2024年11月12日火曜日

芥川龍之介 るしへる

芥川龍之介 るしへる

るしへる

天主初成世界テンシユハジメセカイヲツクリ  随造三十六神ツイデサンジユウロクシンヲツクル  第一鉅神ダイイチノキヨシンヲ  云輅斉布児るしへるトイウ(中略)  自謂其智与天主等ミズカラオモエラクソノチテンシユトヒトシト  天主怒而貶入地獄テンシユイカツテオトシテジゴクニイル(中略)  輅斉雖入地獄受苦るしジゴクニイツテクヲウクトイエドモ  而一半魂神作魔鬼遊行世間シカモイツパンノコンシンハマキトナツテセケンニユギヨウシ  退人善念ヒトノゼンネンヲシリゾク

―左闢第三闢裂性中艾儒略荅許大受語サヘキダイサンヘキレツセイノウチガイジユリヤクキヨダイジユニコタウルノゴ―



 破提宇子はでうすと云う天主教を弁難した書物のある事は、知っている人も少くあるまい。これは、元和げんな六年、加賀の禅僧巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)はびあんなるものの著した書物である。巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)は当初南蛮寺なんばんじに住した天主教徒であったが、その後何かの事情から、DS 如来でうすにょらいを捨てて仏門に帰依きえする事になった。書中に云っている所から推すと、彼は老儒の学にも造詣ぞうけいのある、一かどの才子だったらしい。
 破提宇子はでうすの流布本るふぼんは、華頂山文庫かちょうさんぶんこの蔵本を、明治戊辰ぼしんの頃、杞憂道人きゆうどうじん鵜飼徹定うがいてつじょうの序文と共に、出版したものである。が、そのほかにも異本がない訳ではない。現に予が所蔵の古写本の如きは、流布本と内容を異にする個所が多少ある。
 中でも同書の第三段は、悪魔の起源を論じた一章であるが、流布本のそれに比して、予の蔵本では内容が遥に多い。巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)自身の目撃した悪魔の記事が、あの辛辣しんらつな弁難攻撃の間に態々わざわざ引証されてあるからである。この記事が流布本に載せられていない理由は、恐らくその余りに荒唐無稽に類する所から、こう云う破邪顕正はじゃけんしょうを標榜ひょうぼうする書物の性質上、故意の脱漏だつろうを利としたからでもあろうか。
 予は以下にこの異本第三段を紹介して、聊いささか巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)の前に姿を現した、日本の Diabolus を一瞥いちべつしようと思う。なお巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)はびあんに関して、詳細を知りたい人は、新村博士しんむらはかせの巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)に関する論文を一読するが好よい。


 提宇子でうすのいわく、DSでうす は「すひりつあるすすたんしや」とて、無色無形の実体にて、間かんに髪はつを入れず、天地いつくにも充満して在ましませども、別して威光を顕あらわし善人に楽らくを与え玉わんために「はらいそ」とて極楽世界を諸天の上に作り玉う。その始はじめ人間よりも前に、安助あんじょ(天使)とて無量無数の天人てんにんを造り、いまだ尊体を顕し玉わず。上一人かみいちにんの位を望むべからずとの天戒を定め玉い、この天戒を守らばその功徳くどくに依って、DS の尊体を拝し、不退の楽らくを極むべし。もしまた破戒せば「いんへるの」とて、衆苦充満の地獄に堕し、毒寒毒熱の苦難を与うべしとの義なりしに、造られ奉って未だ一刻をも経ざるに、即ち無量の安助あんじょの中なかに「るしへる」と云える安助、己おのが善に誇って我は是 DS なり、我を拝せよと勧めしに、かの無量の安助の中うち、三分の一は「るしへる」に同意し、多分は与くみせず、ここにおいて DS「るしへる」を初とし、彼に与せし三分の一の安助をば下界へ追い下し、「いんへるの」に堕せしめ給う。即すなわち安助高慢の科とがに依って、「じゃぼ」とて天狗てんぐと成りたるものなり。
 破していわく、汝なんじ提宇子でうす、この段を説く事、ひとえに自縄自縛じじょうじばくなり、まず DSでうす はいつくにも充ち満ちて在ましますと云うは、真如法性しんにょほっしょう本分の天地に充塞し、六合りくごうに遍満したる理ことわりを、聞きはつり云うかと覚えたり。似たる事は似たれども、是ぜなる事は未だ是ぜならずとは、如此かくのごときの事をや云う可き。さて汝云わずや。DS は「さひえんちいしも」とて、三世了達さんぜりょうだつの智なりとは。然らば彼かれ安助あんじょを造らば、即時に科とがに落つ可きと云う事を知らずんばあるべからず。知らずんば、三世了達さんぜりょうだつの智と云えば虚談なり。また知りながら造りたらば、慳貪けんどんの第一なり。万事に叶かなう DS ならば、安助の科とがに堕だせざるようには、何とて造らざるぞ。科に落つるをままに任せ置たるは、頗る天魔を造りたるものなり。無用の天狗を造り、邪魔を為さするは、何と云う事ぞ。されど「じゃぼ」と云う天狗、もとよりこの世になしと云うべからず。ただ、DS 安助を造り、安助悪魔と成りし理ことわり、聞えずと弁ずるのみ。
 よしまた、「じゃぼ」の成り立は、さる事なりとするも、汝がこれを以て極悪兇猛の鬼物きぶつとなす条、甚はなはだ以て不審ふしんなり。その故は、われ、昔、南蛮寺なんばんじに住せし時、悪魔「るしへる」を目まのあたりに見し事ありしが、彼自らその然らざる理ことわりを述べ、人間の「じゃぼ」を知らざる事、夥おびただしきを歎きしを如何いかん。云うこと勿れ、巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)はびあん、天魔の愚弄する所となり、妄みだりに胡乱うろんの言をなすと。天主と云う名に嚇おどされて、正法しょうぼうの明あきらかなるを悟さとらざる汝なんじ提宇子でうすこそ、愚痴のただ中よ。わが眼まなこより見れば、尊げに「さんた・まりあ」などと念じ玉う、伴天連ばてれんの数は多けれど、悪魔「るしへる」ほどの議論者は、一人いちにんもあるまじく存ずるなり。今、事の序ついでなれば、わが「じゃぼ」に会いし次第、南蛮の語ことばにては「あぼくりは」とも云うべきを、あらあら下しもに記し置かん。
 年月ねんげつのほどは、さる可き用もなければ云わず。とある年の秋の夕暮、われ独り南蛮寺の境内けいだいなる花木はなきの茂みを歩みつつ、同じく切支丹きりしたん宗門の門徒にして、さるやんごとなきあたりの夫人が、涙ながらの懺悔こひさんを思いめぐらし居たる事あり。先つごろ、その夫人のわれに申されけるは、「このほど、怪しき事あり。日夜何ものとも知れず、わが耳に囁ささやきて、如何いかんぞさばかりむくつけき夫のみ守れる。世には情なさけある男も少からぬものをと云う。しかもその声を聞く毎に、神魂たちまち恍惚として、恋慕の情自おのずから止とどめ難し。さればとてまた、誰と契ちぎらんと願うにもあらず、ただ、わが身の年若く、美しき事のみなげかれ、徒いたずらなる思に身を焦こがすなり」と。われ、その時、宗門の戒法を説き、かつ厳おごそかに警いましめけるは、「その声こそ、一定いちじょう悪魔の所為しょいとは覚えたれ。総じてこの「じゃぼ」には、七つの恐しき罪に人間を誘さそう力あり、一に驕慢きょうまん、二に憤怒ふんぬ、三に嫉妬しっと、四に貪望とんもう、五に色欲、六に餮饕てっとう、七に懈怠けたい、一つとして堕獄の悪趣たらざるものなし。されば DSでうす が大慈大悲の泉源たるとうらうえにて、「じゃぼ」は一切諸悪の根本なれば、いやしくも天主の御教みおしえを奉ずるものは、かりそめにもその爪牙そうがに近づくべからず。ただ、専念に祈祷おらしょを唱となえ、DS の御徳にすがり奉って、万一「いんへるの」の業火ごうかに焼かるる事を免るべし」と。われ、さらにまた南蛮の画えにて見たる、悪魔の凄じき形相ぎょうそうなど、こまごまと談りければ、夫人も今更に「じゃぼ」の恐しさを思い知られ、「さてはその蝙蝠かわほりの翼、山羊の蹄、蛇くちなわの鱗うろこを備えしものが、目にこそ見えね、わが耳のほとりに蹲うずくまりて、淫みだらなる恋を囁くにや」と、身ぶるいして申されたり。われ、その一部始終を心の中うちに繰返しつつ、異国より移し植えたる、名も知らぬ草木くさきの薫かぐわしき花を分けて、ほの暗き小路を歩み居しが、ふと眼まなこを挙げて、行手を見れば、われを去る事十歩ならざるに、伴天連ばてれんめきたる人影ひとかげあり。その人、わが眼を挙ぐるより早く、風の如く来りて、問いけるは、「汝、われを知るや」と。われ、眼まなこを定めてその人を見れば、面おもてはさながら崑崙奴こんろんぬの如く黒けれど、眉目みめさまで卑しからず、身には法服あびとの裾長きを着て、首のめぐりには黄金こがねの飾りを垂れたり。われ、遂にその面を見知らざりしかば、否と答えけるに、その人、忽ち嘲笑あざわらうが如き声にて、「われは悪魔「るしへる」なり」と云う。われ、大おおいに驚きて云いけるは、「如何ぞ、「るしへる」なる事あらん。見れば、容体ようだいも人に異らず。蝙蝠かわほりの翼、山羊の蹄ひずめ、蛇くちなわの鱗うろこは如何にしたる」と。その人答うらく、「悪魔はもとより、人間と異るものにあらず。われを描えがいて、醜悪絶類ならしむるものは画工のさかしらなり。わがともがらは、皆われの如く、翼なく、鱗なく、蹄なし。況いわんや何ぞかの古怪なる面貌あらん。」われ、さらに云いけるは、「悪魔にしてたとい、人間と異るものにあらずとするも、そはただ、皮相の見けんに止るのみ。汝が心には、恐しき七つの罪、蝎さそりの如くに蟠わだかまらん、」と。「るしへる」再び、嘲笑う如き声にて云うよう、「七つの罪は人間の心にも、蝎の如くに蟠れり。そは汝自ら知る所か」と。われ罵ののしるらく、「悪魔よ、退のけ、わが心は DSでうす が諸善万徳を映すの鏡なり。汝の影を止むべき所にあらず、」と。悪魔呵々大笑していわく、「愚おろかなり、巴※(「田+比」、第3水準1-86-44)※(「合/廾」、第3水準1-84-19)はびあん。汝がわれを唾罵だばする心は、これ即すなわち驕慢きょうまんにして、七つの罪の第一よ。悪魔と人間の異らぬは、汝の実証を見て知るべし。もし悪魔にして、汝ら沙門しゃもんの思うが如く、極悪兇猛の鬼物ならんか、われら天が下を二つに分って、汝が DS と共に治めんのみ。それ光あれば、必ず暗あり。DS の昼と悪魔の夜と交々こもごもこの世を統すべん事、あるべからずとは云い難し。されどわれら悪魔の族やからはその性さが悪なれど、善を忘れず。右の眼まなこは「いんへるの」の無間むげんの暗を見るとも云えど、左の眼は今もなお、「はらいそ」の光を麗うるわしと、常に天上を眺むるなり。さればこそ悪において全からず。屡しばしば DS が天人てんにんのために苦しめらる。汝知らずや、さきの日汝が懺悔こひさんを聞きたる夫人も、「るしへる」自らその耳に、邪淫じゃいんの言を囁きしを。ただ、わが心弱くして、飽くまで夫人を誘さそう事能わず。ただ、黄昏こうこんと共に身辺を去来して、そが珊瑚さんごの念珠こんたつと、象牙に似たる手頸てくびとを、えもならず美しき幻の如く眺めしのみ。もしわれにして、汝ら沙門の恐るる如き、兇険無道の悪魔ならんか、夫人は必ず汝の前に懺悔こひさんの涙をそそがんより、速に不義の快楽けらくに耽って、堕獄の業因ごういんを成就せん」と。われ、「るしへる」の弁舌、爽さわやかなるに驚きて、はかばかしく答もなさず、茫然としてただ、その黒檀こくたんの如く、つややかなる面おもてを目戍みまもり居しに、彼、たちまちわが肩を抱いだいて、悲しげに囁きけるは、「わが常に「いんへるの」に堕さんと思う魂は、同じくまた、わが常に「いんへるの」に堕すまじと思う魂なり。汝、われら悪魔がこの悲しき運命を知るや否や。わがかの夫人を邪淫じゃいんの穽あなに捕えんとして、しかもついに捕え得ざりしを見よ。われ夫人の気高く清らかなるを愛めずれば、愈いよいよ夫人を汚けがさまく思い、反かえってまた、夫人を汚さまく思えば、愈気高く清らかなるを愛でんとす。これ、汝らが屡しばしば七つの恐しき罪を犯さんとするが如く、われらまた、常に七つの恐しき徳を行わんとすればなり。ああ、われら悪魔を誘さそうて、絶えず善に赴かしめんとするものは、そもそもまた汝らが DS か。あるいは DS 以上の霊か」と。悪魔「るしへる」は、かくわが耳に囁きて、薄暮はくぼの空をふり仰ぐよと見えしが、その姿たちまち霧の如くうすくなりて、淡薄たんぱくたる秋花あきはなの木この間まに、消ゆるともなく消え去り了おわんぬ。われ、即ち※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)惶そうこうとして伴天連ばてれんの許に走り、「るしへる」が言を以てこれに語りたれど、無智の伴天連、反かえってわれを信ぜず。宗門の内証に背そむくものとして、呵責かせきを加うる事数日なり。されどわれ、わが眼めにて見、わが耳にて聞きたるこの悪魔「るしへる」を如何いかにかして疑う可き。悪魔また性さが善なり。断じて一切諸悪の根本にあらず。
 ああ、汝、提宇子でうす、すでに悪魔の何たるを知らず、況いわんやまた、天地作者の方寸をや。蔓頭まんとうの葛藤かっとう、截断せつだんし去る。咄とつ。

(大正七年八月)

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