2025年2月13日木曜日

梶原金八 - Wikipedia

梶原金八 - Wikipedia

鳴滝組 (なるたきぐみ)

昭和10年前後(1934-37ころ)に京都の鳴滝の住人だった映画監督,脚本家のグループの名称。山中貞雄稲垣浩滝沢英輔荒井良平,土肥正幹,三村伸太郎,八尋不二,藤井滋司の8人が〈梶原金八〉というペンネームで新しい自由な映画づくりをめざしてシナリオの合作や共同製作を行った。その意味では戦後のフランスの〈ヌーベル・バーグ〉,とくに映画研究誌《カイエ・デュ・シネマ》の批評家出身のグループに似た存在であったかと思われる。当時,鳴滝の近くの太秦(うずまさ)や嵯峨には,日活,帝キネ,千恵蔵プロ,マキノ,寛寿郎プロの撮影所があり,8人はそれぞれ所属の撮影所は違ったが,お互いにその仕事を助け合った,と脚本家の三村伸太郎は述懐している。

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梶原金八

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(2024年9月)

梶原 金八(かじわら きんぱち、昭和9年(1934年)結成 - 昭和12年(1937年)活動停止)は、架空の人物名であり、かつて京都に存在した脚本家グループ「鳴滝組」(なるたきぐみ)の集団的ペンネームである。

略歴・概要

1934年(昭和9年)、京都の若い映画人である脚本家の八尋不二三村伸太郎藤井滋司、監督の滝沢英輔稲垣浩山中貞雄鈴木桃作助監督萩原遼の8人が「鳴滝組」を結成した。「鳴滝組」の命名は、当時八尋らが住んでいた、京都市右京区鳴滝音戸山町の近代以前の地名、「葛野郡鳴滝村」にちなんでいる。あとから引っ越してきた山中と、その1歳下で山中に師事する萩原が参加して、8人となった。

「鳴滝組」が共同で脚本を執筆する際のペンネームが「梶原金八」である。当時の東京六大学野球のリーディングヒッター、帝大の梶原英夫選手にちなんでいる。[要出典]

メンバーはそれぞれ所属会社が違い、八尋・鈴木が新興キネマ京都撮影所、三村・滝沢が浪人中、稲垣・山中が片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)、藤井が松竹下加茂撮影所、萩原が日活京都撮影所であった。鳴滝は太秦の北側に位置し、嵐電で2駅ほどの距離に多くの撮影所があった。松竹だけが少々遠かった。

「鳴滝組」結成第1作は、並木鏡太郎監督の『右門捕物帖 二百十日』である。この時点では「梶原金四郎」名義でクレジットされていた。同作が公開された同年7月12日の当時、三村が36歳、鈴木が33歳、滝沢が31歳、八尋が29歳、稲垣が28歳、藤井が25歳、山中が24歳、萩原が23歳であった。第2作、山中が応援監督としてクレジットされている小石栄一監督の『勝鬨』で「梶原金八」となるが、第3作の山中監督作『雁太郎街道』では「梶原金六」名義である。初年度はまだ「梶原金八」の名は安定していなかったのだ。[要出典]

第1作『右門捕物帖 二百十日』の公開当時、同作を製作した嵐寛寿郎プロダクションに所属する者はいなかった。「鳴滝組」は京都のさまざまな映画会社の作品を手がけ、「梶原金八」の名は会社間を越境した。

1935年(昭和10年)からの「鳴滝組」の脚本あるいは原作作品は、「梶原金八」とクレジットされるように固定された。滝沢が市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で「鳴滝組」オリジナル作品『晴れる木曾路』を撮り、稲垣・山中は千恵プロから日活京都に移籍し、稲垣が梶原金八脚本『富士の白雪』、ついで稲垣・山中が共同監督し、長谷川伸原作、梶原金八潤色、三村脚本作品『関の弥太ッぺ』を撮り、大ヒットとなったあたりから、忽然と現れた謎の新進脚本家「梶原金八」が業界内でクローズアップされはじめる。[要出典]

時代はサイレント映画からトーキーへの移行期であった。「鳴滝組」の面々と同世代のマキノ正博は、機材を開発してマキノトーキー製作所を設立、低予算トーキーを躍起になってつくっていた時期である。痛快に面白いトーキーが書ける脚本家「梶原金八」は注目を集めた。[要出典]

成瀬巳喜男を追い出したばかりの松竹蒲田撮影所の所長・城戸四郎は「梶原金八を引き抜け!」と躍起になったが、まさか架空の名義とは知らず、またそのメンバーのひとりの藤井が松竹下加茂の人間であるとは知る由もなかった。[要出典]

この活動を期に、高村正次宝塚キネマ葉山純之輔葉山映画連盟の崩壊ののち浪人だった三村は日活京都撮影所へ入社、マキノ・プロダクションの解散以降、各社を転々としていた滝沢はさらに右太プロ、新興キネマを経て、1937年(昭和12年)になると、各社をめまぐるしく動いた山中と同じP.C.L.映画製作所に落ち着き、東京・青山で山中と同居した[1]。鈴木は「土肥正幹」と改名し[2]、萩原は監督に昇進、J.O.スタヂオに移籍した[3]

山中・滝沢が東京に離れ、また同年8月25日に赤紙が来た山中が戦地に赴き、さらには翌1938年(昭和13年)9月17日に戦死したことにより、「鳴滝組」と「梶原金八」の3年の歴史は幕を閉じた。萩原は山中の死の翌年、自らの8本目の監督作『その前夜』に、山中の名と「梶原金八」の名を刻んだ。「梶原金八」は22本の作品を残した。

エピソード

「鳴滝組」が結成されたのは、当時京都下河原にあった「さくら家」という、料亭兼旅館兼席貸という京都独特の家で、ここは映画界と縁が深く、当時日活の池永浩久所長の私的な定宿だった。池永退陣の後は永田雅一もここを利用していた。この「さくら家」で、山中貞雄ら「梶原金八」がいろいろなシナリオを書いていた。この縁で山中の送別会や、山中の戦病死の際の偲ぶ会もこの「さくら家」で開かれた[4]

梶原が架空の連名であることは、戦後になってもまだ知らない人がいて、稲垣浩は「梶原の写真はないか」などと尋ねられることがあったという。「梶原金八」の起こりは京都の鳴滝で、同じ町にいた若い監督や脚本家たちが毎日毎晩集まって飲んだり食ったり、映画の話ばかりやっているうちに「何か面白い時代劇を作ろうか」ということになって脚本を合作したのが始まりだった。リーディングヒッターだった梶原英夫選手から「梶原」の姓を借りたことで、「十本のうち七本は当たるものを書くぞ」と大いに意気込んだという。[要出典]

やがて評判となった梶原の名を聞いて、松竹の城戸四郎が「梶原金八を引き抜け!」と命令したのは有名な逸話だが、命令された製作部長の大久保忠素は、驚いて「そりゃあ、引き抜けと言われれば引き抜きますが、少々引き抜き料は高いですぞ、なにしろ八人もいるんですから」と答えたという。[要出典]

ある雑誌社がこの八人を集めて座談会を開いたことがあり、司会の筈見恒夫が、ファンのために「梶原金八」の合成写真を作ろうと言い出した。このとき山中貞雄はヒゲを生やしたてだったので、「(写真の)重ね焼きでも、ヒゲだけは出るやろな」と言ったところ、三村伸太郎が「ヒゲとアゴは出るさ、半分は山中が持っていくだろう」と言って一同大笑いになったという(山中は長い顔で有名だった)。稲垣は「オールバックにメガネ、口ヒゲに長い顔」という、「梶原の肖像画」を描いている[5]

フィルモグラフィ

1934年

  • 右門捕物帖 二百十日 脚本 「梶原金四郎」名義
監督並木鏡太郎、原作佐々木味津三、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎、共演頭山桂之助尾上紋弥嵐徳三郎川島千恵子松本田三郎
※嵐寛寿郎プロダクション、サイレント
  • 勝鬨 脚本
監督小石栄一、応援監督山中貞雄、原作旗冬吉、撮影石本秀雄、主演片岡千恵蔵、共演花井蘭子林誠之助尾上華丈阪東国太郎矢野武男高津愛子瀬川路三郎高勢実乗香川良介葛木香一吉野朝子松平不二也
※片岡千恵蔵プロダクション、サイレント
  • 雁太郎街道 原作 「梶原金六」名義
監督山中貞雄、脚色三村伸太郎、撮影石本秀雄、主演片岡千恵蔵、共演伏見直江、瀬川路三郎、滝沢静子鳥羽陽之助、矢野武男、渥美秀一郎竹園文子水の江澄子、尾上華丈、林誠之助、香川良介、阪東国太郎、今成平九郎富士咲実市川吉之介
※片岡千恵蔵プロダクション、トーキー

1935年

  • 晴れる木曾路 原作・脚本
監督滝沢英輔、撮影与篤夫、主演市川右太衛門、共演日守新一忍節子大西卓夫梅田菊蔵、葛木香一、尾崎静子山口勝平杉一平天野刃一旗平八郎川島清
※市川右太衛門プロダクション、サウンド版
  • 富士の白雪 脚色
監督・原案稲垣浩、撮影竹村康和、主演大河内伝次郎、共演鳥羽陽之助、高勢実乗、大崎史郎山本礼三郎高津愛子大倉多一郎深水藤子林幸次郎山口佐喜雄大河原左雁次小森敏
※日活京都撮影所、サウンド版
監督稲垣浩・山中貞雄、原作長谷川伸、脚本三村伸太郎、撮影松村禎三・竹村康和、主演大河内伝次郎、共演鳥羽陽之助、山本礼三郎、深水藤子、藤川三之祐清川荘司伊村利江子横山運平沢村国太郎八幡震太郎、高勢実乗、大崎史郎、山口佐喜雄、衣笠淳子市川百々之助
※日活京都撮影所、トーキー
  • 太閤記 藤吉郎走卒の巻 脚本
監督滝沢英輔、原作矢田挿雲、撮影藤井春美、録音マキノ正博、主演尾上栄五郎、共演新妻四郎杉山昌三九松本泰輔田村邦男毛利峰子久松三津枝鈴木勝彦小宮一晃水野浩春路謙作尾上松緑川崎猛夫関猛東栄子、松本田三郎、片桐恒男
※新興キネマ京都撮影所、サウンド版
  • 突っかけ侍 潤色
監督荒井良平、原作子母沢寛、脚本舳下逸発、撮影谷本精史、主演尾上菊太郎、共演沢村国太郎、葛木香一、鬼頭善一郎市川小文治磯川元春今成平九郎尾上桃華、高勢実乗、藤川三之祐、大崎史郎、清川荘司、鈴村京子、高津愛子、花井蘭子、金子春吉
※日活京都撮影所、トーキー
  • 蹴手繰り音頭 前篇 脚本
監督井上金太郎、原作長谷川伸、撮影伊藤武夫、主演坂東好太郎、共演月形龍之介飯塚敏子大内弘小笠原章二郎沢井三郎高松錦之助山路義人新妻四郎長島武夫竹内容一清水英朗千葉三郎坪井哲中川芳江冬木京三
※松竹下加茂撮影所、トーキー
  • 蹴手繰り音頭 後篇 脚本
監督井上金太郎、原作長谷川伸、撮影伊藤武夫、主演坂東好太郎、共演月形龍之介、飯塚敏子、大内弘、小笠原章二郎、沢井三郎、高松錦之助、山路義人、新妻四郎、長島武夫、竹内容一、清水英朗、千葉三郎、坪井哲、中川芳江、冬木京三
※松竹下加茂撮影所、トーキー
監督山中貞雄、応援監督石橋清一、脚本三村伸太郎、撮影松村禎三、応援撮影竹村康和、主演大河内伝次郎、共演黒川弥太郎、高勢実乗、鳥羽陽之助、市川百々之助、横山運平、花井蘭子、鬼頭善一郎、清川荘司、磯川勝彦
※日活京都撮影所、トーキー

1936年

  • 海内無双 原作・脚本
監督滝沢英輔、撮影玉井正夫、主演市川右太衛門、共演佐久間妙子、田村邦男、武井龍三小泉嘉輔、天野刃一、川島清、山口勝久白妙公子、梅田菊蔵
※市川右太衛門プロダクション、サウンド版
監督山中貞雄、応援監督稲垣浩、脚本三村伸太郎、撮影松村禎三、応援撮影竹村康和、主演大河内伝次郎、共演黒川弥太郎、高勢実乗、鳥羽陽之助、市川百々之助、横山運平、花井蘭子、鬼頭善一郎、清川荘司、磯川勝彦、上田吉二郎三好文江、衣笠淳子
※日活京都撮影所、トーキー
  • 江戸の春遠山桜 原作・脚本
監督荒井良平、撮影谷本精史、主演尾上菊太郎、共演高津愛子、深水藤子、鈴村京子、水之江澄子、小林重四郎
※日活京都撮影所、トーキー
  • 宮本武蔵 地の巻 脚本
監督滝沢英輔、原作吉川英治、撮影吉見滋男、主演嵐寛寿郎、共演杉山昌三九、森静子毛利峰子、嵐徳三郎、荒木忍歌川八重子、頭山桂之助、玉島愛造嵐橘右衛門尾上紋弥志村喬阪東太郎
※嵐寛寿郎プロダクション、トーキー
監督藤田潤一、原作近松門左衛門、撮影石本秀雄、主演片岡千恵蔵、共演月形龍之介、芝田新藤尾純、瀬川路三郎、尾上華丈、阪東国太郎、原健作市川友三郎中村園江沢蘭子比良多恵子香住佐代子
※片岡千恵蔵プロダクション、トーキー
監督山中貞雄、原作三村伸太郎、撮影三井六三郎、主演大河内伝次郎、共演鳥羽陽之助、横山運平、高勢実乗、今成平九郎、宗春太郎、衣笠淳子、伊村利江子、石井喜美子、磯川勝彦、香川良介、鈴村京子、左文字一郎、清川荘司、鬼頭善一郎、山口佐喜雄
※日活京都撮影所、トーキー
監督萩原遼、撮影石本秀雄、主演片岡千恵蔵、共演瀬川路三郎、林誠之助、原健作、尾上華丈、阪東国太郎、川端繁、滝沢静子、月形龍之介、芝田新、葛木香一、大倉文男歌川絹枝久松三津江
※片岡千恵蔵プロダクション、トーキー

1937年

  • 戦国群盗伝 前篇 虎狼 脚本
監督滝沢英輔、原作三好十郎、撮影唐沢弘光、音楽山田耕筰、主演河原崎長十郎、共演中村翫右衛門市川笑太郎市川莚司中村鶴蔵中村進五郎山崎進蔵助高屋助蔵市川楽三郎嵐芳三郎瀬川菊之丞山崎長兵衛坂東調右衛門河原崎国太郎千葉早智子橘小三郎山岸しづ江市川扇升伊達里子山縣直代宮野照子椿澄枝清川虹子小島洋々生方賢一郎
※P.C.L.映画製作所・前進座、トーキー
  • 戦国群盗伝 後篇 暁の前進 脚本
監督滝沢英輔、原作三好十郎、撮影唐沢弘光、音楽山田耕筰、主演河原崎長十郎、共演中村翫右衛門、市川笑太郎、市川莚司、中村鶴蔵、中村進五郎、山崎進蔵、助高屋助蔵、市川楽三郎、嵐芳三郎、瀬川菊之丞、山崎長兵衛、坂東調右衛門、河原崎国太郎、千葉早智子、橘小三郎、山岸しづ江、市川扇升、伊達里子、山縣直代、宮野照子、椿澄枝、清川虹子、小島洋々、生方賢一郎
※P.C.L.映画製作所・前進座、トーキー
  • 浮世三味線 第一絃 脚本
監督荒井良平、原作邦枝完二、撮影荒木朝二郎、主演黒川弥太郎、共演花井蘭子、清川荘司、市川百々之助、深川波津子
※日活京都撮影所、トーキー

1939年

監督萩原遼、原案山中貞雄、撮影河崎喜久三、美術考証岩田専太郎、主演河原崎長十郎、共演助高屋助蔵、清川玉枝、中村翫右衛門、山田五十鈴高峰秀子、今成平九郎、瀬川菊之丞、橘小三郎、市川莚司山崎島二郎、市川扇升、市川章次、山崎進蔵、市川進三郎中村公三郎、中村進五郎、嵐芳三郎、阪東調右衛門、阪東みのる、千葉早智子、中村鶴蔵、市川笑太郎、沢村比呂志市川菊之助、山崎長兵衛、市川岩五郎沢村千代太郎嵐敏夫
※東宝映画京都撮影所、トーキー

関連作品

「梶原金八」と彼らを取り巻く人たちを描いた、時代劇専門チャンネルのオリジナルドラマ。メインキャストには、劇団ヨーロッパ企画の所属俳優たちがキャスティングされた。

関連事項

脚注

  1. 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「滝沢英輔」の項(p.239-240)を参照。同項執筆は奥田久司
  2. 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「土肥正幹」の項(p.270)を参照。同項執筆は岸松雄、協力児井英生御代荘輔
  3. 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「萩原遼」の項(p.310-311)を参照。同項執筆は結束信二
  4. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  5. 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

外部リンク

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