2024年11月12日火曜日

芥川龍之介 おしの

芥川龍之介 おしの

おしの

 ここは南蛮寺なんばんじの堂内である。ふだんならばまだ硝子画ガラスえの窓に日の光の当っている時分であろう。が、今日は梅雨曇つゆぐもりだけに、日の暮の暗さと変りはない。その中にただゴティック風の柱がぼんやり木のはだを光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。それからずっと堂の奥に常燈明じょうとうみょう油火あぶらびが一つ、がんの中にたたずんだ聖者の像を照らしている。参詣人はもう一人もいない。
 そう云う薄暗い堂内に紅毛人こうもうじん神父しんぷが一人、祈祷きとうの頭をれている。年は四十五六であろう。額のせまい、顴骨かんこつの突き出た、頬鬚ほおひげの深い男である。ゆかの上に引きずった着物は「あびと」ととなえる僧衣らしい。そう云えば「こんたつ」ととなえる念珠ねんじゅ手頸てくび一巻ひとまき巻いたのち、かすかに青珠あおたまを垂らしている。
 堂内は勿論ひっそりしている。神父はいつまでも身動きをしない。
 そこへ日本人の女が一人、静かに堂内へはいって来た。もんを染めた古帷子ふるかたびらに何か黒い帯をしめた、武家ぶけの女房らしい女である。これはまだ三十代であろう。が、ちょいと見たところは年よりはずっとふけて見える。第一妙に顔色が悪い。目のまわりも黒いかさをとっている。しかし大体だいたいの目鼻だちは美しいと言っても差支えない。いや、端正に過ぎる結果、むしろけんのあるくらいである。
 女はさも珍らしそうに聖水盤せいすいばんや祈祷机を見ながら、ず堂の奥へ歩み寄った。すると薄暗い聖壇の前に神父が一人ひざまずいている。女はやや驚いたように、ぴたりとそこへ足を止めた。が、相手の祈祷していることはただちにそれと察せられたらしい。女は神父を眺めたまま、黙然もくねんとそこにたたずんでいる。
 堂内は不相変あいかわらずひっそりしている。神父も身動きをしなければ、女もまゆ一つ動かさない。それがかなり長いあいだであった。
 その内に神父は祈祷をやめると、やっとゆかから身を起した。見れば前には女が一人、何か云いたげにたたずんでいる。南蛮寺なんばんじの堂内へはただ見慣れぬ磔仏はりきぼとけを見物に来るものもまれではない。しかしこの女のここへ来たのは物好きだけではなさそうである。神父はわざと微笑しながら、片言かたことに近い日本語を使った。
「何か御用ですか?」
「はい、少々お願いの筋がございまして。」
 女は慇懃いんぎん会釈えしゃくをした。貧しい身なりにもかかわらず、これだけはちゃんとい上げた笄髷こうがいまげの頭を下げたのである。神父は微笑ほほえんだ眼に目礼もくれいした。手は青珠あおたまの「こんたつ」に指をからめたり離したりしている。
「わたくしは一番いちばん半兵衛はんべえ後家ごけ、しのと申すものでございます。実はわたくしのせがれ新之丞しんのじょうと申すものが大病なのでございますが……」
 女はちょいと云いよどんだのち、今度は朗読でもするようにすらすら用向きを話し出した。新之丞は今年十五歳になる。それが今年ことしの春頃から、何ともつかずにわずらい出した。せきが出る、食欲しょくよくが進まない、熱が高まると言う始末しまつである、しのは力の及ぶ限り、医者にも見せたり、買い薬もしたり、いろいろ養生ようじょうに手を尽した。しかし少しも効験こうけんは見えない。のみならず次第に衰弱する。その上この頃は不如意ふにょいのため、思うように療治りょうじをさせることも出来ない。聞けば南蛮寺なんばんじの神父の医方いほう白癩びゃくらいさえ直すと云うことである。どうか新之丞の命も助けて頂きたい。………
「お見舞下さいますか? いかがでございましょう?」
 女はこう云う言葉のも、じっと神父を見守っている。その眼にはあわれみを乞う色もなければ、気づかわしさに堪えぬけはいもない。ただほとんどかたくなに近い静かさを示しているばかりである。
「よろしい。見て上げましょう。」
 神父は顋鬚あごひげを引張りながら、考え深そうにうなずいて見せた。女は霊魂れいこんの助かりを求めに来たのではない。肉体の助かりを求めに来たのである。しかしそれはとがめずともい。肉体は霊魂の家である。家の修覆しゅうふくさえまったければ、主人の病もまた退き易い。現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架じゅうじかを拝するようになった。この女をここへつかわされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。
「お子さんはここへ来られますか。」
「それはちと無理かと存じますが……」
「ではそこへ案内して下さい。」
 女の眼に一瞬間の喜びの輝いたのはこの時である。
「さようでございますか? そうして頂ければ何よりの仕合せでございます。」
 神父は優しい感動を感じた。やはりその一瞬間、能面のうめんに近い女の顔に争われぬ母を見たからである。もう前に立っているのは物堅ものがたい武家の女房ではない。いや日本人の女でもない。むかし飼槽かいおけの中の基督キリストに美しい乳房ちぶさを含ませた「すぐれて御愛憐ごあいれん、すぐれて御柔軟ごにゅうなん、すぐれてうましくまします天上のきさき」と同じ母になったのである。神父は胸をらせながら、快活に女へ話しかけた。
「御安心なさい。病もたいていわかっています。お子さんの命は預りました。とにかく出来るだけのことはして見ましょう。もしまた人力に及ばなければ、……」
 女はおだやかに言葉をはさんだ。
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺きよみずでら観世音菩薩かんぜおんぼさつ御冥護ごみょうごにおすがり申すばかりでございます。」
 観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色をみなぎらせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据みすえると、首を振り振りたしなめ出した。
「お気をつけなさい。観音かんのん釈迦しゃか八幡はちまん天神てんじん、――あなたがたのあがめるのは皆木や石の偶像ぐうぞうです。まことの神、まことの天主てんしゅはただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召おんおぼしめし一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。」
 しかし女は古帷子ふるかたびらの襟を心もちあごおさえたなり、驚いたように神父を見ている。神父のいかりに満ちた言葉もわかったのかどうかはっきりしない。神父はほとんどのしかかるようにひげだらけの顔を突き出しながら、一生懸命にこういましめ続けた。
「まことの神をお信じなさい。まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キリストばかりです。そのほかに神はありません。あると思うのは悪魔です。堕落だらくした天使の変化へんげです。ジェズスは我々を救うために、磔木はりきにさえおん身をおかけになりました。御覧なさい。あのおん姿を?」
 神父はおごそかに手を伸べると、後ろにある窓の硝子画ガラスえした。ちょうど薄日に照らされた窓は堂内をめた仄暗ほのくらがりの中に、受難の基督キリストを浮き上らせている。十字架のもとに泣きまどったマリヤや弟子たちも浮き上らせている。女は日本風に合掌がっしょうしながら、静かにこの窓をふり仰いだ。
「あれがうわさうけたまわった南蛮なんばん如来にょらいでございますか? せがれの命さえ助かりますれば、わたくしはあの磔仏はりきぼとけに一生つかえるのもかまいません。どうか冥護みょうごを賜るように御祈祷をお捧げ下さいまし。」
 女の声は落着いた中に、深い感動を蔵している。神父はいよいよ勝ちほこったようにうなじを少しらせたまま、前よりも雄弁に話し出した。
「ジェズスは我々の罪をきよめ、我々の魂を救うために地上へ御降誕ごこうたんなすったのです。お聞きなさい、御一生の御艱難辛苦ごかんなんしんくを!」
 神聖な感動に充ち満ちた神父はそちらこちらを歩きながら、口早に基督キリストの生涯を話した。衆徳しゅうとく備り給う処女おとめマリヤに御受胎ごじゅたいを告げに来た天使のことを、うまやの中の御降誕のことを、御降誕を告げる星を便りに乳香にゅうこう没薬もつやくささげに来た、かしこい東方の博士はかせたちのことを、メシアの出現をおそれるために、ヘロデ王の殺した童子どうじたちのことを、ヨハネの洗礼を受けられたことを、山上の教えを説かれたことを、水を葡萄酒ぶどうしゅに化せられたことを、盲人の眼を開かれたことを、マグダラのマリヤにきまとった七つの悪鬼あっきを逐われたことを、死んだラザルを活かされたことを、水の上を歩かれたことを、驢馬ろばの背にジェルサレムへ入られたことを、悲しい最後の夕餉ゆうげのことを、橄欖かんらんの園のおん祈りのことを、………
 神父の声は神の言葉のように、薄暗い堂内に響き渡った。女は眼を輝かせたまま、黙然もくねんとその声に聞き入っている。
「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人ぬすびとと一しょに、磔木はりきにおかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我々は今おもいやるさえ、肉がふるえずにはいられません。殊に勿体もったいない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」
 神父は思わず口をとざした。見ればまっさおになった女は下唇したくちびるを噛んだなり、神父の顔を見つめている。しかもその眼にひらめいているのは神聖な感動でも何でもない。ただ冷やかな軽蔑けいべつと骨にもとおりそうな憎悪ぞうおとである。神父は惘気あっけにとられたなり、しばらくはただおしのようにまたたきをするばかりだった。
「まことの天主、南蛮なんばん如来にょらいとはそう云うものでございますか?」
 女はいままでのつつましさにも似ず、とどめをすように云い放った。
「わたくしの夫、一番いちばん半兵衛はんべえ佐佐木家ささきけ浪人ろうにんでございます。しかしまだ一度も敵の前にうしろを見せたことはございません。んぬる長光寺ちょうこうじの城攻めの折も、夫は博奕ばくちに負けましたために、馬はもとより鎧兜よろいかぶとさえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦かっせんと云う日には、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ大文字だいもんじに書いた紙の羽織はおり素肌すはだまとい、枝つきの竹をものに代え、右手めてに三尺五寸の太刀たちを抜き、左手ゆんでに赤紙のおうぎを開き、『人の若衆わかしゅを盗むよりしては首を取らりょと覚悟した』と、大声おおごえに歌をうたいながら、織田殿おだどのの身内におにと聞えた柴田しばたの軍勢をなびけました。それを何ぞや天主てんしゅともあろうに、たとい磔木はりきにかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下みさげ果てたやつでございます。そう云う臆病おくびょうものをあがめる宗旨しゅうしに何の取柄とりえがございましょう? またそう云う臆病ものの流れをんだあなたとなれば、世にない夫の位牌いはいの手前もせがれの病は見せられません。新之丞しんのじょうも首取りの半兵衛と云われた夫の倅でございます。臆病ものの薬を飲まされるよりは腹を切ると云うでございましょう。このようなことを知っていれば、わざわざここまではまいものを、――それだけは口惜くちおしゅうございます。」
 女は涙を呑みながら、くるりと神父に背を向けたと思うと、毒風どくふうを避ける人のようにさっさと堂外へ去ってしまった。瞠目どうもくした神父を残したまま。………

(大正十二年三月)

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