2024年11月11日月曜日

中上健次の死、文学の弔い:私の謎 柄谷行人回想録⑳|じんぶん堂

中上健次の死、文学の弔い:私の謎 柄谷行人回想録⑳|じんぶん堂

中上健次の死、文学の弔い:私の謎 柄谷行人回想録⑳

左から中上健次さん、柄谷さん=1980年ごろ、柄谷さん提供
左から中上健次さん、柄谷さん=1980年ごろ、柄谷さん提供

――1992年に、作家の中上健次が46歳の若さで亡くなります。柄谷さんを語る上では外せない人です。

柄谷 お互いが批評家と作家になる前からの長いつきあいでした。(第7回参照)

――初めて会ったのは68年だという話ですが、大作家になるだろうという予感もあったんでしょうか。

柄谷 こいつは違う、すごい作家になると思った。ただ、まだ本領は発揮していないという感じだった。当時、小説家志望者のほとんどは、大江健三郎の模倣をしていて、中上もそうでした。中上に、あれを読め、これを読めといっていろいろな作家の作品を勧めたのは、可能性を感じたからだと思う。

――柄谷さんは、中上さんが作家として本物だと思ったのは、「十九歳の地図」(73年)からだと語っています。掲載誌を読んではがきを書いたら、本人にはまだ雑誌が届いていなくて、喜んで電話してきたそうですね。

柄谷 そんなこともあったかな。

――その後は、75年発表の「岬」で芥川賞を取り、「枯木灘」、「千年の愉楽」と出身地・新宮の被差別部落を背景にした傑作を次々に書いていきますね。79年には、2人の対談をまとめた『小林秀雄をこえて』も出ます。

柄谷 僕は、5歳上で兄貴分。中上は、手のかかるちょっと厄介な弟のような存在だった。向こうは向こうで、柄谷は頼りないから、自分が偉くしてやらなければ、という使命感があったらしい(笑)。僕はずっと、中上とは意識的に距離を取っていた面があった。そうじゃなかったら、身が持たないからね。しかし中上のほうはそれが気に食わない。「水くさいよ」とよく言っていた。

めんどくさい求愛

――中上さんには、酔っ払って作家や編集者を殴ったというような伝説もありますが……。

柄谷 僕は一緒に飲んでいても、最後までつきあうことはあんまりなかったから、そういう現場には居合わせてない。人から、いろいろ話は聞きましたけどね。毎日のように夜中に電話で呼び出されて朝まで帰してもらえない、とか、飲んでいるときに難癖をつけられていじめられる、とか。バーで、中上が島尾敏雄にからんだら、島尾さんに「表に出ろ」と言われたという話も聞きました。そうなると急におとなしくなった、と(笑)。

――柄谷さんは、暴力的なイメージは、本人が意図的に作り出したものだったのではないかと指摘していますね。

柄谷 地元の同級生たちは、物静かで内向的だった、と言っていました。上京してマルクスを読んだり学生運動に参加したりしているうちに、変わったんでしょうね。もともと二面性があったとは思います。内向的だけど暴力的、感性的だけど知的。神経が細やかで人を気遣う、本当に優しい面があった。半面、残酷なところもあった。

――ずっと親しかったというわけでもないんですよね。

柄谷 そうですね。80年代半ばには特に疎遠になっていた。

――中上さんは、柄谷さんが日本回帰して天皇主義になったとか、"柄谷包囲作戦"をやる、と言ったりしていたとか。

柄谷 そういう形での求愛だったんじゃないかな。面倒くさいよね(笑)。

――中上さん自身は、柄谷さんとの対談で、こう語っています。「柄谷とこうやってつるんでばっかりじゃだめだと思ってた。柄谷といつ、どこで、切れようかとも思ってた」(「批評的確認」『柄谷行人中上健次全対話』)。文学のためだったと弁解していますね。『地の果て 至上の時』(83年)で新宮の秋幸サーガが完結し、次にどこへ向かうか、悩みも深かったのかもしれませんね。

柄谷 僕は放っておいたんですけどね。向こうは、放っておいてくれない。

――浅田彰さんが登場して、柄谷さんと一緒に仕事をするようになっていたことも関係があるのでは?

柄谷 たしかに、浅田君に対抗しようとするところはあった。浅田君と中上とでは、全然違う才能なんだから、そんな必要はないのに。中上は小説家だけれど、知的な直感力も並外れていた。勉強家だったし。
そういえば、中上は、浅田君が僕の運転する車の助手席に平然と乗っている、という話を聞いて以来、浅田君を命知らずの豪傑として畏怖するようになったとか(笑)。中上は、僕の運転する車に乗るとこわくてたまらなかったらしい。まあ、全般的に、浅田君のほうがずっと肝が据わってはいるね。

運動に参加、主導したのは

――2人のつきあいはまた復活します。

柄谷 80年代の末に、僕が東大の駒場でやっていた自主ゼミに中上が会いに来た。僕もそろそろ会いたいなと思っていたころだった。ケンカになるかとも思ったけど、和やかな再会になりました。

――90年代に社会的な運動を一緒に行うことになりますね。90年5月には、作家の筒井康隆さんとともに、文芸家協会を脱退。死刑囚の作家・永山則夫の入会が拒否されたことが理由でした。91年には、中上さんと一緒に湾岸戦争反対の運動を展開します。

朝日新聞は夕刊の社会面で報じた
朝日新聞は夕刊の社会面で報じた

柄谷 どちらも中上の主導でした。参加者たちの問題に対する考えはそれぞれ違っていたんだけど、僕はそれでいいと思った。

――82年に中野孝次(文芸評論家)たちが「反核アピール」を表明したときは柄谷さんは批判的だったと思いますが……。

柄谷 そんなこともありましたね。あの頃はまだ米ソの冷戦構造があって、反核アピールはアメリカは批判しながらソ連については甘い、と思って、加わらなかったんだろうね。僕は冷戦時代には、文学者が政治的な行動をすることには否定的だったんです。だけど、91年の湾岸戦争は、冷戦構造のほころびから起きた戦争で、日本がそれに巻き込まれそうになっていた。

――柄谷さんたちの声明は二つに分かれてそれぞれに署名を募るもので、書名声明1は「私は日本国家が戦争に加担することに反対します」というものでした。声明2はより踏み込んだ発起人の主張が盛り込まれ「世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる」などとしています。冷戦構造の崩壊で様々なものが変わったわけですね。

柄谷 若い人には想像がつかないかもしれないけど、80年代の最大の出来事は、なんと言っても冷戦の終結です。最終的にソ連がなくなるのは91年だけど、80年代末には崩壊が始まっていた。中上は、その変化に敏感に反応したんだと思う。僕もそれまでと同じ態度ではだめだ、と考えた。

――いずれも柄谷さんの行動に中上さんが大きく関わっていますね。

柄谷 そうですね。はたから見れば、僕は巻き込まれて責任を取らされている、という感じだったかもしれない。だけど、中上が引っ張り出してくれなかったら何もせずに終わっただろうから、それでよかったんだ。
中上とは、根本のところで方向性が重なっていることが多かった。普段は意識していないけれど、何年かに一度ゆっくり話す機会があると、お互い同じようなことを思っていたんだな、と気付く感じでした。

――90年の秋にも、ニューヨークに中上さんが訪ねてきて、すいぶん長く話した、ということです。中上さんはあまりお酒を飲まず、柄谷さんのほうが酔っ払ってしまったとか。

柄谷 大酒飲みの中上が酒を飲まなかったということは、もう体が悪かったんだろうね。翌年には、湾岸戦争が始まったわけだけど、中上は反対運動をやりながら、憑りつかれたように書き出した。体調がおかしかったのに、病院にも行かずどんどん仕事を増やして……。
中上が近い将来死ぬような漠然とした予感もあって、その頃やった対談で、僕がインタビューをするような形で、半生を語ってもらったこともありました(「国文学」91年12月号掲載「路地の消失と滅亡」、『柄谷行人中上健次全対話』所収)。

文学との縁を精算するために

90年前後の柄谷さん=本人提供
90年前後の柄谷さん=本人提供

――確かに、特に前半は一方的に柄谷さんが聞いている不思議な対談です。

柄谷 この時点では、僕はガンだとはまだ聞いていなかった。中上は、僕の方が先に死ぬと決めつけていたし。

――92年8月12日に亡くなりますが、直前に新宮に中上さんを見舞っています。

柄谷 死ぬ数日前のことでした。実は、僕が新宮に行くのは、それが初めてだった。中上には何度も誘われていたけど、彼の親族や地元の問題にあまり深入りしたくなかった。
だけど、亡くなったあとには、葬儀委員長をやって、弔辞も読んだ。その後、中上の追悼も書いたし、全集の編集もやった。こういうことは全部、本来なら、僕は嫌なんです。親の葬式ですら、嫌々やったくらいだから。だけど、中上の弔いは、過去の清算のようなつもりだった。文学との縁を清算するんだから、絶対に嫌々やっていると見られないようにしようと思ってやった。それでこその弔いだからね。

中上健次の葬儀。右下で頭を下げているのが葬儀委員長を務めた柄谷さんだという
中上健次の葬儀。右下で頭を下げているのが葬儀委員長を務めた柄谷さんだという

――文学の弔い、ですか。

柄谷 僕自身は70年代末には、近代小説が果たした決定的な役割は終わった、という実感があって、文学から離れ始めていたんです。でも、中上が生きている間は縁が切れなかった。その中上が死に、95年には、小説家だった妻の冥王まさ子も病気で亡くなった。彼女はずっとアメリカに住んでいて、そこで亡くなりました。
思えば、2人は、僕にとって文学の霊のようなものだった。その霊がようやく僕を離してくれた、という感じがした。じっさい、以降、僕と文学との縁は切れたんです。新人賞の選考委員は、義理もあってしばらく続けたけど、小説はまったくといっていいほど読まなくなりました。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、中上の死が象徴した近代文学の終わりについてなど。月1回更新予定)

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