージがある、イメージの軽さが存在を超えていけるというオプティミスティックな思考があるからこそ彼はあんなに明るい。あれだって演じた姿か本当の姿なのかわからない。ただ最後まで希望を映画に持っていることはこの映画に確実に描画されている。 というか、この言葉もゴダールのものでなくサルトルからの引用とカンヌ映画祭ページには記されてるが、調べると白馬非馬論という、中国の公孫竜による思想が出てくる。詭弁の例えとして現代は用いられるらしいが、白いというイメージの概念と馬という物体としての概念というのは、まさにゴダールが説くイメージ論と結びつくのではないか?今作のポスターが馬でなく白馬なのは、こちらの公孫竜への言及な気がする。そして白馬にくっきり浮かぶ黒い眼はカメラアイとイメージを同期する。 同じ冒頭と少しずつ変化した2つの章は記憶の中で曖昧に溶解しており、正直1章目があまり思い出せない。忘却もまた映画につきものであるが、遺作において率先して曖昧にさせようという態度さえ窺える(ゴダールは章立てみたいな区切りの扱いがうまいよね、「アワーミュージック」とか)。さいそく「見た」という事実だけで映画と観客は共犯関係なのだ。見たからには、私は彼が提示したシナリオを続ける存在でありたいと思った。 66
その一人公孫竜は「白馬は馬に非ず」と言ったことで知られるが、次第に観念的な議論に陥り、中世ヨーロッパの普遍論争のような哲学的な発展は見られなかった。 2章3節 ...
『公孫龍子』では、「白馬非馬説」すなわち「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論や、「堅白論」すなわち「白くて固い石は手で触っているときには白いということは解らず、目で見ているときには硬いということが解らない。すなわち、白いという概念と硬いという概念は両立しない」という論などを説いている。
『韓非子』外儲説左上篇では、兒説という人物が白馬に乗って関所を通る際、「白馬非馬説」を用いて馬の通行税を免れようとするものの、役人が頑として聞かず、結局は税を支払ったという。別の書物では、公孫龍も同じようなことをしたという[8][9](『白孔六帖』巻9所引の『新論』など)。
『史記』平原君虞卿列伝によれば、陰陽家の鄒衍が趙に来て、平原君の面前で「白馬非馬説」などを無用な学説として非難し、「至道」の説を唱えてからは、平原君の寵愛を失い、趙を去ることになったという[10]。その後の行方は知れない[4]。
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