2024年11月26日火曜日

「アラジン」とキリスト教の関係~アラブ人キリスト教徒たちに想いを馳せたり千夜一夜物語の宗教性を紹介したりする~ | いつかみ聖書解説

「アラジン」とキリスト教の関係~アラブ人キリスト教徒たちに想いを馳せたり千夜一夜物語の宗教性を紹介したりする~ | いつかみ聖書解説

「アラジン」とキリスト教の関係~アラブ人キリスト教徒たちに想いを馳せたり千夜一夜物語の宗教性を紹介したりする~

以下、当コラムライターによる導入があるので、早々に本題に飛びたい以下の目次を活用していただきたい。

…主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたを置いて、誰のところへ行きましょう…

導入

筆者は1989年生まれで、ディズニーアニメ「アラジン」は、知らない間に家にビデオが置かれてあり、愛好アニメのひとつだった。

このたび実写版を2023年にようやく視聴することができ、なんと意外にもディズニーアニメ実写化作品のなかで暫定1位のお気に入りになりそうだと感じている。

(ディズニー実写作品で視聴済なのは「アリス・イン・ワンダーランド」「シンデレラ」「美女と野獣」「リトル・マーメイド」である)

そこで、ディズニーの「アラジン」についてコラムを書いてみたいとうっすら思いついたので、手始めに「アラジン」について調べてみることにした。

その中で「アラジン」物語の出自にはキリスト教徒が大きく関わっていることを知った。

つまり、現代日本人である私が「アラジン」の物語を楽しめることソレ自体が福音と構造を共にしているのだ、と認識した。

あおい

あおい

(※このコラムを書いている人間はキリスト教・プロテスタント・福音派の信仰の流れに身を置いています)

ここでは、調べる中で知って興味深く思ったことを、筆者の興味に沿って並べてみたいと思う。もちろん、これを読まれている方は筆者の興味に興味を持つ必要はない。

こんなどこの土の塵とも知れない人間の書いたコラムは早々に閉じて、本を読むとかに可処分時間を宛てたほうがいいであろうことは、申し添えておきたいと思う。

「アラジン」とキリスト教の関係とは?

「アラジン」は、アントワーヌ・ガランというフランス人東洋学者によって有名になった物語、である。そしてガランに「アラジン」を教えたのは東方教会系のキリスト教修道僧(西尾哲夫「パリのアラブ人ー「アラジン」を伝えた人」p.14)とのことである。

ガランはアレッポ出身のハンナ・ディアブというマロン派キリスト教徒から「アラジン」を1709年に聞き、そのあとでハンナ・ディアブはこれを筆記してガランに渡し、ガランはこれをフランス語に訳した。

「千夜一夜物語と中東文化」前嶋信次著 杉田英明編(平凡社,2000年) 池田修による補足 p.471normal

※ハンナ・ディアブは〈ハンナ・ディヤーブ〉と書かれることもある。

そして、少々時を経て、「アラジン」のアラビア語版がとあるキリスト教司祭によって作られる。

ところが、「アラジン」のアラビア語版は、1787年に、シリア人キリスト教司祭ディオニシウス・シャウィシュ、通称ドム・デニス・シャビなる者により、14世紀シリア系写本の欠損部分を補うものとしてその写本が作られた。

「千夜一夜物語と中東文化」前嶋信次著 杉田英明編(平凡社,2000年) 池田修による補足p.471normal

ここでも『アラブのキリスト教徒』という背景を持つ人物が姿を現すワケである。

「アラジン」アラビア語写本捏造の是非については、もはや研究者でもない現代日本人のシロウトにとって何も言えることはないが、

たくみ

たくみ

すげー雑ではあるけど、『アラブのキリスト教徒』たちが今日「アラジン」と見なされる系列の物語が有名になったであろうポイントに立っている、くらいは言ってよさそう…(是非はまた別問題として)

おそらくガラン自身もカトリックかプロテスタントかは知らないがキリスト教と呼ばれる宗教に帰依していただろう(※知らんけど)

これらの人々の行為がなければ、現代日本人である私が「アラジン」の物語を享受した世界線はなかったかもしれない。(その世界線にはその世界線で別の祝福があったことも十分考えられるので、それはそれとして申し添えておくけれど。)

というか、「アラジン」物語の出自が不明瞭になるほど、この〈アラブ人キリスト教徒ハンナ・ディアブ〉が、この物語をガランに語ったり書いたりしたのはどんな背景によるものだったのか、気になる。

このあたりのリサーチは、現状の筆者の手には余ることがわかった。もし調べる機会に恵まれたらもう少し深堀してみたい案件ではあるが、このコラムでは見送ることにする。

ガラン自身は「アラジン」を「アラビアン・ナイト」の一部だと思って生涯を閉じたとは思うが、今となってはもはや「千夜一夜」よりも、そこで語られているどの物語よりも「アラジン」がメディアミックスされているのが実際のところだと思われる。

この状況をガランやディヤーブが見たら、どう思うのだろうか(現代を生きるアブラハム宗教の徒としては、天国でお会いしたらお伺いしてみたい案件のひとつである。コトバ通じるんかいな。天国観も違ってそうやな。)

「アラジン」の宗教性&「アラビアン・ナイト」の宗教性

…ということで、「アラジン」がアラビアンナイトに組み込まれうる物語かは、もはや死んでからしからわからないところまで来ていると認識した。(※現代日本人アブラハム宗教者の世界観による発言。)

ということで、ここでは「アラジン」における宗教性の話と「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト/アルフ・ライラ・ワ・ライラ)」における、テキストから読める宗教性の話をちょこっと紹介してみたい。

あおい

あおい

前嶋氏は、ガランが「アラジン」などの物語をはじめに続々と翻訳をしたことを見て、「千夜一夜物語」そのものは当時の宗教的な物語ではなく、気軽な物語だとされていますので(前嶋p.42)

それを念頭に置いて、ちょっとだけ紹介していきたい。

「アラジン」の宗教性

※この段落は「アラジン」(ディクソン編 中野好夫訳)をちょっと読んだだけのド素人が思いつきで書いているだけの段落です。

ディクソン編/中野好夫訳による「アラビアン・ナイト上」の「アラジンと魔法のランプ」では、

アラジンが魔法使いの姦計に落ちて穴ぐらに閉じ込められた際『神に祈ったことが功を奏して魔人が出現し、助かった』という描写が挿入されていた。

二日間、アラジンはこんな状態で、飲まず食わずにいましたが、三日目になると、いよいよ死はまぬかれぬものと覚悟を決めました。あきらめ切った気持ちで、両手を合わせ、「いまはもう権能(ちから)をもっていらっしゃるのは、高きにいます大いなる神さまだけです」と心から祈りました。ところが、両手を合わせた拍子に、われしらず魔法使いがはめてくれた指輪をこすりました。もちろんアラジンは、指輪の魔力など、少しも知りません。だが、そのとたんに、これはまたおそろしい顔をした、ものすごいノッポの魔物が、むくむくと土の中から現れました。

ディクソン編 中野好夫「アラビアン・ナイト 上」(岩波少年文庫 1959年)pp.133-134normal

ここまで「屈指のロクデナシ」として描かれているアラジンだが、『神にすがる心』は残っているような、そんな感じで描かれる。

アラジンは、とても生きては帰れまいと思った地上に、もう一度帰ることのできたよろこびを、まず神さまに感謝すると、大急ぎで家路につきました。

ディクソン編 中野好夫「アラビアン・ナイト 上」(岩波少年文庫 1959年)p.135normal

(↑ 「助かってからもお礼を忘れない心」みたいなものへの目くばせだろうか)

こういう描写は、ディズニー版の「アラジン」にはほとんどみられない描写なので、新鮮だった。

また、こちらは、アラジンの母親の「魔法使い」への忌避感が見えるくだりである。

ですから、ひどい魔法使いの裏切りを知ったときには、とうとうだまっていられなくなり、ほんとににくらしいのはあいつだ、と思わず怒りをこめてさけびました。そしてむすこの話が終わると、あの腹黒いぺてん師を、口をきわめてののしりつづけました。裏切者、野蛮人、人殺し、詐欺師、魔法使い、そして人間をほろぼす的だとまで、口ぎたない言葉をなげつけました。「アラジンや、むろん魔法使いだよ。魔法使いというのはね、この世の害毒、禍いのもとで、魔術や妖術をつかって、ちゃんと悪魔と心を合わしているんだからね。ほんとにありがたいことだよ、お前なんぞも、まったく神さまのおかげで、あいつの悪だくみから助かったんだからねえ。もしお前があのお祈りをして、神さまにお助けをお願いしていなかったら、いまごろはもう死んでいたにちがいない」

ディクソン編 中野好夫「アラビアン・ナイト 上」(岩波少年文庫 1959年)p.138normal

↓しかし、当のアラジンは母親の心配ほどは「魔物の力」を忌避してはいない。

「おかあさんの言うとことを聞いてくれるなら、いっしょにその指輪も手ばなして、もう二度と魔物などに関係しないでもらいたいよ、予言者さまがおっしゃるとおり、悪魔にちがいないんだからね」
アラジンは答えた。「おかあさん、せっかくの忠告だけど、このランプは、ぼくにもおかあさんにも、とても役に立つんだから、そうかんたんには売れないよ。ランプのおかげで、どんなごちそうにありつけたか、おかあさんだって見たじゃないか。……

ディクソン編 中野好夫「アラビアン・ナイト 上」(岩波少年文庫 1959年)pp143-144normal

この物語自体は、「魔物の力」でハッピーエンドを迎える物語である。気軽な物語、という感じがこういうところに出ているなと思う。

あ、それと、アコギな商売をする商人が「ユダヤ人」として描かれていた。(イスラム世界とか地中海世界の民話あるある、というカンジがある)

「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト/アルフ・ライラ・ワ・ライラ)」の宗教性

※この段落は「アラビアンナイト」の受容の話を紹介しているのであり、「アラジン」物語の話をしているのではないことにご注意ください。

せっかくなので「千夜一夜物語」の宗教性についても軽く紹介してみたい。

『千夜一夜』の巻頭にはつぎのような敬虔な言葉が記してある。

  慈悲の神 慈愛の神 アッラーの御名によりて

アッラーよ称えられていませ、世界の御あるじよ!また祝福と平安とが神の使徒たちのおさ、われらの長、われらの主なるムハンマドとそのご一家のうえにありまするように。永遠にかわることなき祝福と平安とが、お裁きのあるその日まで続きますように!
さてつぎに、先人たちの行跡は後人たちへの教訓となっている。すなわち世人は、他の人びとの上におこったことどもを見ては身の戒めとし、過ぎし世の諸民族の歴史、およびそれらの民にふりかかったことどもを見ては各自の行いを慎むのである。されば先人の歴史をもって後進の教訓となしたまいし御方(アッラー)よ、褒めたたえられておわしませ。さて、ここに千夜一夜と呼ばれる物語集はかかる規範のひとつで、その中には不可思議な物語や寓話などが含まれている。

 つまりアッラーが人の子たちの処世訓をこの中に豊かに示したもうたのだとしている点、はなはだ宗教的であり、いかにもイスラム的である。

「千夜一夜物語と中東文化」前嶋信次著 杉田英明編(平凡社,2000年)pp.37-38normal

『千夜一夜』の海には、インドの、イランの、古代メソポタミアの、古代エジプトの、そして古いアラビアの、イスラエルの民の、などなど、もろもろの説話の流れがはいっている。しかし、それらはすべて、中世のアラブ世界のうちで、そこのイスラム思想によって丹念に染め上げられた海でもある。

「千夜一夜物語と中東文化」前嶋信次著 杉田英明編(平凡社,2000年)pp.64normal

しかし、『千夜一夜』が都市に住む一般民衆の間で育成されたということは確かと思われる。同じ都市に住む人々でも、イスラム諸学によく通じたウラマー(学識者)の階層は、この物語に無関心でいるか、または、しばしば白眼視して来た形跡が認められる。いわゆる士君子が公然ととりあげるべきものではないという風に考えていたらしい。
 これに対し、この物語集を育て、愛し、楽しんできた街頭の民衆はきどらず、素直で、またイスラムという教に対しても従順であった。ムスリムの家に生まれ、幼時からコーランを教わり、毎日、礼拝し、毎年のラマダーン月には斎戒し、断食し、メッカ巡礼実現を生涯の目標にし、貧者への喜捨を怠らず、ムスリムであることに心から満足して一生を送り、そして、やがてアッラーのみもとに帰ってゆくことを信じて生涯を終っていく人々なのであった。そういう善男善女の安心立命の生き方がつぶさにこの物語集中にえがき出されている。

「千夜一夜物語と中東文化」前嶋信次著 杉田英明編(平凡社,2000年)pp.65-66normal

ということで、「千夜一夜物語」からイスラム世界の何かを拾い上げるのは難しそうだ。

ガラン世代のキリスト教徒たちが「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト/アルフ・ライラ・ワ・ライラ)」をどのように受容したかなど

※この段落は「アラビアンナイト」の受容の話を紹介しているのであり、「アラジン」物語の話をしているのではないことにご注意ください。

実はこのころ、ガラン写本は彼のすぐそばにありました。1680年にはトリポリ(レバノン)在住のキリスト教徒がガラン写本を所持していたことがわかったのです。ガランはその少し前にトリポリを訪問しているのですが、ガラン写本は私家版としてムスリムやキリスト教徒の家庭内で大切に伝えられていたらしく、図書館や書店には出回ってなかったようです。

西尾哲夫normal

ガランが最初のほうに翻訳した「千夜一夜物語」の写本は、もともとムスリムやキリスト教徒たちの家で大切にされていたようである。ある一定の物語群までは、特に非イスラムへの忌避感などもないものがほとんどらしいし(前嶋,)、キリスト教徒たちのなかでも愛され、大事にされていた物語集だったのだろう(知らんけど…)

ディズニー「アラジン」におけるキリスト教要素

ここからはすごく簡素にディズニー作品「アラジン」におけるキリスト教要素と呼べそうなものを羅列してみる。

アラジン役「メナ・マスード」もキリスト教徒(東方教会・コプト正教会)らしい

一家でコプト正教会のキリスト教を信仰しているメナは、マーカムにあるキリスト教の高校(St. Brother André Catholic High School)に進学。科学が得意で、高校在学中に正規の大学の科目を受講できるアドバンストプレイスメントに参加できるほど成績優秀だった。

初耳だらけ!メナ・マスード、無名からアラジン抜擢までの仰天ゴシップ(MINE)normal

アラジン役に選ばれた心境については「やっとテロリストではない役ができた」と表現。今後のハリウッドにおける"少数派の"人たちの成功例になれれば思っている。

初耳だらけ!メナ・マスード、無名からアラジン抜擢までの仰天ゴシップ(MINE)normal

なんと、私が「アラジン」に寄り道したきっかけとなった〈アラブイスラム世界)のキリスト教徒〉の申し子だった~…

▽コプト正教会について

私たち日本人の多くはキリスト教はヨーロッパやアメリカの宗教で、キリスト教にはローマ・カトリックとプロテスタントしかないと思っています。しかしその一方で、キリスト教は西はエジプトやエチオピア、中東ではレバノン、シリア、イラク、そして南インドに至る幅広い地域で信仰されています。彼ら(私を含めて)は「正教」を信じています。私たちのコプト正教会は、そうした東方で信じられているさまざまな教会の一つです。

()

私たちの教会は、ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会とは著しく異なる典礼を使っていますが、(旧約聖書に若干の追加がありますが)ローマ・カトリックと同じ聖書を使い、聖なる三位一体を信じ、キリストによる贖いを信じています。

「私の教会:コプト正教会」Amor陽だまりの丘トマス矢野達寛(コプト正教会助祭)

ジャスミン役「ナオミ・スコット」もクリスチャン(西方教会・プロテスタント)とのこと

「アラジン キリスト教」というキーワードで調べた際にこのようなものが出てきたので添えておく。

ディスニー実写版「アラジン」でヒロイン・ジャスミンを演じた〈ナオミ・スコット〉は敬虔なクリスチャンであるとのこと。

牧師を両親に持ち、敬けんなクリスチャンで「信仰は私自身の一部」と公言しているナオミは、キリスト教系のチャリティ団体「Compassion UK」のアンバサダーを務めている。世界各地で貧困に苦しむ家族を支援し、子どもの教育や医療、経済支援にあたる団体で、ナオミ自身もルワンダのキガリを訪問したことも。

インスタグラムにルワンダで出会った現地の若い母親の女性との写真をアップし、貧困の中で子育てをする女性や子どもたちへの支援や若い女性たちに自らの声を持つことの重要性を訴える長文メッセージを投稿した。

"願い"を自ら叶えた『アラジン』の新ヒロイン、ナオミ・スコット VOGUE JAPANnormal

両親が牧師ということは、彼女の名前の源流にはルツ記のナオミがいるのだろう。

▽「ナオミ」について

ユダの地ベツレヘムからモアブの地に移り住んだナオミと言う女性がいました。

ナオミには夫と2人の息子がいました。

息子たちはモアブの女性と結婚し、その一人がルツです。

10年後ナオミの夫と二人の息子たちは亡くなります。

ナオミは悲しみの中、

息子の妻たちを実家に戻そうとしますが、

ルツは年老いたナオミが心配で残りました。

ナオミは故郷のベツレヘムに帰ることを決心し、

ルツもついて行きます。

横浜英和学院 チャペルだより「旧約聖書の女性 ルツ」より

「ウォルト・ディズニー」自身は会衆派のキリスト教徒ではある

「私がまだ幼い頃から、神に信頼してインスピレーションが与えられることを祈るように、両親は教えてくれました。そのことに私は感謝しています。宗教が日常生活で果たすべき役割について、言葉ではなく行動で示すことを私は心がけています。(元が寓話であれ実話であれ)それぞれの作品において、最高の道徳観や価値観を表現することを常に意識してきました。……聖句についての学びから、そして私の子ども向けエンターテイメント業界でのキャリアを通して、私はその重要性を教えられたのです。私がこれまで、すべての年齢層の観客に対して、スクリーンで深みのあるエンターテイメントを提供することができた秘訣の大部分は、会衆派信徒としての生い立ち、そして祈る習慣を続けてきたことによります」

クリスチャンプレスによる日本語訳「【米クリスチャニティ・トゥデイ】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(後編)」normal

ウォルト・ディスニーの存命年は1901年~1966年。

ディズニーアニメ「アラジン」の公開は1992年。ウォルトの信仰によるアニメの信念が「アラジン」にどれくらい反映されているかは知るところではないし、ディズニーはウォルトの手によってのみ成り立つブランドではない。

けれど、それを含めたすべての歴史の延長上に、現代日本人である私が「アラジン」を愉しむ世界線がある…とすれば、ガランに感謝、ウォルトに感謝、無数の折り重なる糸に感謝、神に賛美、である。

ソロモン王、魔法の絨毯乗ってたってよ

「千夜一夜物語」のアラジンは魔法の絨毯に乗らないが、他の説話においてこの魔法の絨毯が登場するらしい。

ガラン版→「アフマッド王子と妖精パリ・バヌー」
マルドリュス版→「ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語」

つまり、「アラジン」に魔法の絨毯を登場させたのはディズニー版の演出ということである。

そしてこの魔法の絨毯、イスラム世界の説話ではソロモン(スライマーン・ビン・ダウード)も扱っていたという伝承があるらしい。

ソロモン王は旧約聖書(≒タナッハ)にも登場するので日本語話者系キリスト教徒のなかでも有名な存在ではあるが、ユダヤの伝承やイスラムの伝承の中で彩り豊かに語られてることは、カトリック・プロテスタント共にあまり知られていない印象がある。

そういう伝承が読めたらまた紹介してみたい。(ユダヤ系キリスト教徒とかアラブ系キリスト教徒の伝承となるとまた違ってるんだろうなぁ…)

古代イスラエルのソロモン王の魔法の絨毯は絹製で緑色の生地に金色の横糸が入っていたという記述がある。縦横60マイル(約90km)という巨大なものであり、王が絨毯に座ると風を捕まえて浮かび上がり、ダマスカスで朝食をとったあとにメディア(現在のイランやアフガニスタン)で夕食をとることができたという。ソロモン王は風を見事に操り目的地に向かい、時には魔法の絨毯をひと振りするだけで4万人もの人を死に至らしめた。また飛行中は鳥が絨毯の上空を飛び日差しからソロモン王を守ったという。

ウィキペディア2024/6/6日本時間13:10時点の情報normal

…アラジンがジャスミンを口説くのに使ったごとく、ソロモンの妃の何人かはマジックカーペットの上で口説かれたに違いない[要出典/妄想とも言う]

「手放すから最良のものが得られる」という構造、世界観(考え中)

…考え中…

アラジンが最後の願いを自分のために使わず、ジーニーを自由にするために使った。この展開から得られる栄養と、現代日本人キリスト教徒である私が見ているキリスト教の提示する世界観は共鳴する。まだ相対化してない話ではあるので詳細は省く。

現代日本人としキリスト教の世界観の採用が、私の「アラジン」の読みをより芳醇で魅力的にさせた、←コレは言っていい。

むすびと雑感~「アラブ人キリスト教徒」に興味を持った理由と、伝承とどう付き合うか~

ディズニー実写版「アラジン」に関しては、「アラビアン・ナイト」が『千夜一夜物語のフェミニズム性の延長物語としての実写版』という話や、実写版で突如爆誕した異類婚姻譚要素など、気になった点が少々あるので別個のコラムにまとめてみたいと思っている。

それはそれとして。

私自身は、「アラビアン・ナイト」をこれ以上深堀りする予定はない。私自身が深くコミットする伝承があるとしたら、それは日本の伝承の海である。しかし、「アラジン」に寄り道してこのようなコラムを書いたのは、ほかでもない〈アラブのキリスト教徒〉の存在がひっかかったからである。

アラブ人キリスト教徒の研究者である菅瀬昌子氏の論文にこんなくだりがあった。

アラブ人キリスト教徒のうち、メルキト派カトリック信徒とマロン派カトリック信徒は、ローマ・カトリック傘下に属するがために、ギリシャ正教徒よりも欧米への憧れが強い。ギリシャ正教徒やイスラーム教徒への対抗意識から、欧米により近い宗派の信徒であることを誇りとし、ときにアラブ人であると名乗ることをためらう傾向すらみられる[菅瀬2005: 132]。彼らの内面では常に、アラブ人としてのアイデンティティと、キリスト教徒としてのアイデンティティの相剋が繰り返されているのである7)。しかしながら、宗教・宗派の別を問わず、東地中海地方すべてのアラブ人に共通する食物である麦粥にキリスト教的意味あいを持たせ、それを誇ることは、すなわち彼らのなかで乖離したキリスト教徒としてのアイデンティティと、アラブ人としてのアイデンティティを結びあわせ、親和性を持たせようとする行為といえはしないだろうか。キリスト教徒たちが誇らしげに麦粥をふるまうとき、そこにはイスラーム教徒に勝る存在でありたいという、キリスト教徒としての自尊心と、彼らと同じアラブ人としてのアイデンティティを抱いていたいという渇望がこめられているのである。

人は小麦にて生かされる
―麦粥にみる、アラブ人キリスト教徒のアイデンティティの表象―
菅瀬晶子,2007
normal

(※マーカーは当コラムライターによるもの)

菅瀬氏は「食文化」を中心に研究されていて、それは私の直接的な興味からはズレる。しかし、私は菅瀬氏がこのように表現する営みの方法論(?)には興味がある…と思う。

私は、言ってしまえば「日本的なもの」にキリスト教的意味合いを持たせ、それを誇ることが私のアイデンティティになるのではないかと思って、それで、日本の民間説話を漁ってみたいと思っている。たぶん。

と、いうことで、その道すがら出会った「アラジン」を語った存在について、ちょっと寄り道してみた。このコラムはここで御終いにしたい。

(結びの句/始)髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聴きたくて、こんなところまで来てしまった。(結びの句/終)

おまけ~私の天国には麻生かほ里さんの歌が流れている予定(未定)~

このコラムライターは、ディズニーアニメ日本語版にてジャスミンの声優をされた〈麻生かほ里〉さんがものすごく好きである。

個人的な世界観の話になって恐縮だが、私が死んで天国に行ったら麻生かほ里さんの歌が流れている予定なのである(※他の多くの現代日本人キリスト教徒にも理解してもらえなさそうな発言である)

そう……実写版で新しく組み込まれた楽曲「スピーチレス~心の声」のカバー動画をあげてくださることはないのだろうか…。

ライブで歌われたことがあるのは今回確認しました…)

ひそかに期待している………。

参考文献&これから読みたい本

▽参考

▽これから読みたい本

0 件のコメント:

コメントを投稿

「アラジン」とキリスト教の関係~アラブ人キリスト教徒たちに想いを馳せたり千夜一夜物語の宗教性を紹介したりする~ | いつかみ聖書解説

「アラジン」とキリスト教の関係~アラブ人キリスト教徒たちに想いを馳せたり千夜一夜物語の宗教性を紹介したりする~ | いつかみ聖書解説 https://itukami.lampmate.jp/aladdin-arab-chirstian 「アラジン」...