2024年11月16日土曜日

ゴダール監督の遺産を未来に受け継ぐ - SWI swissinfo.ch

ゴダール監督の遺産を未来に受け継ぐ - SWI swissinfo.ch

ゴダール監督が「Scénarios」(完成版は複数形のsが付いた)のファイナルカットを見ることはなかった。「(死去の)5日前、月曜日に、ゴダールから作品の第1部について指示を受けました。それから亡くなる前日に、第2部の指示をもらいました。そしてその日、ゴダールが最後にしたのは、映画のラストシーンを自ら撮影することでした」。

師から最終の編集指示を受けた記憶を語るアラーニョ氏の目に、哀しみの色が浮かぶ。「いずれにせよ、ゴダールの最後の指示は極めて精緻な内容でした。頭の中では編集済みの映像が流れていたのでしょう。15年間、ゴダールの映画をカンヌに届けてきましたが、これが最後になりました。私がゴダールの新作を持ち込むのはもう終わり。プント・フィナーレ(終着点)です」

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母を思う

それにしても、何という結末だろうか。「私は、ゴダールが死の直前に考えていたことをこの映画が伝えていることに驚異を覚えます」と、先回りして作品を守るようにアラーニョ氏は説明する。ゴダール最後の下絵で、ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(Roma città aperta)(1945年)から、アンナ・マニャーニが路上でドイツ兵に銃撃されるシーンを引用するよう指示されていた。

「(ゴダールの指示による)編集中は何も思いませんでした。でも後になって、ゴダールの母親も路上で命を落としたと知りました。1954年、ジュネーブでのことです。ゴダールはパリにいて、母親のもとに行けなかった。葬式にも出なかった。しかしゴダールは自分が世を去る間際に、そのイメージを、最後のイメージとしてそこに入れたのです。路上で死にゆく女性と、『ママ』と泣きながら駆け寄る子の姿を。それが彼の最後の意思表明なのです」

「あわせて、(ゴダール監督作品)『はなればなれに』(Bande à part)(1964年)のカットも指示通りにタイムラインに入れました。ジャンリュック・ゴダールの声、若き日のゴダールの声が流れます。『オディールが最後に思ったのは……』。後に、気づきました。ゴダールの母の名はオディールだったと。この最後のモンタージュは、ゴダールが作りながら一度も見ることはありませんでしたが、自分の映画と人生、犯した失敗について語った自叙伝だったのです。私たちのもとを離れる3日前、ゴダールはいたって穏やかに、青ボールペンを手に取ってA4の紙の上に1つひとつのイメージを描き、それぞれについて指示を記すと、静かに私に手渡しました」

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ゴダール監督の遺産を未来に受け継ぐ

ファブリス・アラーニョ
「イメージの本」でスペシャル・パルムドールを受賞したジャンリュック・ゴダール監督に代わって賞を受けるファブリス・アラーニョ氏。2018年5月、第71回カンヌ国際映画祭閉会式にて 2018 Getty Images

ジャンリュック・ゴダール監督のそばで20年間一緒に映画を作ってきたファブリス・アラーニョ氏。巨匠が最後の作品にどんな思いを込めたのか、監督亡き後の映画制作をどう進めているかを語る。

12 分

Christopher Small

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ジャンリュック・ゴダール監督が2022年9月に自殺ほう助で亡くなる1年以上前、フランスの高級ファッションブランド、サンローランはこの映画の巨匠に短編作品の制作を依頼した。フランス・ヌーベルバーグ(新しい波)で最も名高い監督の新作となればブランドの信用も大いに高まると考えてのことだった。

監督が長年温めてきた構想に基づいて制作したのは、謎めいた短編映画「ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争」(Drôles de guerres)。2021年春に納品されたが、公開はさらに2年経ってからだった。

「ゴダールが亡くなるまで待てばさらに価値が出るだろうと、マーケティング面から公開を見合わせていたとは思いたくありませんが」と、20年間ゴダール監督の右腕だったファブリス・アラーニョ氏(54)は語る。ウィーン国際映画祭(Viennale)での上映に先立ち、SWI swissinfoのビデオ取材に応じた。

ブランドの思惑はわからないが、実際、ゴダール監督はその後間もなく死去する。長きにわたり病状の悪化に苦しんだ末、スイス西部ロールにある自殺ほう助クリニックに自ら入院した。この20分間の短編映画は2023年5月のカンヌ国際映画祭でプレミア上映された。

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スクリーンでは、本作品は「映画の予告編」と表されている。監督が将来作ろうと考えていた長編映画の予告編、という位置づけだ。

この話題に触れると、アラーニョ氏は顔を曇らせた。この見出しにサンローランが文言を加えたせいだ。「映画の予告編」でなく「決して存在しない映画の予告編」と。「それは誤っています。この作品が映画であり、実際に存在するものです。私には理解できません」

撮影助手から創作のパートナーへ

このように緻密で、何かとかばい立て、ことによると教師のように明快な発言はいかにもアラーニョ氏らしい。最初はロケーションマネージャーとして、続いて技術面のブレーンとして、さらには深く創作に関わる共同制作者として、20年間にわたってゴダール監督とともに仕事をし、いろいろな面から「擁護」してきた。

撮影に関する知見や向上心が旺盛なアラーニョ氏は監督に欠かせない存在となり、時を経るごとに制作での絆はますます強まった。「ゴダール・ソシアリスム」(Film socialisme)(2010年)では監督の立ち合いなしに多くのシーンの撮影を任され、「さらば、愛の言葉よ」(Adieu au langage)(2014年)では2台のカメラで3次元撮影する革新的な手法で3D作品を実現した。

もともと人形劇を手がけていたアラーニョ氏は、なぜ映画に、それも技術面にひかれるようになったのか。「言葉なしに自分を表現したかったのだと思います。映画はその最適な手段です。スイスの(美術大学の)映画学科で学んだことですが、映画の技術は実にシンプルです。基本は2日間で習得できます。でも当時、私が言われたのはルールを学びそれに従うようにというだけですが、明らかにそれが理解できていませんでした」

アラーニョ氏とゴダール監督
アラーニョ氏とゴダール監督(右)。2014年「さらば、愛の言葉よ」の撮影現場で Copyright Kino International / Everett Collection

「奇妙な戦争」から「シナリオ」への道

ゴダール監督は生前、長編映画「Scénario」(仮題:シナリオ)の制作に着手した。元にしたのは、静止画と動画を対比させるという「映画の予告編」でアラーニョ氏と一緒に考案したアイデアだ。「『映画の予告編』をサンローランに納めると、ゴダールは急に別のことをしたいと思いました。『奇妙な戦争』から離れたかったのです。2022年の5月か6月には、『Scénario』の構想について議論を始めました。2部構成で、第1部はDNA、第2部は磁気共鳴画像装置(MRI)をテーマとする別の作品です。ゴダールはイメージを集め始め、イメージについて語り、どのような見せ方をするか話し合いました」。

何カ月かはそのように作業が続いた。「ですが、夏は大変でした。私はゴダールを何度か病院に連れて行き、大抵はそのつど5日ほど入院しました。結局ゴダールは……ここから去ることにしたのです」。アラーニョ氏は、無意識のうちに婉曲な言い回しを選び、ため息をついた。「そのときでさえ、『Scénario』の制作を続けるよう私たちに言い含めていました。契約通りに作品を届けられず(プロデューサーのミトラ・ファラハニ氏に)迷惑をかけることはしたくないと」。

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「(ゴダールの指示による)編集中は何も思いませんでした。でも後になって、ゴダールの母親も路上で命を落としたと知りました。1954年、ジュネーブでのことです。ゴダールはパリにいて、母親のもとに行けなかった。葬式にも出なかった。しかしゴダールは自分が世を去る間際に、そのイメージを、最後のイメージとしてそこに入れたのです。路上で死にゆく女性と、『ママ』と泣きながら駆け寄る子の姿を。それが彼の最後の意思表明なのです」

「あわせて、(ゴダール監督作品)『はなればなれに』(Bande à part)(1964年)のカットも指示通りにタイムラインに入れました。ジャンリュック・ゴダールの声、若き日のゴダールの声が流れます。『オディールが最後に思ったのは……』。後に、気づきました。ゴダールの母の名はオディールだったと。この最後のモンタージュは、ゴダールが作りながら一度も見ることはありませんでしたが、自分の映画と人生、犯した失敗について語った自叙伝だったのです。私たちのもとを離れる3日前、ゴダールはいたって穏やかに、青ボールペンを手に取ってA4の紙の上に1つひとつのイメージを描き、それぞれについて指示を記すと、静かに私に手渡しました」

ファブリス・アラーニョ氏
2018年カンヌ国際映画祭。ゴダール監督は、スイスの自宅からアラーニョ氏のスマートフォンを通じてビデオ通話で記者会見に参加し、自作「イメージの木」について語った Afp Or Licensors

ゴダール監督亡き後の映画作り

アラーニョ氏が一通り語り終えたので、最後に「Le Lac」(仮題:湖)について尋ねた。自身が長く温めてきたプロジェクトで、ここ数年取り組んでいるという。「私たちのチーム(Casa Azul Films)が制作した『イメージの本』が成功したおかげです。これで制作費が調達できました。この作品をゴダールに捧げます。この準備のために私が作った短編映画(『Lakeside Suite』仮題:レイクサイド・スイート)をゴダールはたいへん気に入ってくれていました。また、私を後押ししてくれたフレディ・ビュアシュ(シネマテーク・スイス理事長を務めた映画評論家)にも。この映画を作るのはその2人のためです」

ゴダール監督亡き今、アラーニョ氏は別種の映画を共同制作することにも力を入れる。今年のロカルノ国際映画祭コンペティションでマルタ・マテウス監督のポルトガル映画「ファイヤ―・オブ・ウィンド」(Fogo do Vento)が上映され、意外にも、そのプロデューサーとしてアラーニョ氏の名が画面に表示されていた。「あるとき、私たちがゴダールと作った本を(マテウス氏が)いくつか買ってくれました。その後、映画サイトMUBIの配信で見た短編映画(『棘と荒地』Farpões, baldios、2017年)がいいと思って、クレジットを見たところ……。マルタ・マテウス、マルタ・マテウス……。それで思い出しました。あの注文をした女性じゃないか、と」。ここから2人の交流が始まった。

マルタ・マテウス氏
ポルトガルの映画監督マルタ・マテウス氏。2024年8月のロカルノ国際映画祭、「ファイヤ―・オブ・ウィンド」上映時の記念撮影で Keystone / Jean-Christophe Bott

マテウス氏は、ポルトガルで映画制作の資金を集めるのがいかに困難かについて話していた。「長編映画を準備していると言われたので、『それなら一緒に制作しよう』ということになりました。共同制作はすばらしいものです。スイスだけで映画を作っていると、瑣末で、偏狭で、馬鹿馬鹿しいもののせいでうまく進まない」とアラーニョ氏は冗談交じりに言った。

「共同制作は、世界を理解し、他のものに対する感受性を高めるきっかけになります。それなのに、『ファイヤ―・オブ・ウィンド』はスイス政府から助成金が出ませんでした。文化局はこの種の共同制作に乗り気でなく、評価するのはスイスに関係するものだけです。そこで私たちはシネフォーラム(Cinéforom)とスイス・フランス語圏のテレビ局を頼りました。それと自分たちが持っているものですね。できるときに映画を撮るようにと、私は好んで人に働きかけています。『今すぐやりましょう。何をためらっているんです。ここにカメラがあるじゃないですか』とね」。

再び自身のプロジェクトに取り組むのは、どんな気分だろうか。「たしかに今は時間に余裕ができました。20年間、私はゴダールを最優先にしていました。今は自分が最優先です。でも実は、他に優先すべきことがあるのもいいものですよ」

ゴダール監督の晩年の作品はニューヨーク映画祭で上映後、小規模な北米ツアーを続け、モントリオールとバンクーバーのシネマテークで上映される。「その間、何日間か『Le Lac』をノートパソコンで編集し、ウィーンで『さらば、愛の言葉よ』と合わせて映像をお見せできるかもしれません」。映画作りはこれからも続く。

編集:Virginie Mangin/ds、英語からの翻訳:宮岡晃洋、校正:ムートゥ朋子

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