愛は恐怖を超える!黒沢清監督が語る、愛のホラー映画論
恐怖で背筋を凍らせるホラー映画の中にも、愛は存在する?『CURE キュア』や『クリーピー 偽りの隣人』など、傑作ホラーを手がけてきた黒沢清監督が、愛を描きながら同時に恐ろしい映画の歴史を紐解く。
text: Yusuke Monma
歴史的に見ると、映画が発明したオリジナルの物語で、愛を描くホラー映画として最初に成立したものは1932年の『ミイラ再生』だろうと思います。エジプトの王女に恋をしていた男が、数千年後の現代にミイラ男として蘇り、王女に似た女性を追い求める。まあ、最終的には破滅していくわけですが、ごく初期の頃には女性を愛してしまった怪人の哀れな物語がいくつか存在していました。
しかし60年代以降、ホラー映画はそういった愛の物語を否定する方向で発展していきます。モダンホラーの先駆けともいえる『サイコ』('60)では、標的となる女性がモノのように扱われ惨殺されていく。その後の『エクソシスト』('73)や『悪魔のいけにえ』('74)も、愛を拒絶するところから生まれた作品です。
決定的だったのは『羊たちの沈黙』('90)で、そこでは女性が全裸の腐乱死体として、単に即物的に描写されていました。それはホラーが愛と訣別した瞬間だったと思います。おそらく愛と恐怖は本来相いれない表現なんでしょう。
愛を描き出す誘惑は強く、恐怖の表現は実に儚い
ところがそんなホラー映画の歴史の中でも、愛の場面に胸を打たれるような作品は例外的にあって、真っ先に思い出すのが『蠅男の恐怖』('58)です。脳がだんだんハエ化して、人間の理性を失っていく男が、震える手で黒板に「アイ・ラブ・ユー」と書く場面。ほとんど人間性を失った彼に、最後まで残っていたのは妻への愛だったという、本当に胸を打たれる場面でした。
ちなみにこのリメイク版が、デヴィッド・クローネンバーグ監督による『ザ・フライ』('86)で、これもまた愛が胸を打つ見事なホラー映画です。
トビー・フーパー監督の『スポンティニアス・コンバッション/人体自然発火』('89)も素晴らしい作品ですね。主人公の男は水爆実験の影響で、母親の胎内にいるときから放射線を浴び、怒りが爆発すると体中から炎を噴き出してしまう。ところが恋人の前では、彼女を焼き殺してしまわないように、怒りを抑えなければならない。結局、彼女を愛で守りつつ、一方で怒りが別なところで爆発し、人類を破滅に導くという、恐ろしくも感動的な映画でした。
人間が一種の化け物のようなものを愛してしまう映画もたまにあって、それが『処女の生血』('74)です。処女の生き血しか吸うことのできないドラキュラが、処女ではない美人たちの血を吸って苦しむという奇抜な物語でしたが、唯一処女である醜い女性が彼を深く愛してしまう。最終的に体に杭を打たれ、死骸となったドラキュラに、その女性が駆け寄っていき抱きつくラストは、涙なくしては観られません。
同じように人間が人間でないものを愛してしまう映画に、トビー・フーパー監督の『スペースバンパイア』('85)があります。人間の精気を吸い取る宇宙人──これが全裸の女性なんですが──を、本来なら彼女をやっつけなければならない主人公の男が愛してしまい、最後はドラキュラの物語さながらに、彼女もろとも串刺しになる。これもまた強烈な愛の映画でした。
まあ、愛を物語の主軸に据え、同時に恐ろしい映画というと、そういったところでしょうか。そのような映画は近年ではほぼ思いつかない、というのが正直なところです。それならと思い、ホラーっぽいけれども、思いきって愛に寄せていく作り方をした映画が、2016年に監督した『ダゲレオタイプの女』ですが、作ってみて確信したのは、愛を貫くと恐怖がどんどん遠のいていくんだな、と。
やはり愛は強力で、恐怖はどうぞどうぞと、遠慮深く愛に道を譲ってしまうんです。愛を描きたいという誘惑は映画においてそれほどまで強く、反対に恐怖表現はちょっとしたことで壊れてしまう、実に儚(はかな)いものなんですね。
もし愛と恐怖がどちらも完全にみなぎった映画を誰かが作ったとしたら、それは画期的なことだと思います。例えば生きているうちには達成できなかった強烈な愛を、死んでから成就するような、恐ろしいホラー映画。それは作ってみる価値があるのかもしれません。
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