2024年11月11日月曜日

これで終わりと言われても映画『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』感想文 | 映画にわか

これで終わりと言われても映画『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』感想文 | 映画にわか

これで終わりと言われても映画『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』感想文

《推定金返せ時間:20分》

ゴダールという人はなんでも自殺してしまったそうでこの20分の「『奇妙な戦争』の予告編」と題された映像が最後まで編集していた一応遺作ということになるらしいのだが、上の予告編のサムネになっている黒で描かれた何かを赤のインクかペンキでかき消した絵を観ていやいやこれはsuicideのファーストアルバムのジャケットではないかと思ってしまった。

ゴダールはもっぱら解釈と編集の人でありオリジナルなものが複製芸術たる映画でというか、映画監督という職業で、少なくとも自分には可能であると思っていなかったんじゃないかとその作品群からすれば考えられるが、それにしても最後の最後で作品のキービジュアルをヨソから持ってくるなんて…しかもsuicideだなんて! もちろんこれは偶然の一致の可能性も大いにあるわけだが、偶然だとすればなんだか不吉すぎる偶然である。ゴダールがsuicideなんか聞かねぇよって? まぁそうかもしれないけどファスビンダーは『13回の新月のある年に』でsuicideの曲使ってたのでそれを観ていないとはさすがに考えられないゴダールも普段聞くかどうかはともかくsuicideの存在ぐらいは知っていたんじゃないだろうか。なんにせよ、もう死んでるから真意は不明だが…まぁでも生きてても言わないと思うのであんま変わらないか。

このsuicdeなキービジュアルが最初に画面に出ておそらく2分間ほどだろうか、音も無く動きも無くただただこれが画面に映し出されていたのでまさか20分間これだけで通すつもりか…!? とドキドキしてしまった。もしそうであればこれはゴダール史上最大の野心作にして問題作になっていただろう。だって1000円払ったんだからこれ観るために。1000円払ってsuicideをパクった変な絵一枚を20分見せられて終わりだったらそれはもう伝説ですよ。今の日本人はすっかり体制に馴致されて大人しくなってしまったがさすがにそれで映画終わったら観客みんなキレて金返せの暴動になると思う。ゴダールは『東風』などジガ・ヴェルトフ集団(※映画制作ユニット)の時代には革命を夢見ていたわけだからそうなったらあの世のゴダールも喜んだことだろう。立ち上がれ! 大衆よ!

だが幸いになのか残念ながらなのかともかくそうはならずしばらくしたら次の静止画に進んだのであった。その静止画というのはなんかよくわからん文章と写真のコラージュである。以降、30秒ぐらいだけ動画になったりするが、それ以外はすべてコラージュ静止画に現代音楽とナレーションを被せたスライドショーで、その動画というのも自作『アワーミュージック』の1シーンというこの圧倒的宅録感。逆に金返せと思う。それだったらsuicide画像で20分のほうがまだなんだかとんでもないものを観た感があったんじゃないだろうか。ゴダールもやはり人の子だったということか。ガッカリしながらちょっと切なくなってしまう。

静止画やナレーションの内容はゴダールなので断片的で、まぁ詳しいことはまったくわからないが、どうも『奇妙な戦争』もしくは『カロリーナ』とかいう映画の構想のようであった。『東風』には誰かの台詞を引用して「俺は未完成の傑作なんだ」みたいなことを言うシーンがあったが、その言葉がそっくりあてはまるゴダール映画があるとすればこれを措いてほかにないだろう。だって現に完成してないわけだし。それに日本版の公式サイト見たら蓮實重彦が死ぬ前のゴダールは次作が俺の最高傑作になるぞと言ってたみたいなこと書いてたし。

完成しない最高傑作。完成しないから最高傑作。敗北者には敗北者の美学があるさ、と浅田彰のようなことを誰とも知れない(ゴダール本人なのだろうか)ナレーターが言うが、とすればこれがゴダール映画の最終形態なのかもしれない。どんな言葉も言えばなんらかの意味を明示的であれ暗示的であれ獲得してしまうように、どんな映画でも作れば完成してしまう。物語ることの挫折とイメージの横滑りによって直線的な映画を否定しダジャレ的に映像と言葉を綴ってきたゴダールだが、いくらそうした非映画的な「完成しない」映画を志したところで、それは映画である限り達成が不可能なことだろう。

だから、編集途中のまま作り手が死んじゃったこの遺言は、このようにパッケージ化され値札がつけられて興行ラインに載った時点でその目論見(がもしあれば)は結局破綻しまったとはいえ、ゴダールがその映画作りにおいて可能だった最大限の抵抗であったのかもしれない。などと言えば、自殺を美化しかねないのでちょっと危ないところであるが…まぁみなさん自殺はとにかくよくないですからやめましょう。

ナレーターはやがて「せめてひとつでも和平の達成が見たかった」みたいなことを言う。それに続けて「ハンナ・アーレントをゲルショム・ショーレムは12のシナゴーグに喩えた」。そこで唐突に遺言は終わってしまう。ショーレムという人は現代のシオニズム運動に大きな影響を与え、ヴァルター・ベンヤミンやハンナ・アーレントといった思想史上のユダヤ系重要人物とも交流があったカバラ研究の権威である。なんだかむなしい。ゴダールが自死を遂げたのはロシアのウクライナ侵攻が始まった2022年の9月のこと。はたしてどのような意図でこの台詞が書かれたか今となっては知る由もないわけだが、みなさんご存じの通りその後ハマスによるイスラエルに対する大規模攻撃があり、それに対してイスラエルはすわ民族浄化かという苛烈を極める報復行動に出ているわけである。

そして俺はもしアーレントが生きていたらと考えるのだが、たぶんアーレントはネタニヤフ政権の方針、つまりハマス殲滅のためのガザ侵攻、そして国連を含めた国際社会からの人道的停戦圧力やイスラエルーパレスチナ二国家共存案の拒絶を、おそらく支持しただろうと思うんである。それはアーレント思想の根幹にはニーチェ的な能動性や自由意志の礼賛があるからで、アーレントがナチス官僚アイヒマンを評した「凡庸な悪」という言葉もその文脈を踏まえて理解すべきと思うのだが、たとえば食欲に突き動かされての食事といった受動性や主体性の無い行動をアーレントは低俗なものとして一蹴するわけである。

その世界観に照らし合わせて見れば、ハマスの越境攻撃はたとえイスラエルの占領政策に対するカウンターだとしても、というよりもむしろカウンターだからこそ、受動的で主体性のない卑しく唾棄すべき行動と映るんじゃないだろうか。そしてそれに対するネタニヤフ政権の神の怒りの如し過剰な報復と国際社会の圧力のはね除けは、自由意志に基づく能動的な行動として好ましく映るんじゃないだろうか。これはあくまでも俺の想像だとはいえ、そんな風にアメリカの共和党イデオロギーとも強い親和性を持つアーレントを、どうして共和党的なものの正反対にあるようなゴダールは最後の最後に引き合いに出したのだろう?

もしかするとそこにはロシアのウクライナ侵攻を受けてゴダールが必要とした抵抗のイメージが投影されているのかもしれない。けれどもだとしたら、イスラエルの現状から言ってそれは『中国女』のラストのように牧歌的に過ぎるんじゃないだろうかとおもう。『中国女』の革命目的の殺人というラストをのちにゴダールは反省したというが、だったらやっぱり死なないで生きとくべきだったね。死なないでビクトル・エリセの新作を観てその凡作っぷりに落胆したら、エリセに比べれば俺はまだ面白い映画が撮れるだろと元気になったんじゃないだろうか。敗北者の美学とはたぶん、負けを引き受けて生き続けることだっただろう。ちなみにエリセは新作でそれをやってるのだと俺はおもってる。

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