2024年11月6日水曜日

『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』レビュー:「黒画面(=無)」の探求の涯てに彼はGOD+ART(D)となる|CHE BUNBUN

『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』レビュー:「黒画面(=無)」の探求の涯てに彼はGOD+ART(D)となる|CHE BUNBUN

『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』レビュー:「黒画面(=無)」の探求の涯てに彼はGOD+ART(D)となる

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0.ジャン=リュック・ゴダール遺作、ついに公開

2022年9月13日、ヌーヴェルヴァーグの首領ことジャン=リュック・ゴダールが亡くなった。91歳だった。彼の最期は、スイスでの自殺幇助。映画は完成せず、『気狂いピエロ』のラストを彷彿とさせる唐突さが全世界の映画人を震撼させるとともに、どこか納得いくようなものも感じさせた。

それから1年後、サンローランプロダクションが彼の遺作をカンヌ国際映画祭に届けた。それが《Film annonce du film qui n'existera jamais: 'Droles de guerres'》、完成しなかった映画の予告編であった。

ようやく日本でも公開されたわけだが、残念なことにパンフレットの納品が間に合わず、我々観客は具体的で抽象的な彼の難解な遺言状を内に反芻することしかできなかった。

わたしは、この映画を迎えるために事前にジガ・ヴェルトフ時代のゴダール作品を中心に10本ほど鑑賞。併せてカイエ・デュ・シネマや関連資料を取り寄せて、彼の作品を解剖研究していた。

その上で本作に挑むと、彼が探究し続けてきた映像論の集大成といえる作品で2024年のベストに入れたいレベルの大傑作であった。

ゴダール映画を分析する上で、「具体」と「抽象」と2つのアプローチが取れる。残念ながら「具体」は、経験値不足であまり掘り下げることができなかった。一方で「抽象」に関しては、ある程度参考になる語りができると思う。

そこで、今回は『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』(以下、『奇妙な戦争』)について掘り下げていく。

▲動画版レビュー

1.『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』構成

音のない劇場、緊迫感が立ち込める中、2枚の写真と手紙の切れ端のようなものが提示される。顔、手、そして赤いインクのようなものがついた手紙。1枚の画であるが、複数の構成要素によって暴力による凄惨さが現出する。

そして、次にはポスター写真にもなっているジャクソン・ポロック風の画が叩きつけられる。ただでさえ、荒々しく見えるものが、直前のイメージによる連鎖でより暴力的なものに感じる。

抽象的な画から我々は具体的な暴力を想像していくのである。これこそが今回のゴダールのテーマであり、もとい彼が90年以上の時をかけて見出した映像論の集大成ともいえよう。

ここで重要となってくるのは無音であろう。ジョン・ケージは「4分33秒」にて、沈黙を通じて観客に音への関心を促した。「無」は存在しない、「無」はある種の「有」なのだ。「無」を意識することで「有」が意識される。

『奇妙な戦争』も同様に、無音を通じて「音」、そして「画」に対する凝視を促す。無音空間における抽象的な画への想像力が本作における肩慣らしの役割を担い、だんだんと語りによる本題へと誘われていくのだ。

そして、映画は『アワーミュージック』のフッテージに新作『カルロッタ』の説明が加えらると共にシャルル・プリニエ「偽旅券(Faux Passeports)」への想いを寄せる。シャルル・プリニエは1928年のアントワープ大会中にトロツキズムを疑われ、共産党から排除された。共産主義者でありながら国際赤色救援会に所属していた彼は1937年に自身の経験に基づく「偽旅券(Faux Passeports)」を発表しゴングール賞を受賞する。ジガ・ヴェルトフ時代に帝国主義、修正主義、双方に批判的眼差しを向けていたゴダールにとって、プリニエは自分の分身のように感じたことだろう。『奇妙な戦争』は、ようやく本編の核心に迫る議論が開始されたかと思った瞬間に終わる。対話の途中で打ち切られたこの予告編を前に我々は困惑することだろう。

さて、ここでゴダールにおける抽象的な画に着目していく。キーワードは「黒画面」である。映画を観た人なら「どこに『黒画面』があるのか?」と疑問に思うであろう。それを説明するために、ジガ・ヴェルトフ集団時代へ遡ることとする。

2.「黒画面」への探究

2.1.ジガ・ヴェルトフ時代における「黒画面」の扱い

1967年の『ウイークエンド』を最後に、ゴダールは商業映画と決別し、『勝手に生きろ/人生』(1979年)に復帰するまでの間、ジガ・ヴェルトフ集団を形成し、政治的実験映画を制作し続けていた。ジガ・ヴェルトフとは、もちろん『カメラを持った男』(1929年)の監督である。『カメラを持った男』は、多重露光やスプリットスクリーンなど、映画が現実を捉えながらも現実ではあり得ない画が生み出せることを実践していった作品であり、その監督の名を冠したジガ・ヴェルトフ集団は実験的な手法を用いて政治や社会を「映画」に収めようとした。その実験の中で、よく研究されたのが「黒画面」の用法である。

たとえば『プラウダ(真実)』(1970年)では、「黒画面」の中で以下のように語られる。

7.和解女性労働者ビキニ姿  だがアメリカのCBCに売り払ったので権利がない

『プラウダ(真実)』(1970年)

映像メディアはありのままの事実を映し出すことができるが、映像メディアの切り取り方によっていくらでも操作することができる。ゴダールは帝国主義や修正主義を批判する中で、映像編集の側面と向き合う。そして逆説的に同じ映像メディアである「映画」によってそうしたものに抵抗できるのではと説く。その中で映像から距離を置くために「黒画面(=無)」の用法を模索したといえる。そして、『ウラジミールとローザ』(1971年)などでも応用されていく中で『ありきたりの映画』(1968年)が面白い用法を編み出している。

労働者、労働組合、経営者の関係について原っぱで若者たちが議論をしている。労働組合の欠点を指摘した上で革命の重要性を訴える。これは個人の意見であるのだが、映画は遠巻きに顔を映さないようにしている。それにより、イデオロギーに個が取り込まれていく様子が強調されていく。自由意志が存在せず、必ず誰かの影響から成立している抽象的な概念を画で的確に捉えていく。画を見せつつも、肝心なものを見せないことによってある種の「黒画面」が生み出される。それが社会の本質を捉えることとなるのだ。本作での演出は今観ても色褪せることがない。むしろ、SNS時代において有効な手法ですらある。個々は様々な思索をSNSに書き込む。だが、その思索の集合が一定のイデオロギーを生み出す。それを映像で表現するにはどうすればいいのだろうか?

ルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデ監督は『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』(2021年)にて、ランダムに画を並べていくパートと、コスプレをした人々が一方的に物言いをするパートでもってSNS的猥雑さを抽出していった。ここでは匿名的な映像と、顔は見えているがSNSのアイコン的に処理されていく言論がSNSらしさが個と匿名性を強調していた。

シンプルに顔を隠した状態で議論するだけでも十分SNS的演出が見込めることを60年代に見出したゴダールは慧眼といえよう。

閑話休題、少し話が逸れたところで、ゴダール映画への理解を深める意外な一手を提示したい。それは「ギー・ドゥボール」である。次の章ではドゥボールとゴダールの関係性について論じていく。

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