「ゴダールは、最後まで完全に明晰な人だったのだろうと思います」10/30(水)トークショー『Scénarios & Exposé du film annonce du film "Scénario"』
10/30(水)TIFFシリーズTIFFシリーズ特別上映『』上映後に、堀 潤之さん(映画評論家)、井之脇 海さん(俳優)をお迎えし、トークショーが行われました。
アンスティチュ・フランセ(以下、):それでは早速ゲストのお2人にご登壇いただきたいと思います。皆様、大きな拍手でお迎えください。
俳優の井之脇海さんは、ELLEオンラインで世界の映画人にインタビューをするシリーズ「CINEMA GREET」を連載中で、またジャン・リュック・ゴダール(以下、ゴダール)のファンということで、来ていただきました。 そして、映画研究者で特にゴダールの作品に造詣の深い関西大学文学部教授の堀 潤之さんです。この『Scénarios & Exposé du film annonce du film "Scénario"』(以下、『Scénario』)の日本語訳も担当していらっしゃいます。
まず、井之脇さんへの質問ですが、ゴダールがお好きだということですが、ゴダールとの出会い、 ゴダールとの関わりについて少しお話いただけますか。
(以下、):僕は日本大学芸術学部というところで映画を学んでいて、 元々映画が好きで色々見ていたのですが、授業でゴダールの『軽蔑』を初めて観ました。授業では、映画の中での色合いがどうした意味をもたらすのかというテーマで、 それによって役者の心情であったり、関係値であったりみたいなことを表しているというのを授業で知りました。その授業も面白かったのですが、ただなんとなく観ているだけで、スクリーンの中が瑞々しく動いているのがすごいなと思ったのが最初の出会いです。
その後、大学の図書館であったり、レンタルしたりして、ゴダールを見て追っかけてきたという感じですね。
:ありがとうございます。今日観ていただいた作品について、どのようにこの作品が生まれたのかを堀さんに解説していただきたいのですが、その前に、ゴダールが亡くなられたのがほぼ2年前の2022年の9月13日です。ゴダールが亡くなったことを知った時には、何か思い浮かんだ言葉はございましたか。
(以下、):「ついにその日が来たか」という感じですね。ゴダールも高齢でしたので、いつかゴダールがいなくなる時がやってくることを、ある時期からみんな想像していたと思います。
:心の準備はしていたと?
:皆さんそうだったと思うんです。中には、マノエル・ド・オリヴェイラ監督みたいに100歳を越えて生きる人もいますが、ついにその日が来てしまったという風に思いました。その意味ではさほど驚きはないといいますか、いずれ絶対来るとは思っていました。
:亡くなる前に『イメージの本』という長編最後の作品が公開されて、亡くなられた後には、『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』という作品が日本でも2月に公開されました。その後にも実は作品がつくられており、今日見ていただいた作品が日本でプレミアを迎えました。フランスではカンヌでお披露目があり、それ以降、あまり上映されていませんが、この作品のタッチについて堀さんから解説をお願いします。
:皆さんご存知だと思いますが、ゴダールは2022年の9月13日に自殺ほう助という形で亡くなりました。 スイスでは医師による自殺ほう助というのが認められていて、ゴダールも、実は2015年ぐらいから自殺ほう助を支援する団体「Exit」に所属していたんです。かなり前から、自殺ほう助という手段で自らの生命に別れを告げることを考えていただろうと言われており、9月3日ぐらいに決断をして、その10日後に日が決まって処方された薬を飲み、自らの意思で亡くなりました。
2018年には『イメージの本』で最後の長編作品が出来て、それ以降、2つの企画にずっと取り組んでいたと言われています。それが『奇妙な戦争』と今回の『Scénario』というものです。
『奇妙な戦争』は20分の短編作品で、今年の2月には日本でも公開され、12月3日にはブルーレイディスクも出る予定です。いずれにしても、2018年に『イメージの本』の映画を完成させた後、ゴダールは、今日、まさに皆さんご覧になったようなノートを何冊も作っていたようなんです。『遺言/奇妙な戦争』に関しては少なくとも1冊はあり、『Scénario』についても、少なくとも1冊はあります。とにかく、絵と文章をコラージュするというような形で、色々構想を練って残っていたわけです。
『奇妙な戦争』という20分の短編をご覧になった方もいらっしゃると思うのですが、『アワーミュージック』 というゴダールの作品の抜粋が動画像として出てきますが、静止画で40ページほどある冊子を、ほとんどそのまま撮影し20分の短編作品にしたのが『奇妙な戦争』なんですね。
今回、2つで1つの作品ではありますが、2作品見ていただいて、 ここでは、『奇妙な戦争』という20分の短編と似たものを『Scénario』に関しても作ろうとしており、そのメイキングが後半部分の映像です。つまり、この冊子を基に、予告編と言ってましたが、何らかの短編を作るんだと。そこで、どうやって撮るのかということを、ゴダールの晩年の右腕である照明のジャン=ポール・バタッジアと、カメラを持っていたファブリス・アラーニョの2人に説明しているというのが、後半の映像なんです。
少しややこしいのは、前半に見た18分の『Scénarios』というのは、後半のメイキング映像で制作されていた作品なのかというと、違うんですよね。全く別のもの。どこかで関連しているとは思うのですが、基本的には別のものを、おそらく死を決意した後に急遽思いついて。記録には残ってないのですが、ファブリス・アラーニョたちにこうしろと説明してできたのが、前半に見ていただいた18分の『Scénario』という作品で、どちらも同じタイトルですが、中身は別の作品です。
:最初の『Scénario』は2部構成になっていて、最初は「DNA」、そして「MRI」という誰もが知っているものが出てきます。最初の部分は、ある意味同じ映像の繰り返しですよね。「DNA」と「MRI」というとどんな想像をされますか。
私もそんなに詳しく説明できないですが、「DNA」というのは、人間という存在を特徴づける生物的なものなわけですよね。ある意味、人が生まれるために必要なもの、発生というか。一方、「MRI」というのは、逆に人間の弱った部分を医療で、画像として見せるものです。多分劇中で聞こえている‶ビンビンビン″という音は、MRIの音なんですかね。
:そうだと思います。
:"発生"と"衰退"というか、2つの異なったベクトルの中で、『Scénario』が生まれてきているようなイメージがあるのですが、 井之脇さんは、最初の部分の『Scénario』については、どんな感想を持っておられますか。
:まさに坂本さんが仰ったことに近いことを感じていて。前半の繰り返す映像は、『DNA』というタイトルを踏まえると、生物がどんどん、どんどん受け継がれていく様に見えて。
後半の『MRI』の方は、色々な映画から映像を持ってきたり、ゴダール自身の過去の作品から映像を持ってくるなかで、その全部が死を連想させるような映像で。中でも『はなればなれに』の映像では、荒野を右か左に歩く人物が映っていて、死んでいく人と生きている人が同時に重なって映る姿が、ゴダールの死へのテーマ、反対に、生きることへのテーマのようなものが感じられるなと思っていました。
:やはり『Scénario』を18分通してみると、死を前にしたゴダールにしか撮りえないというような感じはするんですね。
今、井之脇さんが話題にしたシーンは、主人公が撃たれてのたうち回りながら、なかなか死なないという少しコミカルなシーンですよね。その時にゴダールの若い時の声でナレーションが入り、死んでいく時の想念というか、その時に思い浮かんだイメージが語られます。言ってみれば、18分の『Scénario』全体が、その『はなればなれに』のシーンをゴダール自身に即して全面的に展開したものという風にも読めると思うんです。 つまり、ゴダールはあの時に死ぬことを決意していて、あと数日でこの世界に別れるということを決めた人ということなんですが。まさに、死に移行しようとしたものを映像化している。こうした解釈は、非常に素朴ですが最初の解釈としてはあると思います。(井之脇さんが)仰ったように色々な映画からの死のイメージが連鎖しており、 そこはまた色々と感慨深いものがあると思います。
一方、一番最初に男女が声を合わせて謎めいた文句を話すというシーンもあり、それは『言葉の力』という作品からの引用ですが、そもそもは、A・E・ヴァンヴォ―クトの「防衛」という短編小説の冒頭のオマージュなんです。物語としては、古びた惑星でスイッチが入る、それはつまり、防衛装置が起動するというイメージで物語が始まるんです。それをゴダールの作品に置き換えて考えてみると、全体として、「死」というテーマがありつつ、スイッチが入るということはまさに「生」が立ち上がる瞬間ですので、これから始まる生のイメージも垣間見えると思いました。
:先ほど井之脇さんがおっしゃっていた、砂漠の上を歩いていく男性の画像っていうのは、実はテオドール・モノという博物学者で探検家の人物で、ゴダールの母方の親戚なので、ゴダールにとって精神的なつながりがあるのではということも言われています。
:そうですね、テオドール・モノって人類学者みたいな人で、ゴダールの遠戚に当たる人ですね。ゴダールのお母さんは、オディール・モノというので…
:母親と同じ名前を持っている存在ということですよね。
:そうです。ただ、それがどういう経緯でああいった場面が出てきたのかというのは、あまりわからないですね。
:最後の、ベッドの上のゴダールのシーンについてはどう思われますか?
:あれはそもそも、亡くなる前日なんですよね?
:そうですね。亡くなる前日に撮ったという、そうしたすごい瞬間の映像ということですね。
:僕はそれを堀先生から聞いた上で観ていたので、今日改めて本当に胸にくるものがあって。やっぱりあの最後のシーンというのは、自分でオーケーを出す、良しというところまでをフィルムに残そうとした彼は、 映画の中に生き続けている気がします。ゴダールは、どこか完璧主義のようでいて、結構ちゃんと夢を見てるんだろうなと思いました。それと、この順番で上映してくださったことで、最後の日から見始めて、その後に、少し前の構想を練っている時間の彼を見ることができて。 こうして巻き戻しながら、彼を見てみると、すごく豊かに見えるんだろうな、ということを考えながら観ていました。
:そうですね、いろいろ身体を晒すっていうようなところもグッと来ますが、少しうんちくめいたことを言わせていただくと…あれは、サルトルのヴォルス論なんですよ。その一節を読むということで、もともとは老荘思想の存在論の文句をサルトルが引用しているのを、引用と知ってか知らずか、ゴダールが読んでいるんです。正直、聞いていてもよくわからないとは思うんですが、要素としては‶指″と‶馬″そして、‶論理″という3つの要素があるんですね。
‶指″に関してはこだわっていて、後半にも5本の指が出てきていて、手で考えるということをモンタージュするかたちで指は登場します。‶馬″に関しても、もおそらく映画好きであれば好きにならざるを得ないっていうところもあり、出てきているんだろうと思います。分かったようで分からない‶論理″にも、ゴダールは惹かれていたのではないかなと思います。
ゴダールは、最後まで完全に明晰な人だったのだろうと思います。 完全に明晰なまま、この世に別れを告げる、そうした決断をしたんだなと思いました。
:「フーガの技法」が、『新ドイツ零年』には出てきます。フーガ(fugue)というのは、「逃避」という意味ですが、ゴダールは自分から去っていくことを選んだんですね。裸であえて自分の肌を晒していくことは、誕生に戻るというか裸形に戻るようなことに思えて。堀さんが仰ったように、ゴダールが最後に映画を作るメイキングの中で、「こうだ、ああだ」と言いながら、手を動かしてハサミで切ったりしている様子をこんなに具体的に見られるなんて、なんて(素敵な)プレゼントなんだろうという風に思いました。
「あれ、ページ間違えちゃった?」と言っているシーンもありましたが、そのあたりはどうでしたか?
井之脇さん:可愛いですよね(笑)いつまでも少年のようで、やりたいことがあって、熱中しすぎて記憶も曖昧になりながらやっているんでしょうけど。
少し話がそれてしまいますが、やはり構想では黒を入れるか入れないかにすごくこだわっていて、そのわちゃわちゃしていたシーンもそうしたところだと思いますが。僕たちは、モンタージュとしての映画を見慣れているので、映画の力として、続いていくものを関連づけて想像してしまいますが、黒を入れることで分断する。本はページをめくることで、ある種分断されるようなものを、映像になった時にどう表現していくか、といったことを最後まで考えていたんだな、新しいことを模索してたんだなゴダールは、という風に思った一連でした。
坂本さん:この作品は、制作にも携わっているRoadsteadという配信プラットフォームで、予約式の限定発売という実験的な形で配信されるということです。ゴダールは映画の形態に関しても、どのように人間を見せるかということでずっと探求し続けてきた1人だと思います。堀さんはこの限定配信についてどのように考えますか。
堀さん:ゴダールは『ゴダール・ソシアリスム』という映画も撮っているくらいで、知的財産権などに基本的には反対立場なので、その観点からすると、Roadsteadで知的財産権をきちんと守りながら、新しい方式で映画を普及させていくことに関しては、ゴダール的かと言われれば微妙なところではありますが。それでも、ゴダールだって当然資本主義社会のなかで生きていかなければならなかったわけで、ゴダール自身も、映画が商品であり興行しなくてはならないということはずっと考えてきた人なんですね。その意味では、Roadsteadという方式も興味は示したんじゃないかなという風に思います。
ともかく、21世紀に入ってから『ゴダール・ソシアリスム』も、2010年の劇場公開の1・2日前に、まずにVOD(ビデオオンデマンド)で、公開してみようということも試みていました。当時は、VODはあまりよく思われていなかったので、そうした意味では、新しいものに飛びつき、試してみる人ではあったんです。
例えば、2018年の『イメージの本』は結局普通に公開されませんでした。 映画館での興行ではなく、家のような親密な場所を作って上映したり、あるいは、ガザなどでも上映していたんです。映画の興行的な支配を揺るがすようなかたちで自分の作品を流通させたいという願望はずっと持っていたんです。
このRoadsteadという仕組みでは、2500ユーロ(約40万円)と聞いて皆さんもびっくりしたと思いますが、2500ユーロを払わないと観られないわけではなく、作品を所有したい人がいれば2500ユーロを払って、その他はより廉価でレンタルして観ることができるので、そうした仕組みも、きっと面白いと思ったんじゃないかと思います。
坂本さん:ゴダールは他界されましたが、、今日ゴダールの新たな作品に触れたことで、遺されたものをいかに見せていくか、見ていくかということなど、様々な問いを私たちに遺してくれたことを、感じられたのではないかと思います。
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